義⼈は、信仰によって⽣きる
-
はじめに
●ひとつの聖句を⼼の中に刻みたいと思います。そのひとつの聖句とは、「義⼈は、信仰によって⽣きる」ということばです。このフレーズは、へブル⼈への⼿紙では10章38節にあります。
+ へブル⼈への⼿紙10章35節〜39節
35. あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは⼤きな報いをもたらすものなのです。
36. あなたがたが神のみこころを⾏なって、約束のものを⼿に⼊れるために必要なのは忍耐です。
37.「もうしばらくすれば、来るべき⽅が来られる。おそくなることはない。
38. わたしの義⼈は信仰によって⽣きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
39. 私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。
●このヘブル⼈への⼿紙を書いた著者の⽬的とするところは、この⼿紙を読む者を信仰に導くことです。特に、信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストに⽬を向けさせることでした。39節に「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」とありますが、この意味するところはなんでしょう。当時の迫害において、信仰から離れる者もいましたが、そこまでいかなくても、信仰が弱くなってしまったクリスチャンがいたようです。現代の⽇本においては、迫害はありませんが、世界でも前例のない稀に⾒る⾼齢化社会を迎えようとしています。迫害はなくても、信仰の意識の薄れは否応なく襲ってきます。別な意味で、信じることの意識の後退が起こります。しかし、たとえ、そうであったとしても、それは決して「滅びに⾄る」ものではありません。
神の恵みが滅びることを許しません。信じる者の安全は不動なのです。もしこの神の恵みがなかったならば、だれも救われることはありません。「義⼈は、信仰によって⽣きる」からです。
1. わたしの義⼈は、信仰によって⽣きる。
●「義⼈は、信仰によって⽣きる」というこのことばは、実は、旧約聖書にある預⾔書ハバクク書2章4節にあることばです。新約聖書では以下の3箇所に引⽤されています。それぞれ同じ箇所のみことばを引⽤していても、その強調するポイントが異なります。
(1) ガラテヤ書3章11節―「義」
●神の前に義と認められるのは何によってかというところに焦点が当てられます。神の前に義と認められるのは、律法を⾏うことによってではなく、ただ信仰によってのみ義とされるということ。この場合の「義」とは、神に受け⼊れられ、神に喜ばれることを意味するかかわりのことです。つまり、「義」とは「正しいかかわり」(関係概念)という意味です。ですから「義⼈」とは、神から⾒て正しいかかわりをもっている⼈ということになります。しか
し、神から⾒て正しい⼈というのは、道徳的・倫理的に⽴派とか、品⾏公正な⼈という意味ではなく、あくまでも神を信じる⼈、どこまでも神を信じる者だということです。
(2) ローマ書1章17節―「信仰」
●神を信じる信仰―特に「イエス・キリストを信じる信仰」に焦点が当てられます。信仰による救い、信仰による勝利が強調されています。
(3) ヘブル書10章38節―「⽣きる」
●信仰によって⽣きることに焦点が当てられています。特に、旧約聖書に登場する⼈物が取り上げられています。
その頂点にイエス・キリストがおられます。この⽅こそ、信仰の創始者、信仰の完成者として紹介され、その⽅から⽬を離さないように、と勧告しています。ヘブル書が提⽰している「義⼈は信仰によって⽣きる」というみことばは、「⽣きる」というところに焦点が当てられています。11章では、信仰によって⽣きるとはどういうことかを、旧約に登場する具体的な⼈物を取り上げながら、信仰によってどう⽣きたかについて記されています。これから私たちも、その中から幾⼈かの⼈物を取り上げて学んでいく予定ですが、その前に、「信仰によって⽣きる」という「信仰」とは何か。へブル⼈への⼿紙11章1節には、その信仰の定義が記されています。まずそこから⾒ていきたいと思います。ただしこの信仰の定義は、へブル書のいう定義です。パウロならば、「信仰とは、神が遣わされた御⼦イエス・キリストを信じる信仰」と定義するでしょう。しかしへブル⼈への⼿紙の信仰の定義は、また違った意味で定義されているのです。
2. ダイナミックなヘブル的信仰の定義
●ここに同じ⾔葉で訳されている「望んでいる事柄」とは、いったい何でしょうか。私たちがそれぞれ⾃分勝⼿に思い望んでいることでしょうか。「こうしたい、あれしたい、これがほしい、あれがほしい、こうであったらいいのに」という類のことでしょうか。これが信仰の定義だとは到底思いません。それは信仰ではなく、利⼰的な願望です。では、ここでいう「望んでいる事柄」とはどんな意味でしょう。
実は、ヒントは 11 章 1 節に記されているのです。この⼿紙はヘブル⼈(ユダヤ⼈のこと)である著者が、クリスチャンになったユダヤ⼈(へブル⼈)に宛てた⼿紙です。ユダヤ⼈たちのある特異な表現⽅法というものがあります。詩篇でもそうなのですが、同じ内容のことを、別な⾔葉で表現し直す「同義的並⾏法」(パラレリズム)という叙述⽅法があります。たとえば、詩篇 15 篇 1節に次のような表現があります。「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るでしょうか。だれが、あなたの聖なる⼭に住むのでしょうか。」この場合、「あなたの幕屋に宿る」ことと、「あなたの聖なる⼭に住む」ことは同義なのです。
●へブル⼈の⼿紙11章1節も実は同様に理解することができます。
「信仰とは、望んでいる事がらを保証する(確信させる)もの」 「信仰とは、⽬に⾒えないもの(事実)を確信(確認)させるもの」つまり、「望んでいる事柄」= 「⽬に⾒えないもの」とは同義です。
「保証するもの」= 「確信させるもの」も同義です。「望んでいる事柄」と「⽬に⾒えないもの」とが同義であるならば、それは「天にあるもの」、あるいは「永遠の事柄」ということになります。私たちの望んでいる事柄は⼤⽅「⽬に⾒えるもの」ではないでしょうか。
使徒パウロは⾔いました。「私たちは、⾒えるものにではなく、⾒えないものにこそ⽬を留めます。⾒える者は⼀時的であり、⾒えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント 4章18節)
●ヘブル⼈の⼿紙の作者も「⽬に⾒えない永遠の事柄」を保証し、確信させる、それが信仰だと定義しているのです。さらに、この永遠の事柄については、11章6節にもその説明がついています。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる⽅であることとを、信じなければならないのです。」 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと 信じなければならない 神を求める者には報いてくださる⽅であること
●この6節の説明の中で、「永遠の事柄」とは、以下の⼆つです。
(1)神がおられるという事実
(2)神を求める(・・・)者には(必ず)報いてくださるという事実
この⼆つの事実を永遠に変わらない事柄だと信じなければならないことが挙げられています。信仰とは、まさに、この「永遠の事実」、つまり、神がおられること、神を求める者には報いてくださるということ、この⼆つを確信させて⾃分のものとして⽣きることを意味しています。
●「神に近づく者」と「神を求める者」という表現も実は同義的並⾏法です。いずれも⾮常に積極的な神とのかかわりを述べている表現です。へブル書のいう神に喜ばれる信仰者とは、「神に近づく者」「神を求める者」を⾔っているのです。そのような信仰、つまり永遠の事柄を確信して、かつ積極的に、神に近づき、神を求めた者たちの名前がヘブル書 11 章に挙げられています。そこにはアベル、エノク、ノア、アブラハム、その妻サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、遊⼥ラハブ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、預⾔者たちなど。
3. 信仰によって⽣きたアベル へブル⼈への⼿紙11章4節
信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義⼈であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
●ここには「アベルが義⼈である」と記されています。はじめて神から義とされた⼈物は、アブラハムだと私は思っていましたが、ここを⾒ると違っていたことに気づかされます。聖書で最初に神から義とされた⼈物は、なんとアベルだったんですね。アブラハムは信仰によって義とされた、神から受け⼊れられたということですが、アベルの場合にも、「信仰によって」と11:4にありますから、信仰によって義とされたということが分かります。⾏いではなく、信仰によって義とされたアベル。信仰によって神から⽬を留められたアベル。彼はどのような信仰をもっていたのでしょうか。その前に、アベルが聖書に登場する箇所を⾒ておきましょう。
+ 創世記4章1〜5節
1. ⼈は、その妻エバを知った。彼⼥はみごもってカインを産み、「私は、【主】によってひとりの男⼦を得た」と⾔った。
2. 彼⼥は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは⽺を飼う者となり、カインは⼟を耕す者となった。
3. ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、
4. アベルもまた彼の⽺の初⼦の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに⽬を留められた。
5. だが、カインとそのささげ物には⽬を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
●兄のカインのささげものは、地の産物でした。弟のアベルのささげものは、⽺の初⼦でした。なぜ、神である主は、カインのささげものには⽬を留められず、弟アベルのささげものに⽬を留められたのでしょうか。なぜこのような区別が⽣じたのでしょうか。それぞれ⾃分の職業にふさわしいささげものであったはずです。もっと厳密に⾒るならば、聖書には「主はアベルとそのささげ物とに⽬を留められた。だが、カインとそのささげ物には⽬を留められなかった。」とあります。「⼈物とその⼈物がささげたささげもの」が密接な関係にあることを⽰しています。ささげもの⾃体ではなく、それをささげた⼈物の内にある「なにか」が問われているのです。
●ちなみに、アベルのささげものが神に受け⼊れられたことを妬んだ兄のカインに対して、神はこう⾔いました。
「あなたが正しく⾏ったのであれば、受け⼊れられる。ただし、あなたは正しく⾏っていないなら、罪は、⼾⼝で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたはそれを治めるべきである。」(4:7)
ささげものが神に受け⼊れられるのは、ささげものそれ⾃体ではなく、そのささげものをささげた者の⼼なのです。
ささげものはその⼼の外的表現なのです。アベルのささげものが神に受け⼊れられたのは、「⽺の初⼦の中から、それも最上のものを持って来た」からでした。しかしカインにはそうした記述がありません。ささげものが最上のものではなかったということになります。
●へブル書では、創世記のアベルのささげものが「いけにえ」と⾔い換えています。しかも「すぐれたいけにえ」です。創世記では「最上のささげもの」、へブル書では「すぐれたいけにえ」となっていて、いずれも「最上の」「すぐれた」という表現があります。アベルがそうしたささげもの、いけにえをささげたその⼼のうちにあるものがどのようなものであったかが⼤切なのです。「うちにあるもの」その「何か」とは、信仰のことです。アベルの⾏為は「信仰によって」なされたものであったとするなら、その信仰とはどんな信仰なのでしょうか。しかも、「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」というその信仰とは・・私が思うに、神にいつも⾃分の⽣涯において、神はいつも良いものを与えてくださっているという信仰ではなかったかと思います。それが神に対する感謝の表われとして、「最上のささげもの」「すぐれたいけにえ」としてささげられたのではないかと思います。神がどのようなお⽅であるかという信仰が、ささげものにおいて表わされたということでしょう。⾃分の能⼒とか、⾃分の品性とかではなく、神をどのようなお⽅として信じているかが、神にとっての関⼼事であったということです。
●ヘブル11章6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる⽅であることとを、信じなければならないのです。」とあります。神に近づく者は、「神がおられることと、神を求める者に報いてくださる⽅であることを信じなければならない。」とあります。
ここを正しく理解する必要があります。まず、「神がおられることを信じなければならない」というのは、神が存在するとかしないとかということではありません。存在の是⾮を⾔っているのではなく、神がどのようなお⽅であってくださるのか、ということを知らなければならないということです。たとえば、神がいつも⾃分に良いものを与えてくださる⽅だということを知り、信じなければならないということです。そしてさらに、「神を求める者に報いてくださる⽅であることをも信じなければならない。」とは、⾃分が信じたそのとおりの⽅として⾃分に報いてくださると信じなければならないということです。つまり、神が良いお⽅であると信じるならば、いつもそのようなお⽅として⾃分にかかわって下さるのだと信じなければならないという意味です。アベルのささげものは、そうした信仰の表現としてささげられたものだったのです。しかし兄のカインのささげものは、そうした信仰の表現
としてはささげられなかったので、神から⽬を留められなかったのです。
●もう⼀度、11章4節のみことばを読んでみましょう。
「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義⼈であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」
「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」とはどういう意味でしょう。アベルは正しい信仰で神にささげものをしたことで、神から⽬を留められたことによって、兄のカインの嫉妬によって殺されてしまいました。このように、信仰によって⽣きることは、時には不信仰な者によって苦しみを受けたり、迫害を受けたりすることがあるかもしれません。まさにこの⼿紙が書かれた時代ではそういうことがあったのです。しかし、知ってください。主なる神は、すべての義⼈の流された⾎を決して忘れません。覚えておられるのです。
その意味で、「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」という表現で、私たちに励ましを与えているのです。
●「義⼈は、信仰によって⽣きる」ということばを⼼に刻みましょう。そうしたひとりの⼈物としてアベルを取り上げました。彼のように、いつも私たちに良いものを惜しみなく与え、注いでくださっている神がおられることを信じて、その⽅にふさわしいかかわりを表してあらわしていく者となりましょう。神は私にとって良い⽅であるという信仰がなければ、いつも感謝をささげていくことはできません。ましてや神に喜ばれるささげものをすることはできません。信仰がなければ、神と良いかかわりを築いていくことはできないのです。
http://meigata-bokushin.secret.jp/swfu/d/auto_MyD6mc.pdf