香油のかおり
- ヨハネ福音書12:1-7 -
シャローム宣教会
[ヨハネ福音12:1-7]「1.イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。2.人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。3.マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
4.ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。5.「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」6.しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。7.イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。」8.あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」
序言
ベタニヤの村に住むマリヤに対して、イエスは他の女性には見せない特別なまなざしがあります。イエスとベタニヤのマリヤとのかかわりに注目してみたいと思います。
1. イエスにとってベタニヤという村の存在
「ベタニヤ」という村は、イエスの地上での生涯において特別な村でした。地理的には、エルサレムの南東約3キロ(ヨハネ11:18によると15スタディオン)、オリーブ山の東麓にあった村(マルコ11:1,ルカ19:29)です。特に、最後の一週間はベタニヤとエルサレムの間を往復されていました。イエスにとってベタニヤの村は特別な場所であったのはなぜか。それは、そこにマルタとマリヤ、そしてその兄弟ラザロが住んでいたからです(ヨハネ11章)。また、イエスの昇天の場所もこの近くと言われます(ルカ24:50,使1:12)。
2. マリヤのイエスへの香油注ぎ
本文、ヨハネ福音書12章にあるひとつの記事を通してみてみたいと思います。「過越の祭りの六日前」の出来事として、ベタニヤのマリヤの家において、イエスとその一行をもてなすための食事―夕食―の場面が記されています。
[本文、1-3節]
= この記事では、マルタは相変わらずもてなしのための食事の給仕をしています。
+ 死んで生き返ったラザロはイエスとのその弟子たちの間に混じり込んで、食事の席についています。一方、マリヤは何をしたかと言えば、「非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。」とあります。これもイエスの心をひとしお満足させるものでした。「非常に高価な」とは、とてつもなく高価なという意味で、今でいうならば、三百デナリは約一年分の給料に当る額です。
[ナルドの香油とは: 甘松という植物の根から抽出する、ヒマラヤ原産の油です。当時、イスラエルでは非常に高価なものであったのです。当時、香油を客人の足に注ぐという風習はなかったようで、マリアが取った行動は異例なものであったことが分かります。これまで誰もしたことがないことを、彼女は行いました。]
[本文、4-7節]
= なぜマリヤはそんな高価な香油をイエスに惜しげもなく注いだのでしょうか。
+ 考えられる第一の理由は、弟ラザロのよみがえりの感謝のゆえです。
自分の弟であるかけがえのないラザロのよみがえりの感謝としてということが当然あったと思います。人間の力ではどうすることもできない。たとえどんなお金を積んでも死んだ者を、しかも死んで四日もたっている死人を生き返らせることは不可能です。それをイエスは生き返らせたのですから、踊り上がって喜ぶことは当然でしょう。
+ 考えらるもうひとつの理由は、彼女が「きわめて重要な事柄」を悟っていたことのゆえです。- 「… マリヤはわたしの葬りの日のために、...」-
マリヤという女性はいつもイエスの語る言葉に耳をじっと傾けていた女性です。弟子たちもイエスの語ることを聞いてはいましたが、悟ることにおいては、今一、鈍かった感じがあります。特に、イエスのエルサレムにおいての受難の予告は理解できないでいました。イエスの心を満たし、喜ばせたマリヤは弟子たち以上にそのことを悟っていたとみなしても考えすぎではないと思うのです。
+ 面白いと思うのは、イエスと親しくしていた彼女がなぜイエスの墓に行かなかったかという点です。
他の女性たちが墓に正式な埋葬を遺体に施すために行っているのに、マルタとマリヤは行っていません。イエスから愛され姉妹たちであればなおのことです。おそらく彼女たちはイエスがよみがえることをラザロの奇蹟を通して、またイエスの話しを聞いているうちに、悟っていたのではないかと私は思います。弟子たちは「死んだのち、よみがえる」という話をイエスからなんども繰り返し聞かされていたにもかかわらず、耳に入っていませんでした。しかし、とりわけマリヤはそのことを受留め、悟っていたのではないか思います。
+ それを見ていた弟子のひとりが(ヨハネははっきりとイエスを裏切ることになるイスカリオテのユダ[彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである]と名ざしていますが(本文、ヨハネ12:6)、他の福音書では「弟子たち」となっています)、マリヤのしたことを見て、なんともったいない、納得しがたい無駄な愚かな浪費として映ったようです。しかし、イエスはこの時にも彼女を弁護しています。「そのままにしておきなさい。」と。
[マラキ書3:8-9]「8.人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。9.あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。」
結言
+「私の埋葬の日のために」、身体に香油を塗る、悲しいことなのですが、マリヤはイエスが葬られた後によみがえるというイエスのことばを、そのままに受け入れた唯一の一人だったと言えます。それゆえに葬りの準備をしたと言えます。彼女にとっても最も高価な香油をこのときこそ役立ってもらえる方に注いだのです。人の目にはなかなか見えませんが、イエスに対するマリヤの信仰は実に深いところでしっかりと結びあっているのです。
+ マタイやマルコの福音書の並行記事では、「マリヤ」という名前はなく、「あるひとりの女」と記されています。しかもこの女のしたことは、「世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられるところなら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」と記しています。ところがなぜか、ヨハネにはその部分がありません。そのかわりに、マタイとマルコにはなくて、ヨハネにだけある部分があります。それは「家は香油のかおりでいっぱいになった」という表現です。なんと美しいことばでしょう。