恵みの手段としての神の御言葉

第2部 神の律法


 


序論


 


 組織神学における神の律法についての考察は、種々の場所を持った。ある者たちは、組織神学の下にではなく、倫理学の一部と考えて、考察した。他の者たちは、神の律法を体系の異なったところ置いた。たとえば、ダブネー(Dabney)は、神の律法を原罪(the original sin)との関連において考察した。チャールズ・ホッジ(Charles Hodge)は、他方、神の律法を、敬虔な生活のための案内として(as the guide  for godly living)、聖化の章の後に置く。これらのアプローチのどちらかの場合もあるが、わたしたちは、神の律法を、恵みの手段としての御言葉についての陳述の部分として、ここに含める。何故なら、律法は、クリスチャンとクリスチャンでない人(the non-Christian)の両方に適用するからである。


 聖書は、信仰の規範であり、実践の規範の両方である。律法は、特に、実践の規範であり、それは、わたしたちに対して、何が義(righteousness)であるかを定義し、また、こうして、わたしたちをキリストに導く養育係(a schoolmaster)であり、また、ひとたびわたしたちが律法に来ると、わたしたちの日毎の生活の案内(a guide for our daily living)でもある。そのようなものとして、罪人をキリストに導き、また、信者が恵みのうちに成長するのを助けることにおいて、特に、恵みの手段である。


 このことは、律法についての余すところのない扱いではないが、しかし、生活のためのそれらの意味に関する指し示しをもって、単純に、戒めの各々についての概説である。この作業の開始の章において、わたしたちは、神学の研究は生活の聖さのためでなければならないことを指し示した。この部分において、わたしたちは、それゆえ、この作業における他のところよりも以上に、実際の実践を直接扱う。


 わたしたちは、戒めの概観を単純に提示することを求めるのであり、また、戒めの各々を扱っているすべての個所についての余すところのない釈義的な扱いを提示することを求めてはいないので、わたしたちは、何が求められ、また、何が禁止されているかの両方を考察して、ウェストミンスー教理問答書のパターンに従う。このことは、組織神学についてのこの作業が、他の部分から外れることになる。何故なら、わたしたちは、信条や信仰告白に導かれることなしに、聖書からより直接的に神学を展開することを求めたからである。この部分において使用される教理問答書は、律法についての同様な聖書的な神学的な扱いが提示され得ないことを意味しない。教理問答書を使う理由は、空間と時間における経綸のため(for economy in space and time)である。


 


1. 聖書における律法の場所


 


A.  聖書における用語の異なった使用法


 


1.「律法」という用語は、聖書においては、いろいろな方法において使われる。最初に、神の啓示の全体(the whole of God’s revelation)に言及して使われる。このことは、詩編1:2の使用法と思われる。そこで、作者は言う。「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」。これは、まさに十戒への言及であり得るが、しかし、それは、神の啓示全体の広い意味においてよく理解されるであろう。そのような使用法は、神が言われるすべてのことは、御自分の被造物に対する律法の力をもっているという概念に基づいている。


 


2.第2の使用法は、新約聖書が、律法の範疇の下にある旧約聖書に言及するものである。ヨハネ10:34において、わたしたちは、「そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか」を見い出す。イエスが引用している個所は、詩編82:6で、こうして、わたしたちは、イエスが律法としての全旧約聖書に言及しているのを見る。


 


3.イエスは、モーセ5書をこの範疇において言及するとき、より制限された意味において、再び「律法」とい用語を使った。このことは、律法、預言者、諸文書(the writings)という範疇の下に、旧約聖書に言及するユダヤ人の一般的な習慣に一致する。ルカ24:44において、わたしたちは、イエスがこの3重の区分を使っているのを見い出す。「イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」。「律法」という用語は、それゆえ、モーセ的な文書のすべてに言及している。


 


4.とはいえ、その用語の他の使用は、神の道徳律法の何かの教え(any precept)への言及である。箴言28:4は、次のように読む。「教えを捨てる者は神に逆らう者を賛美し/教えを守る者は彼らと闘う」。これは、真理を主張するために、律法の要求への言及と思われる。同様の使用法が、ローマ2;14において見い出される。「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです」。このことは、十戒への特別な言及なしで、神の道徳的な綱領(God’s moral code)として理解される。こうして、異邦人たちは、実際に、十戒を知らずして、殺人は悪であることを理解する。


 


5.儀式律法も、「律法」という用語によって言及される。ヘブライ10:1は次のように読む。「いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません」。ここには、言及は、綱領ではなく、儀式体系(the sacrificial system)にある。


 


6.聖書における「律法」の最も明白な使用法の一つは十戒へのこの範疇における言及である。マタイ22:36-40は、この使用府に従う。ひとりの律法学者がイエスに問う。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」(36節)。イエスは、2つの大きな戒めに言及して答えた。「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(40節)。これは、全体としてのモーセ5書への言及であろうし、あるいは、十戒への言及かもしれない。律法としての十戒への言及の習慣は、なお今日もそうであるように、イエスの時代には一般的であった。「神の律法」というこの章の表題をつけることは、十戒における各々の戒めについての論評を伴って、第一義的には十戒への言及を持つのである。


 


7.「律法」という言葉は、原理(a principle)の意味においても使われる。パウロは、ローマ7:23において、律法をこの仕方において使う。「わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」。パウロが、何かの道徳的な綱領に言及しているのではなく、自分自身の内に働いている2つの原理に言及していることは、明らかである。その一つは、「心の法則」、そして、他は「罪の法則」である。


 


 


8.最後に、わたしたちは、新約聖書において、律法的な原理と恵み深い原理の対照を見い出す。このことは、ファリサイ派は、モーセ5書の律法を救いの途に入れることを求めた事実から引き出された。すなわち、ファリサイ派は、律法順守を救いの途と主張した。彼らは、律法を、人間が完全な従順によって自分の救いを得ることができるわざの契約への回帰と見たのである。、ローマの信徒への手紙とガラテヤ人への手紙の両方におけるパウロの論拠は、律法と恵みを2つの対立する原理として対照させている。ローマ6:14において、「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」。パウロは、十戒は最早、妥当性を持たないことを言っているのではない。パウロが言っていることは、律法の法的要求を守ることによって、わたしたちの救いを得るという原理の下に、わたしたちはいないということでなのである。むしろ、救いは、わたしたちに、キリストを通して恵み深く備えられ、与えられていて、救いは、信仰のみによって受けられるのである。


 


B.律法と福音の区別


 


ベルコフ(Berkhof)もシェッド(Shedd)も、恵みの手段としての御言葉の2つの部分を語る。すなわち、律法と福音である。「宗教改革の教会は、そのまさに最初から、恵みの手段としての御言葉の2つの部分として、律法と福音を区別した」(Berkhof.,op.cit.p.612)。この区別は、旧約聖書と新約聖書の間の区別を同一視することではなく、むしろ、両方の聖書において見い出される律法と福音の間の区別に言及したのである。


 「・・・(律法は)命令と禁止の形態における神の意志の啓示である聖書にあることごとくのものから成る。他方、福音は、それが旧約聖書にあれ、新約聖書にあれ、和解のみわざに関し、また、キリスト・イエスにある神を求め、罪を贖う愛に関することごとくのものから成るのである」(Idem.)。


 パウロは言う。律法は、わたしたちをキリストに導く養育係(the schoolmaster)である。律法は、罪人の心を罪に対する後悔へと目覚めさせる。福音は、イエス・キリストへの救いに至る信仰を目覚めさせる。それゆえ、律法は、福音の準備である。「律法は、罪の意識を深め、そして、こうして、罪人を贖いの必要性を意識させる」(Idem.)。


 律法も福音も、同じ目標を目指す。すなわち、罪人の回心である。それらは、両方が恵みの手段の不可欠の部分なのである。


 わたしたちは律法の下にではなく、恵みの下にいるというパウロの教えは、わたしたちの思考から律法を完全に捨てることができる(can dismiss)ことを意味すると主張する多くの者たちがいた。この見解は、パウロが、律法はキリストへ導く養育係であることを教えていることを認めることに失敗しているし、また、へブライ人への手紙の著者が、律法を「福音への準備的で不完全な状態における福音」(gospel in its preliminary and imperfect state)(Idem.)と見ていることを認めることに失敗している。近代の契約期分割主義(modern dispensationalism)は、律法不要論的見解(antinomian view)のこの類の執着している。ベルコフはコメントする。「キリストは、律法の呪いを担ったし、また、わざの契約の条件も満たしたが、キリストは、契約の何かの取り決めから離れてしまって、神の被造物のゆえに人間が服従すべき生活の規範としての律法は、彼らのために満たさなかったこと(he did not fulfill the law for them as a rule of life, to which man is subject in virtue of his creation)を、彼らは忘れているように思えるのである」(Ibid.,p.613)。


 律法は、福音の準備だけではなく、律法は、クリスチャンにとって、恵みと聖化における成長の案内(the guide)としても留まるのである。キリストは、クリスチャンが従うべき模範として、示したので、わたしたちは、どのような環境下においても、クリスチャンが何を行うかを知ることができるのである。というのは、クリスチャンは、神の律法を持つであろうし、また、常に従ったのである。キリストは、儀式律法においてキリストについて予示されていたことすべてを実現したのであり、また、道徳律法(the moral Law)の教えにしたがって完全に生きたのである。


 


C.道徳律法の神聖さと永続性(the sanctity and perpetuity of the Moral Law)


 


このことは、道徳律法は、わたしたちを束縛し続けるかどうかの疑問をわたしたちにもたらす。最初に、「道徳律法」(moral law)によって何が意味されているかを定義しよう。


 道徳律法は、結局、神の道徳的な性質の反映あるいは表われ(the reflection or expression of the nature of God)である。神は聖い、義しい、善であり、また聖い、義しい、善である律法は、単純に、神の聖さ、義、善である(John Murray,The Sanctity of the Moral Law in Collected Writings,op.cit.Vol.1.p.196)。


 この道徳律法は、十戒の中に要約して含まれている(ウェストミスター小教理問答 問41)。


 ジョン・マーレーは、この断言についてコメントする。「そような立場の叙述は、福音主義的家族の内側にも外側にも両方において近代の思想の多くの局面に非常に不愉快なものである。それは、義務についての外的に啓示され、課せられた綱領の概念、正しい感情、思い、行動の規範が、クリスチャンの生活の自由と自発性と一致していると論じられる(John Murray,Collected Writings,op.cit.Vol.1.p.198)。


 提示されているのは、わたしたちが、愛を、律法を守ることに代えることである。この理念に応答して、それは、パウロは、律法を守ることが愛であると教えたことが考察されるべきである。愛と律法は、聖書においてお互いに対立しない。


 イエス御自身が、マタイ5章における十戒について御自身の裁可を置いている。「従順と罪についての非難に関する御自身の教えは、十戒の永遠的権威と不可侵の聖さに浸されている。・・・そうだ、わたしができ得る限りの強調をもって、わたしは言う。すなわち、道徳律法の永遠的権威と不可侵の聖さの否定においては、わたしたちの聖い信仰のまさに中心に直接の趣旨(the thrust)がある。というのは、それは、わたしたちの主御自身の真実と権威の趣旨がある。もし、わたしたちが、キリスト教宗教に広く行き渡った攻撃(the widespread attack)へ速度(speed)と力(force)を与えることを望むならば、わたしたちは、この無律法主義の宣伝(this antinomian propaganda)を是認し、支持する必要がある」


(Ibid.,p.201-202)。


 「神は変わらない;御自身の道徳的完全さも変わらない;御自身の道徳的律法も変わらない。・・・わたしたちが、律法に響く恐るべき聖さを認めるとき、わたしたちは、わたしたち自身が地獄に価する罪と希望のない不可能性の感覚(a sense of our own hell-deserving guilt and hopeless inability)で、確実に打ち砕かれるであろう。・・・しかし、その状況において、わたしたちの耳に、また、わたしたちの心の中に入って来る福音、十字架につけられ、そして、よみがえられた贖い主にして主についての福音の甘美な知らせを経験するのである。『キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです』(ガラテヤ3:13)。わたしたちは、カルバリに来るように強いられる(be constrained to come to Calvary)であろう」(Ibid.p.203)。


 ソーンウェル(Thornwell)は、十字架との関連において律法と福音の関係について語る。「十字架の下に立ち、その場面を理解する者は、敢えて罪を犯さない;それは、彼の下の地獄があるからでなく、あるいは、彼の上に怒りの神がいるからではなく、聖さがそこに支配するのを感じるからである―彼が立つ根拠は、神聖であり、主の栄光が彼を囲むからであり、また、モーセのように、彼は自分の足から靴を脱ぐからである。十字架は、尊ぶべき場所である。わたたしは、そこにいたい。それは、わたしが、単に永遠の命への所有権を読むからでなく、わたしが神の偉大性を学ぶからである・わたしは、その用語をよく考えて上で使う。神は決して真に偉大で、非常に神聖であるようには見えない。それは、原理の純粋な力から(from the pure energy of principle)、彼の性格を汚すのではなく、御自身の御個の人格において死ぬように御自身を与えるときである。誰が、敢えて道徳的特徴の言葉を濁し、また、その死を不名誉よりも大きな悪として語るだろうか。強力な造り主である神が、真理あるいは正義以上に死んで、名誉を傷つけられるべきか。誰が、カルバリのふもとで、罪を小さな事柄と非難できようか」(James Henry Thornwell,Cllected Writings,op.cit.Vol.Ⅱ.pp.460-461)。


 


Ⅱ.律法の効用(the uses of the law)


 


 律法の効用についての疑問について考察することにおいて、このことは、十戒への適用として理解され、また、それから派生する律法の全体(the corpus of laws)への適用と理解される。カルヴァンとルターは、律法の性質について異なった。ルターは、律法は単純に各々の主題についての神の意志の表明と感じたが、しかし、このことは、与えられることができた唯一の可能な律法ではなかった(not only possible law)。こうして、盗むなという戒め(the commandment)は、神がそのように言うので、真実である。ことによると、神は異なった戒めを与えることもできた。他方、カルヴァンは、律法は神の性質の啓示であることを主張した。それゆえ、律法は、永遠の真理の啓示である。この理解をもって、改革派の思想家たちは、律法は歴史のすべての期間におけるすべての人々に対して永続的な妥当性を持つことを主張した。


 


A.  罪を示すものとしての律法(law as revealer of sin)


            (usus elenchiticus or pedagogicus)


 


 律法は、明らかに、キリストに導く養育係と言われる。「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです」(ガラテヤ3:24)。パウロは、こうして、律法の手段による救いに反対して論じたガラテヤの信徒への手紙においてさえも、律法はわたしたちへの益を持つことを教えた。彼は、律法は救いの手段であること以上に、異なった益を持つことを断言したのである。それは啓示的な益であり、罪人たちをキリストに導く手段である。この使用法は、律法が十戒に狭く言及するものとしして解釈されるか、あるいは神の言葉の啓示全体に広く言及するもとして解されようようとも、律法の益に適用される。もし、律法が十戒だけを意味するならば、そのとき、戒めの各々についての説教は、罪人たちを自分たちの罪と、自分たちが、天の父が完全であるようにわたしたちも完全であるべきという神の要求に全的に適わないことの確信の下に連れていく手段となる。もし、わたしたちが、律法を神の啓示された言葉の全体に言及するものと理解するならば、そのとき、戒めは救い主の必要を指し示すが、しかしまた犠牲を通して赦しの恵み深い備えを持った儀式律法、また、預言者たち、祭司たち、王たちが来るべきメシアを指し示した全経綸(the entire economy)と見ることは容易である。旧約聖書の啓示のすべては、そのゆえ、キリストに導く養育係となる。これはこの明らかな律法の益であるので、律法はキリストの外側の罪人たちに説教されるべきである。近代の教会の大きな怠慢の一つは、キリストの外側にいる者たちへの律法の説教の妥当性を見ることの失敗である。律法は、神が定めた手段である。罪人たちを自分の罪と救い主の必要性に直面させるのである。


 


B.聖化の規準としての律法(usus normativus)


 


律法の第2の益は、信者たちの聖化のための規範として見ることである。この使用法は、今日、多くの福音主義的クリスチャンによって論争されていてる。論争は、パウロが、律法について、ローマの信徒への手紙とガラテヤの信徒への手紙において言っていることから生じる。これらの両方の手紙において、わたしたちは、律法の下にではなく、恵みの下にいると、パウロは主張している。このことにより、パウロは、誰も律法を守ることによっては救わず、救いは神の恵みによる賜物であることを、主張している。律法の益も拒否する者たちは、クリスチャンの生活のことごとくの領域において、わたしたちは律法の下にはおらず、かえって、恵みの下にいることを強要する(press)。こうして、律法はクリスチャン生活において場所を持たない。しかしながら、実際、もし、人が聖化の規準が律法でなく、キリストの生涯(the life of Christ)であるならば、その人は律法を無効した(avoided)のである。というのは、イエスが生きた基準は神の律法であったのである。こうして、もし、イエスが、聖化におけるわたしたちの偉大な模範であるならば、イエスは、わたしたちに、律法を聖さの規準として指し示すのである。というのは、イエスは全律法を完全に守ったからである。またもし、律法が、神の性質の啓示であるならば、そのとき、律法はどの時代にも妥当するのである。パウロが聖化について教えるとき、パウロは律法を引用する。パウロは、ローマ13章において、律法を引用する。パウロは、聖化の過程(the sanctification process)について語り、その中において、パウロは、内的人において(in the inward man)、神の律法を喜んでいるのである(ローマ7:22)。ヤコブの手紙の注意深い読み方は、律法は山上の説教におけるイエスの教えに非常に類似していることを示している。ヤコブは、聖書に従って王的律法(the royal law)の順守を語っている(ヤコブ2:3)。ヤコブは、さらに、行いのない信仰は死んでいることを示す。ヤコブが言及している行いは、神の律法への従順の行いである。イエスも、御自身の戒めを守ることは、イエスに対する愛の証拠であることを教えた。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」(ヨハネ14:15)。


 


C.罪の抑制としての律法(the law as a restraint to sin)


(usus politicus or usus civilis)


 


律法の2つの直接的な益に加えて、律法の説教の有益な副次的作用(the side-effect)がある。そのような説教は、世における罪に対する影響を抑制するものとして行為すること仕える。種々のヨーロッパの国々の法律体系(the law systems)は、十戒に基づいている。このことは、英国法(the English law)に関して真実であり、


それはアメリカ法(America law)の基礎となった。人が、法律の人間的体系(any human system of law)の性質を分析するとき、彼はそれが十戒を含んでいることを認めるに違いない。法は、究極的な権威―神か人間に基づいている。社会は、社会の法が基づく神学的な基礎を脇にどけると、社会は法律構造全体(the whole law fabric)を失う危険に置かれる。このことは、今日、アメリカにおける現在の状況である。国の法のために彼らの国を適切な神学的な基礎に戻るように呼びかけることはクリスチャンの義務である。


 


D.審判の日のための準備としての律法


 


 律法の他の使用法は、律法が審判の日のための準備として仕えるという事実は、常にはリスト化されていない。審判の日が来ることについての説明を読むとき、わたしたちは、それらは人間がその行いによって裁かれることに言及しているのを見い出す。その規準は神の律法である。パウロが、ローマ2章で教えるとき、異邦人でさえも、自分たちの心に書かれた神の律法を持っている。その律法は、神の律法の完全な形態でないであろうが、しかし、すべての人々が罪人であることを示すのに十分なのである。審判の日に、すべての人々は罪人として裁かれる。小羊の血で洗われた者たちは、彼らの罪から贖われるが、しかし、尊い血の下に飛び込まなかった者たちは、神の律法を守ることの自分たちの失敗の罰を担わなければならない。


 


Ⅲ.十戒の解釈の規則


 


 改革派教会は、十戒は倫理綱領全体(the whole ethical code)の要約であると主張する。このことは、イエスと使徒たちが、新約聖書において、より小さい教えを十戒の説明の部分として含めたという事実から引き出された。わたしたちは、このことを、特別な戒めのあるものについてのわたしたちの講解において見るであろう。ウェストミンスター神学者たちは、大教理の問99において、十戒の解釈の8つの規則を表明している。わたしたちは、これらの点を要約しよう。


 


A.  律法は、完全で、すべての人々を拘束する


 


このことは、律法は、神御自身の性格の啓示として、遠の真理であるという改革派の概念と調和する。そのようなものとして、律法は、すべての人々に絶対的な完全を要求する。イエスは、わたしたちの天の父が完全であるように、完全であるように言った。


 


B.  律法は霊的である


 


 律法は、言葉、行い、仕草と同様に、霊魂の力としてのわたしたちの理解、意志、感情を包含する。イエスは、このことを、山上の説教において、律法が外面的な行いと同様に内面的な欲望に適用することを示したとき、明らかにした。


 


C.義務が求められているところでは、反対のことが禁止されている。また、罪が禁止されているところでは、反対の義務が命じされている。同じことが約束と威嚇についても言える。


 


D.命じられている義務と禁止されている罪の間には区別がなされている。禁止されていることは、いつでもなされてはならない。義務は、常にわたしたちの義実であるが、ある特別な義務はすべてのときに要求されているのではない。このことは、安息日の命令の下の場合に明らかである。


 


E.各々の罪の下に、あるいは、義務の下に、同じ類のものが禁止され、あるいは、命じされている。十戒は、わたしたちに、主な代表的な義務、あるいは。特別な範疇における罪が与えられている。イエスは、律法のこの類の適用を山上の説教において行った。たとえば、殺人に反対して、怒りと不適切な言葉を扱った。


 


F.命令へのあるいは禁止への奨励の手段が、命令あるいは禁止に含まれている。こうして、わたしたちは、ある罪を犯さないように命じられるだけなく、わたしたちは、他の人に同じことを挑発しないようにあるいは奨励するようにすべきである。このことは、特に、社会における権威のわたしたちの各々の場所におおいて、わたしたちに適用され得る。家庭において権威ある者たちは、律法を自分たちの子供たちに適用することを求めるべきであり、また、子供たちに罪を犯させるであろうこと何事でも避けさせるのであるる。


 これが、大境問答問99において見い出される8つの点の要約である。学ぶ者は、これらの諸原則についての十分な叙述に対するその疑問に言及されるのである。


 


Ⅳ.十戒の考察


 


A.  十戒の序言


 


「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト20:2)のこれらの言葉に含まれている十戒の序言(トマス・リッジェイ・Thomas Ridgeleyの「キリスト教宗教の教理が説明され、防御されている神学体系(A Body of Divinity)、大教理問答についての幾つかの講義の本質である:エドモントン:Still Water Revival Books,1993,これらの諸原則についてのより十分な説明を見よ)は、律法を与えることについての文脈を提示している。すなわち、エジプトからのイスラエルの救出である。神は、彼らが贖われる前でなく、贖われた後で、律法をイスラエルに与えた。昔のファリサイ派によるこのことの意義を認めることの失敗は、また、律法の恩恵的性格を見ることをしない者たちによる失敗は、律法についての重大な誤解へと導いた。これらの言葉において、神は、イスラエルに、御自身が彼らの契約の神、「わたしは主、あなたの神」であることを思い起させる。神は、さらに、彼らの主であることにおいて、御自身の主権性を断言している。神は彼らに、御自身が全能の神であるという事実を思い起させている。神は、また彼らの記憶に、彼らをエジプトから、また彼らがその中に生きていた奴隷であることから救出した御自身のみわざを告げている。このことすべてのえに、彼らは、神の戒めを守るべきなのである。


 


B.  第1戒


 


第1戒は、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト20:3)。


 


1. この戒めの視野と意味


 


 第1戒は、明らかに十戒の基本的な戒めである。第1戒は、わたしたちは、ヤーウェ(Jehovah)を真の神として認めるべきことを意味している。そのようなものとして、わたしたちは、彼を神として知るべきであり、彼を信頼すべできであり、彼が彼であり、また神が御自身について宣言するものを信じるべきである。わたしたちは、彼の言葉を真実なものとして安んじるべきである。わたしたちは、彼にすべての宗教的な献身と礼拝を与えるべきである。最高の義務は、イエスがそれを十戒の要約において表明したように、この戒めに含まれている。すなわち、「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」(マタイ22:37)。戒めは、ただひとりの真の神がおられるという事実を意味する。この神は、御自身のすべての被造物が、御自身を神と認め、その光の中において神の前に生きることを要求するのである。


 


2. 求められている義務


 


 わたしたちの神として神を持つことの理念は、多くの意味を持つ。ダブネー(Dabney)は、この戒めに含まれているものとして、10の義務をリスト化している。


 


a.  最初に、神をこの上なく愛する義務がある。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)。


 


b.  すべてのわたしたちの道徳的な行為は、神の啓示された意志によって規制される。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。


 


c.  第3の義務は、誰に仕えるかを宣言するかを民に呼びかけた後で、ヨシュアがしたように、公に神に負い、神を認めることである。


 


d.  は、民が、自分たちが仕えるべきお方を宣言するように呼びかけた後で、行ったように、神に負い、また、公的に神を認める義務である。「ヨシュアは民に言った。『あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身である。」彼らが、「そのとおり、わたしたちが証人です』と答えると」(22:24)。わたしたちもオープンに、主を宣言すべきである。


 


e.  第4の義務は、わたしたちが行うことごとくのことにおいて、神の栄光を求める義務である。「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(コリント一10:31)。それは、わたしたちが、常に神の前にいて、わたしたちが行うことごとくのことが神の栄光のためになされること、また、わたしたちは、真に、神としての彼を持っていることを認めるときである。


 


f.  第5の、そして、要求されている最も明白な義務は、。神が要求することがふさわしいと見るとき、わたしたちが、神に宗教的礼拝のすべての行為を帰すべきことである。詩編の作者は、彼が、「【賛歌。ダビデの詩。】神の子らよ、主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ」(詩編29:1-2)と言ったとき、このことを感じていたと思われる。


g.  わたしたちは、わたしたちへの神のすべての益に対して神に感謝すべきである。再び、詩編の作者は、言う。「ハレルヤ。恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに」(詩編106:1)


 


h.  わたしたちは、神の約束を信頼すべきである。イザヤは、彼が「どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩」(イザヤ26:4)と言ったとき、このことを教えた。


 


i.  わたしたちは、神の懲らしめに進んで服すべきである。「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」(ペトロ一5:6)。


 


j.  わたしたちは、怒りにある神を恐れるべきである。「敵は皆、恥に落とされて恐れおののき/たちまち退いて、恥に落とされる。」(詩編6:11)。


 


k.  わたしたちは、神に対してわたしたちの罪を悔い改めるべきである。「どこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」(使徒言行禄17:30b)。


 


l.  最後に、わたしたちは、彼をわたしたちの受ける分、また、わたしたちの永遠の嗣業として神を選ぶべきである。「地上であなたを愛していなければ/天で誰がわたしを助けてくれようか。」(詩編73:25)。「わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み/目覚めるときには御姿を拝して/満ち足りることができるでしょう」(詩編17:15)。


 


3. 禁止された罪


 


 この戒めにおいて禁止されている罪は、これらの義務、あるいは、わたしたちの神としての神を持つことにおいて、また、この事実についての意識的な感覚において神の前に生きていることにおいて含まれている他の意味される義務において、失敗することである。わたしたちが直面する最も重大な罪の一つは、この世の事物に過度の愛着(inordinate affections)あるいは貪欲(coveteousness)を持つことである。パウロは、これを偶像礼拝として描く。「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい」(エフェソ5:5)。再びコロサイ3:5において、パウロは言う。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない」。ヨブ記31:24-28において、黄金あるいはこの世の物を愛することは、天にいます神を否定することであると示す非常に鋭い個所がある。「わたしが黄金を頼みとし/純金があれば安心だと思い 財宝の多いことを喜び/自分の力を強大だと思ったことは、決してない。太陽の輝き、満ち欠ける月を仰いで ひそかに心を迷わせ/口づけを投げたことは、決してない。もしあるというなら これもまた、裁かれるべき罪である。天にいます神を否んだことになるのだから」。


 ここに、わたしたちは、この世の物への愛着を置くこと、それらに信頼を持つことは、神を否定することであることを、明らかに見る。ローマ1章の後半は、そのような背教への告発である。「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。


 1:22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました」(ローマ1:21-24)。


 


4. 考察


 


 他のすべてと共に、この第1戒は、個人に向けて語られている。神が、シナイ山からイスラエルの全会衆に対してこれらの戒めがとどろいたとき、それは印象的な光景であった。しかし、神は、「あなたがたはこれを行うべきである」(Ye are to do this)とは言わなかった。むしろ、神は、彼らに個人的に語りかけた。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」等である。如何に、律法は、突き刺すよう(pnenetrating)である!わたしたち一人一人が、わたしたちは、戒めのどれにも失敗したこと、また、神の栄光に足らないことを見い出すのである。わたしたちは、如何に感謝できることか、福音が恵みの福音であること、それによって神が御自身の御子において御自身の上にわたしたちの罪を取り、また、わたしたちの偶像礼拝的な方法に対して罰を支払ってくださったことを。


 


C.  第2戒


 


第2戒は次のようである。「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(出エジプト20:4-6)。


 


1.第2戒の視野


 


 この戒めは、如何にして、わたしたちは、ひとりの生きた真の神を礼拝すべきかを扱っている。わたしたちが、聖書の宗教を分析するとき、その足元に横たわる2つの


本質的な原理がある。最初の原理は、わたしたちがすでに第1戒で扱ったもので、すなわち、ただひとりの生ける真の神、天と地の創造者がいますことである。第2の根本的な原理は、この神は霊(a spirit)であることである。神は、こうして、どのようなかたちにおけるわたしたちの認識能力を超えている。モーセは、シナイにおける神との対面において、彼らはどのようなかたちも見なかったことを、明らかに民に思い起させている。


 「あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった。堕落して、自分のためにいかなる形の像も造ってはならない。男や女の形も」(申命記4:15-16)。


 イエスは、神は、霊と真理をもって礼拝されねばならないということを、神の霊的な性質から直接的な結論を引き出したのである。


 


2.求められている義務


 


 わたしたちが、すでに律法を解釈する規則の下に注目したように、禁止されている罪は、果たすべき反対の義務である。第2戒は、偶像的な手段を通した礼拝を禁止しているので、それゆえ、求められている義務は、適切な礼拝の義務である。神を霊と真理をもって礼拝することが、わたしたちの義務である。


 第2戒は、礼拝の様式(the manner of worship)を扱っていることを考察せよ。その意味は、わたしたちがどのように礼拝するかに非常に関心を持っている。どのようにして人間は、神を適切に礼拝するかに関しての教えに献げられているモーセ五書(the Pentateuch)の大きな部分によって裏付けられる。


 教会の早い時代と特に中世において、教会の発展において、この事実は忘れられた。中世の教会は、彼らの礼拝において、不適切な形態と儀式のあらゆる類において発展させた。それらは、聖書に命じられていなかった。宗教改革者たちの到来によって、わたしたちは、教理においてだけでなく、礼拝においても、教会を改革する企てを見い出した。ルターは、これらの改革を始めた。彼は、改革派の人々が行ったようには、その影響を礼拝の中には持ち込まなかったのである。彼の原理は、禁止されていないものは、礼拝において許されるべきであった。カルヴァンは、他方、わたしたちは、明白に教えられていること、あるいは、聖書からの十分で必然的な推論によるもの(by good and necessary consequence)を礼拝に置いたのである。この原理の影響は、ウェストミンスター信仰教理問答における最も明白な表現に来るのである。


 「第2戒は、神が御言葉において定めておられるすべての宗教的礼拝と規定(ordinances)を、受け入れ、実行し、純粋かつ完全に保つことを求めている」(ウェストミンスター小教理問答第50問)。「第2戒は、像により、あるいは神の御言葉によって定められていないなんらかの仕方で、神を礼拝することを禁止している」(ウェストミンスター小教理問答第51問)。


 このことを、礼拝における導きのための適切な原理と主張して、わたしたちは、聖書において明白に教えられている礼拝のこれらの諸要素のみを含むように大きな注意をするべきである。ローマは(ウェストミンスター小教理第50問)、規範的な原理から逸脱しただけでなく、聖書において教えられていない種々のかつ多くの儀式と伝統が加えられ、多くの近代の福音主義的教会も、長老教会と改革派教会の教派の幾つかも含んで、この原理から逸脱したのである。これらの幾つかの教派は、それ自身においては、罪がないが、しかし、人が、彼らは人間の考案による礼拝を構成していることを認めるとき、そのとき彼らは定罪されるだけである。


 


3.禁止されている罪


 


 戒めによって禁止されている特別な罪は、刻んだ像を作ること(making of graven images)の罪であり、また、神を、それらを通して礼拝することである。最初に、このことは、創造されたものの芸術的な表現の定罪ではないことが言われるべきである。モーセは、天使とケルビムの表現を作ることが命じされたが、それらは、幕屋において使用され、後には、神殿で使用された。それらは決して礼拝の対象ではなく、それは、聖所の神に定められた部分であった。イエスが、税金に質問の直面したとき、イエスは、コインの見本を自分に持ってくるように求めた。彼は言った。「イエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。彼らは、『皇帝のものです』と言った。すると、イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った」(マタイ22:20-21)。イエスは、コインにカエサルの肖像の使用を定罪しなかった。イエスは、それを認め、それを肖像として語った。こうして、第2戒を、すべての芸術の形態を禁止するものとして解釈することは不適切である。それが禁止しているところのものは、神についての何かの表現(any representation of the Godhead)である。神についての描写のそのような企ての愚かさが、イザヤ書40章の後半において論じられている。そのような表現は、戒めにおいて明らかに禁止されているし、また、レビ記26:1の「あなたたちは偶像を造ってはならない。彫像、石柱、あるいは石像を国内に建てて、それを拝んではならない。わたしはあなたたちの神、主だからである」のような他の過所においても禁止されている。


 偶像礼拝は、イスラエルとユダの歴史の両方を通して審判が訪れた罪であった。実際、偶像礼拝は、これらの王国の両方の陥落の主な原因の一つであった。


 偶像礼拝を神が憎むことに対する理由は、偶像礼拝は、偶像礼拝をする者たちの側の霊的淫乱(spiritual harlotry)を含んだことである。如何に注意深く、わたしたちは、今日、どのような偶像礼拝の形態に陥らないようにすべきである。


 ピューリタンたちは、一般的に、このことに大きな懸念をもっていた。この戒めを重大に取った者たちは、聖所における宗教的な象徴を何も望まなかった。しかしながら、今日、ピューリタンたちの霊的な子孫たちは、この遺産を忘れた。わたしたちは、種々の宗教的な象徴の聖所への導入を見る。その論拠は、これらは礼拝者たちに、イエスを思い起させるためである。わたしたちは、イエスがわたしたちに与えたものを思い起させられる必要がある。イエスを思い起させる唯一の適切な目に見える象徴は、主の晩餐である。彼は、命令しなかったし、また、わたしたちは、新約聖書に、十字架の使用の例も見い出さないし、あるいは、キリストを表すあるいは彼の救いもみわざを表す他の宗教的な象徴も見い出さない。というのは、人間は、この領域において、神よりも賢明であると思うことは、自分たち自身を神の上に置くことである。この日と時代において、わたしたちは、宗教改革を必要としているが、それは教理的な教えにおいてだけでなく、礼拝の実践においてもである。


 


5. 戒めに付け加えられている理由


 


 父祖たちの罪を子孫たちに問い、神を愛する者には幾千代にも及ぶ慈しみを与えることに関するこの戒めに付け加えられている理由は、この戒めをわたしたちが守ることに対する神の大きな熱心と関心を示している。わたしたちは、礼拝における両親の子供たちの適切な訓練を無視する両親の結果を怠けるとき、如何に威嚇と約束の両方が働くかを見るのである。父祖たちの罪は、文字通リに彼らの子孫たちとその後の世代に及ぶのである。他方、如何に感謝すべきか。神はわたしたちを家族の関係性に置き、そして、両親が自分たちの子供たちを神の適切な礼拝において、訓練することにおいて忠実であるとき、神を愛して、神の戒めを守る者たちへ、神は、その後の幾世代も愛と憐みをもって祝福するのである。


 


D.  第3戒


 


第3戒は、次のようである。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」(出エジプト20:7)。


 


1. 戒めの視野


 


この戒めは、神の御名と神の自己啓示のすべてについての敬虔な扱いを含む。特に                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            


この戒めの意味は、聖書の多くの個所において見い出される。わたしたちの舌(our tongue)の適切な使用について語っている。この戒めは、その意味において非常に広い。というのは、この戒めは、それによって神が御自身を啓示することごとくのこと―創造と摂理のすべてを含むからである。こうして、この戒めは、語ること(speech)だけに関係するのでなく、神が創造し、行ったことごとくについてのわたしたちの使用にも関係するのである。


 


2. 求められている義務


 


 この戒めは、神の御名と神が御自身を知らせることごとくのものについての敬虔な使用を求めている。特別な義務は、神の御名と諸属性の敬虔な使用を求めている。神の御名は、神への意図された言及があるとき以外に、使用されるべきではない。


 創造されたものとしての人間は、全地を支配するようにとの命令をもって、全地の管理(stewardship over all the earth)が与えられた。地の支配は、地は主の物であり、また、わたしたちは、神の栄光のために地を使用するべきであるという感覚をいつももってなされるべきである。クリスチャンたちは、自然の世界と環境の適切な使用の導き手であるべきである。


 


3. 禁止された罪


 


 わたしたちがすでに考察したように、この戒めは、創造と摂理の全体を含めて、意味において広い。何故なら、これらは神が御自身を知らせる手段であるからである。地の破壊、地の産物に対するわたしたちの強欲は、この戒めによって禁止されているのである。


 禁止されている特別な罪は、神の御名の無益な使用である。主の御名をみだりに使用することは、わたしたちの回心における光と神の御名の不真面目な使用に言及する。神の御名の無益な使用は、偽りの誓いである。この戒めが誓いをすることすべて禁止しているかどうかという疑問が生じた。


4. 誓いの頃柄が考察される(the matter of oaths considered)


 


 わたしたちが、誓いをする(to take an oath)べきであるかどうかの疑問に対する理由は、イエスが、山上の説教において、この戒めについてコメントすることにおいて用いた絶対的な言い回しに基づいている。


 「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。


 5:36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」(マタイ5:34-37)。


 イエスの言い回しは絶対的な言葉においてである。わたしたちが、聖書が聖書を解釈することを許す規則を適用するとき、それは、この明白な用語法は、文字通リの意味において表すことが意図されていなかったのである。


 誓い(oaths)は、特にモーセによって命じされた。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」(申命記6:13)。再び、レビ記19:12は次のように読む。「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である」。


 これらの命令は、第3戒の解説(explanatory)である。わたしたちは、偽って誓って(not to swear falsely)はならない。それは神の御名の無益な使用法である。わたしたちが、誓いをする(take oaths)ときは、わたしたちは、神の御名を、すべての敬虔と真剣さにおいて使用すべきである。


 新約聖書において、わたしたちは、裁判のとき、誓いをすること(taking oath)


を見い出す。「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」(マタイ26:63-64)。


 大祭司がイエスを誓いの下に(under oath)置くときまで、イエスは御自身の平安を持っておられた。ひとたびイエスが誓いの下に(under oath)置かれたとき、イエスは、御自身について尋ねられたことを肯定した。これに加えて、わたしたちは、使徒たちが誓いをしたこと(taking oaths)を見い出す。たとえば、パウロは、ローマ1:9において言った、「わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし」。再び、コリント二1:23において、パウロは言った。「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです」。ガラテヤ1:20において、パウロは断言した。「わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません」。


 もし、それゆえ、神の御名において誓いをすること(to take oaths)の明らかの命令があるならば、また、イエスと使徒たちが同じことをしたという模範があるならば、わたしたちが、マタイ5:34とヤコブ5:12の絶対的な言い回しにおいて、誓い(oaths)の使用を禁止しているのを見い出すのは、どのようなことか。これらの叙述は、人間は嘘をついていない限りは、誓いをすることができる(could swear)というユダヤ的理念(the Jewish idea)の反駁において成されたのである。また、ユダヤ人たちは、人は、神以外によって誓うことができると教えたのである。イエスは、人が天によって、神殿によって誓うとき、神の御名の使用の意味を避けていないことを示している。これらのすべてのことは、神に関係しているし、またも、こうして、神の言葉の代わりとされるとき、神の御名において誓い(an oath)がなされるのである。


 わたしたちは、ユダヤ的な代替物(the Jewish substitutes)について言うときも、わたしたちの日のいわゆる「弱い口調のののしり」(the so-called minced oath)にも適用するのである。(神(God)の遠回しな表現の)goshあるいは、gollyなどのような無意味な用語の代替物は、神の御名に対する薄く覆われた代替物(thinly veiled substitutes for the name of God)なのである。Dog gone(ちくしょうの意:God damn:直訳は、神が罰する)という表現でさえも、神の御名を使うののしり言葉(an epithet)である。神の御名を無益に使わないために、その戒めを破ることを避けてきたと思うことは、わたしたちがそのような用語を代わりとするとき、イエス御自身がこの領域において教えたことに直接反することになるのである。イエスは、わたしたちは、わたしたちの「然り」と「然り」、「否」を「否」とすることの教えをもって、御自身の教えを結論したのである。もし、人が、誉れのある人ならば、そのとき、彼の話(speech)は、正直であろうし、また、彼はより高い権威への呼びかけをもって、自分の話を強調する必要はないのである。


 合法的な誓い(lawful oaths)に戻ると、誓い(an oath)は、神の存在また、神の全知と偏在の承認を意味することが考察されるべきである。誓いは、世界を支配する道徳的な神の統治への信頼、また、わたしたちの主権的な審判者としての神への人間の責任性を意味するのである。こうして、これらのことを信じない人は、彼が神の御名を呼ぶとき、誓いを適切にはしない(does not properly take an oath)のである。合法的な誓い(lawful oaths)は、これらの事実を信じる者たちによって最も真剣になされるのである。誓い(they)は、信者にとっては、事実上、礼拝の行為なのである。誓い(AAn oath)は、最も真剣で厳粛な折にのみなされるべきである。誓いが国家や教会の権威ある職務者によって命じられるときには、誓いは合法的である。人は、わたしたちに不必要に誓いをすること(to take oaths unnecessarily)を求めない社会を始めるべきかどうかを問うかもしれない。これらが無益な誓い(vain oaths)の性質にならないのだろうか。


誓い(vows)は、神への約束である誓い(oaths)から区別される。それらは、適切な目的に関してのみ(only regarding proper objects)、また法的資格のある人々によって(by competent persons)なされる。再び、それらは礼拝の行為の性質である。


 


5.第3戒に付け加えられている理由


 


 その戒めは、神は御名をみだりに唱える者を罪無くしては置かないという警告をもって結論している。この戒めを破ることは、人類の最も一般的な罪の一つである。疑いもなく、テレビやラジオにおけるコミュニケーションの近代の手段と共に、そのことは常にそうであったが、そのことは、近代社会において非常に大きな程度にまで増大した。クリスチャンたちは、公共のメデアにおいて、神の御名の無益な使用が禁止されるべきという彼らの文化を押し進める必要がある。その継続を許すことは、人々にこの領域において罪を犯させるのみとなる。人間は、神の御名の無益な使用を追い払うことができると思えるが、しかし、この威嚇は極めて明らかである。神は、この罪に陥る者を罪無しとはしないのであろう。


 この罪を防ぐことの最大の手段の一つは、若い子供たちに誓いをしないことをあるいは誓いの代わりのもの(their substitutes)をしないように教えることである。


 


E.  第4戒


 


第4戒は次ぐのようである。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト20:8-11)。


 


1.この戒めの意図


 


 ホッジ(Hodge)は、この戒めの7つの意図について7点をリスト化している。


 


a.  創造のみわざを記憶すること


 


b.  生ける真の神の知識を保持すること


 


c.  今の外向きの生活を止めて(to arrest the current outward life)、わたしたちを霊的なもの(the spiritual)に向けること


 


d.  教えのために時間を取ること、また、公的礼拝と私的礼拝のためにも


 


e.  原初の代の呪い(the primeval curse)の下にあるものの回復のため、安息を確保すること


 


f.  神の民の最終的な安息の型として仕えること


 


g.  神と神の民の間の契約のしるしとして仕えること


 


2.この戒めの永続性と永続的義務(the permanence and perpetual obligation of

    the command)


 


 わたしたちが、第4戒に来るとき、わたしたちは、それについて多くの論争が教会においてある戒めに来るのである。この戒めは、永続的に拘束的(permanently binding)かどうかという疑問が生じた。他の戒めについては、疑問はない。殺人、姦淫、盗み、虚偽は常に禁止されてきた。しかしながら、安息日の命令(the Sabbath command)についての疑問は、それほど明らかでないので、こうして、論争に服してきた。それは、改革派神学、特に、ウェストミンスター基準書における結実となり、安息日は、永続的性質のもの(of a permanent nature)であり、また、人間に永続的な義務のもの(of perpetual obligation)であった。このことは、いろいろな事実から見られよう。最初に、わたしたちは、すでに戒めの意図を見た。意図のこれらの点のすべてが、永続的な価値(of perpetual value)である。


 第2に、十戒において現われる第4戒は、その永続性のための証拠(evidence for its permanence)であるという事実である。他の9つすべての戒めは、明らかに永続的義務のもの(of perpetual obligation)である。それゆえ、第4戒も、この同じ永続的な性格に参与している(participates in this same permanent character)。


 第3に、この戒めを破ることに対する罰は儀式律法の通常の違反をはるかに超える(far above a normal breach)。「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと』(出エジプト31:14)。


 第4に、預言者的書物は、安息日を喜びとして語り、また、これはメシアの時代についての特徴であることを意味する(イザヤ58:13-14)。


 第5に、十戒授与に先行する旧約聖書の期間についての研究は、安息日は、シナイに先行してすでに存在していた。ここには、安息日への明らかの言及を持つ幾つかの節がある。それは、創造の定めとして始まる。


 「第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(創世記2:2-3)。


創世記4:5、「カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒


って顔を伏せた。・・・」。


創世記8:10、「更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した」 


創世記29:27、「とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。


そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもら


わねばならない」。


創世記50:10、「一行はヨルダン川の東側にあるゴレン・アタドに着き、そこで


非常に荘厳な葬儀を行った。父の追悼の儀式は七日間にわたって行われた」


出エジプト12:15-30、「 七日の間、あなたたちは酵母を入れないパンを食べる。まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く。この日から第七日までの間に酵母入りのパンを食べた者は、すべてイスラエルから断たれる。最初の日に聖なる集会を開き、第七日にも聖なる集会を開かねばならない。この両日にはいかなる仕事もしてはならない。ただし、それぞれの食事の用意を除く。これだけは行ってもよい。あなたたちは除酵祭を守らねばならない。なぜなら、まさにこの日に、わたしはあなたたちの部隊をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、この日を代々にわたって守るべき不変の定めとして守らねばならない。正月の十四日の夕方からその月の二十一日の夕方まで、酵母を入れないパンを食べる。七日の間、家の中に酵母があってはならない。酵母の入ったものを食べる者は、寄留者であれその土地に生まれた者であれ、すべて、イスラエルの共同体から断たれる。酵母の入ったものは一切食べてはならない。あなたたちの住む所ではどこでも、酵母を入れないパンを食べねばならない。』」モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つため巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった」。


十戒授与に先行して安息日が存在していたという事実は、結婚と他の道徳的な義務と同様に安息日がモーセ期に続いて存在し続けたことを意味する。


 戒めの永続性への反対は、新約聖書が安息日を再叙述していないように見える事実から引き出される。この戒めについての再叙述がないことは真実であるが、しかし、新約聖書には与えられた十戒がないことを覚えるべきである。十戒にあったことごとくのことを再叙述する必要はない。何故なら、それは、決して廃止されないからである。


 安息日の継続へ反対する第2の論拠は、新約聖書が、7日のうち1日を守ることにへの言及において無言であることである。実際、キリストは、山上の説教において行ったところのことは、他の戒めと共に、第4戒に関係していた、すなわち、ユダy人たちによって主張された誤りを正すことであった。イエスは、律法を廃止するために来たのではないことを明らかに述べられた。


 安息日の継続へ反対する第3の論拠は、パウロは、安息日は、ローマ14:5とコロサイ2:16において順守されるべきでないことを示している。これらの個所の文脈は、救いのために必要なこととしての偽りの律法主義を強調することを試みたユダヤ主義者たちの分脈である。特に、彼らは、儀式律法の適用を主張したが、それはいろいろな安息日(various Sabbaths)を含んでいた。パウロが、反対しているのは、敬虔の規準としての十戒ではなかった。


 安息日の継続への反対する第3の論拠は、週ごとの安息日(a weekly Sabbath)は、福音と矛盾することが示唆されるときである。福音は、全生涯(the whole life)の献身を要求し、1週間に1日ではない。これに答えて、旧約聖書は、7日のうちの1日の献身のみを求めていることを示唆することは、旧約聖書の適切な理解ではないことが指摘されるべきである。福音は、旧約聖書以上に信者たちの献身を要求していることは、単純に真実ではない。


 近代人は、安息と礼拝の強制された日でなくて、リクレーションの日を必要とすることが示唆される。議論のそのような線は、神の御言葉が、第4戒によって禁止されているそれらのものの下で、リクレーションを特別に含んでいるという事実を認めることに失敗している。イザヤは、真の安息日の順守への勧めにおいて、安息日におけるわたしたち自身の喜びとすることを語っていない。多くの場合、世俗的な人々は、使い方を誤った日曜日から元気を回復して、月曜日を過ごすのである。


 


3.安息日についての新約聖書の解釈


 


 安息日についてのイエスの解釈を扱う新約聖書の主な個所は、マタイ12:1-3、マルコ2:23-28、ルカ6:1-5である。これらの個所は、安息日に麦の穂を摘んだ弟子たちについての説明を持つ。実際にこの出来事は、申命記23:15において許容されている。安息日の適切な順守に関する続く基本的な原則は、これらの個所から派生し得る。


 


a.  彼らの飢えによって造り出された必要性は、弟子たちの行為を正当化した。


 


b.  安息日における神殿での必要な働きをしている祭司たちの模範は、必要性のそのような働きに対する旧約書の正当化(Old Testament Justification)を与えた。


 


c.  神は、憐みを排除して、単に、律法への律法的な外面的な順守ではなく、憐みを持って、律法の精神をもって律法を順守することをより好むのである。


 


d.  律法は、部分的には、人類の福祉の人間的な目的のために制定された。


 


e.  メシアとしてのキリストは、安息日を守ることにおける神的権威であったし、また、こうして、イエスは安息日を守ることについての真の解釈を与えることができたのである。イエスは、律法をゆるめることはせずに、律法の適切な解釈を与えたのである。


 安息日の律法についての外面的なあるものは、儀式的であり、永続的ではない(not permanent)が、律法の本質は、永続的(perpetual)である。必要な働きと憐みを行うことは、安息日の命令が道徳的な命令ではないことを意味しない。むしろ、安息日の命令は、形式的で外面的な礼拝は、真の聖さの真の精神(the real spirit of true holiness)以上に重要ではないとい事実を再強化することに仕える。安息日は、人間のために作らたことは、人間が安息日を乱用してよいことを意味せず、かえって、労働からの安息とリクレーションの日が、霊的なレフレシュメントを受けるため、人間の究極的な福祉のためなのである。安息日に対する御自身の主性についてのキリストの断言は、モーセ的な安息日の真の解釈を述べる彼の権利に対する最終的な論拠として主張されたのである。


 コメントを必要とする新約聖書の個所の第2の一団は、ローマ14:5-6、ガラテヤ4:9-11、コロサイ2:16-17に見い出されるそれらである。


ローマ14:5は、次のように読む。「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです」。


ガラテヤ4:9-11は、次のように読む。「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。 あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」。


コロサイ2:16-17は、次のように読む。「だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります」。


 これらの個所における疑問の安息日(the Sabbaths)は、キリスト教の安息日ではない(not the Christian Sabbath)が、しかし、ユダヤ教の聖なる日々の持ち越し(the carryover of the Jewish days)であり、土曜日の安息日を含んでいる(the Saturday Sabbath)。


教会における週の最初の日に関する普遍的一致(a universal agreement)があったが、しかし、古いユダヤ教の日々(the old Jewish days)に関しては一致がなかった。使徒が考えに入れていないのは、これら古いユダ教の日々である。キリスト教の礼拝の日(the Christian worship day)が見解に少しも入っていない。日々の区別がキリスト教の経綸において消去されたこと、また、どの日(every day)も主の日(the Lord’s day)であることをを論じる者たちは、敬虔なヘブライ人にとって、このことが真実であることを理解することに失敗している。どの日も、旧約聖書に於いても新約約聖の両方において、神の栄光のために費やされるべきであった。


 疑問は、安息日はまさに型(just a type)であるかどうかに関して生じた。もし、安息日が型にすぎない(only a type)のであれば、そのとき、安息日は、実現の到来と共に使用から消えねばならない(must pass from usage)。この疑問への答えは、わたしたちはすでに注目してきた―安息日は十戒の一部であることを。安息日は、モーセ的な秩序(the Mosaic order)に先行して存在したし、また、こうして、性格において永続的(perpetual)なのである。


 主の日(the Lord’s day)が、キリスト教安息日(a Christian Sabbath)として理解されるべきかどうかという疑問が生じた。もし、わたしたちが、第4戒の永遠的で永続的な性格の効果について適切なケースを作ったならば、またコロサイ2:16-17から、廃止されたのは、それはユダヤ教の安息日(the Jewish Sabbath)であることを見たならば、そのとき、7日目の代わりに作られた他の日(another day substituted for the seventh)であったことがと推定されねばならない。このことは、ヨハネ20:19のような個所からも見られ、そこでは、使徒たちは礼拝のため最初の日に集められたのである。また、ペンテコステの日における聖霊の到来は週の最初の日であった。こうして、わたしたちは、出来事の複合において見るのである 復活と聖霊の注ぎは最初の日に生じたのである。新約聖書が、週の最初の日をこうして、彼らの礼拝の日として神が定めたものとして見たであろうことは、自然的なことにすぎなかった。使徒言行録20:7と黙示録1:10において、 「主の日」(the Lord’s day)への言及が見い出される。パウロは、週ごとの献げもの(weekly giving)は、週の最初の日(the first day of the week)になされるべきことを明確に述べている(コリント一16:1-2)。


新約聖書においては、そのように多くの言葉において、最初の日は7日目に置き換えられたこと(replaced)を言っていないことは認められねばならないが、その主題に関する新約聖書のデータについての注意深い研究は、そのことを意味していると思われる。最も早い使徒後の書物のあるものは、教会は、主の日として週の最の日を順守していたことを示している。たとえば、100年頃に書かれた「教え」(Didache:デダケー)は言う。「あなたは、主の戒めを見捨ててはならない。・・・付け加えることも、取り除くこともしてはならない・・主の主の日において(κατα κυριακήν ημέρα δε κυρίου:on the Lord’s day of the Lord)集まり、パンを裂き、感謝を献げ、・・・」(The Librsry of Christian Classics,Volume1,Earlier Christian Fathers,tras.Cyril Richardson,:Philadelphia:Westminster Press,1953,14-1,op.cit.p.178)。人は、このことを使徒言行禄20:6,7、コリント一11:20、16:


1-2と比較するとき、「教え」(Didache:デダケー)と黙示録1:10の主の日(the Lord’s day)は、週の最初の日(the first day of the week)であった。


 「バルナバスの手紙」(Epistel of Barnabas)は、多分、100年までには書かれたが、その15章は、安息日を創造の時代に言及しており、また、それゆえ、如何にして神の第8日目が第7日目に取って代わった(succeeded)かを描いている。「この理由のゆえに、わたしたちは、8日目、イエスが死者から復活した日を、喜びを持って守るのである(ダブネーによって引用されているように。Systematic Theology,op.cit.p.394)。


 


3.安息日は如何にしてきよく守られるべきか(How the Sabbath is to be sanctified)


 


 安息日は、丸1日(the whole day)を主へ献げることによってきよく守られるべきである。このことは、すべてのこの世的な働きと娯楽を止めることを(the cessation of all worldly emplpoyments and recreations)意味し、その結果、わたしたちは、その日を礼拝と安息において費やすことができる。第4戒は、「心に留め、これを聖別せよ」(Remember the Sabbath day yo keep it holy)と命令をもって積極さにおいて述べられている。「聖別せよ」(to hallow it)、「聖く守り」(to keep it holy)、「聖別せよ」(sanctify)は、その日を取り分け(set apart of the day)、すべて聖なること(holy occupations)のための使用を示唆している。


 安息についての第4戒における強調は、礼拝の日としての日についての旧約聖書の概念を伝えていない。レビ記23章は、聖なる招集(holy convocation)のために、いろいろな日が取って置かれるべきことをリスト化している。安息日は、言及されるべきこれらの最初である。「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちがイスラエルの人々を聖なる集会に召集すべき主の祝日は、次のとおりである。六日の間仕事をする。七日目は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である。あなたたちはいかなる仕事もしてはならない。どこに住もうとも、これは主のための安息日である」(1節-3節)。


 聖なる招集の機会(occasion of holy convocations)が、とりわけ律法における教えのとき(times of instruction in the Law)として用いられるべきであった。(レビ記10:11、申命記6:6-7、17-19、31:11-12、33:10、ヨシュア記1:8、列王下4:23、マラキ2:7を見よ)。新約聖書においては、シナゴーグの礼拝は、律法の朗読と律法の解説を含んでいた。「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである』。 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた』」(ルカ4:16-21)。


 安息日にシナゴーグに礼拝に行くことは、イエスの習慣であったことが考察され


るべきである。イエスは、礼拝と宗教的教えのための日の使用を保証した。


 安息日の意図(the design)は、わたしたちが、すべてのわたしたちのこの世的な気遣い(care)と本業(avocation)から、体と心の両方において、安息する日であるべきであった。安息日は、礼拝と宗教的な教えにおけるわたしたちの霊的なレフレッシュメントのため、特に備えられたのである。それゆえ、その日を聖く守ることは、これらのためにその日を取り分けることである。これらの意図に矛盾することは何事も、安息日の真の順守に関わらないことになる。イザヤ58:13-14は、この日に神をあがめ、また、神のみをあがめることを求める義務に関してそのことを断言していることは、きわめて明らかである。「聖なる日にしたい事をするのをやめ/安息日を喜びの日と呼び/主の聖日を尊ぶべき日と呼び/これを尊び、旅をするのをやめ/したいことをし続けず、取り引きを慎むならそのとき、あなたは主を喜びとする。わたしはあなたに地の聖なる高台を支配させ/父祖ヤコブの嗣業を享受させる。主の口がこう宣言される」。


 ここに、わたしたちは、適切に守られる安息日は、憂鬱と制限の日ではなく、喜びの日であり、主にある霊的喜びの日なのである。もし、わたしたちが、安息日をわたしたちが守ることにおいて、忠実であれば、そのとき、わたしたちは、すべての週(all the week)において最も祝福された日であることを見い出すであろう。


 


F.  第5戒


 


G.  第5戒は、次のようである。「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」(出エジプト20:12)。


 


1.  戒めの視野


 


 第5戒は、神への義務と人への義務に橋渡しをする戒めである。すべてのものに勝りて偉大なお方がひとりおられることを理解するまでは、両親が神として彼らの子供たちに対して立つのである。


 この戒めは、十戒の2つの部分の隙間に橋渡しをするだけでなく、人が人に対して持つ基本的な義務を表明もしている。わたしたち間の関係のすべては、この戒めに含まれている。この戒めは、こうして、律法の第2の板(the second table)のための根本的な戒めなのである。人間社会のすべてのものは、この戒めとその意味への適切な従順と適用に基づくのである。


 


2.この戒めにおいて求められている義務


 


 戒めの特別な義務は、わたしたちの両親を敬うこと(to honor our parents)である。わたしたちが、すでに注目したように、一つの範疇の主な義務は、その主な義務よりも小さい義務のすべてを表している。こうして、ウェストミンスター神学者


たちは、この戒めの義務に含まれているのは、目上の人々へのすべての義務が含まれていることを極めて正しく示している。


 人類の原初的な統治の形態は、子供たちへの父親の統治であることが覚えられるべきであるとき、そのとき、わたしたちは、ここで求められている従順は、両親にだけでなく、わたしたちの上に権威を持つすべての者にである。父は、家族の頭(the family head)と同様に、市民的な頭(the civic head)であり、宗教的頭(the religious head)である。こうして、父への従順は、市民的権威(the civic authority)、宗教的権威(the religious authority)、家族的権威(the family authority)への従順なのである。


  従順(obedience)が求められるだけでなく、敬うこと(to honor)も求められる。このことは、単なる従順以上のものである。敬うことは、わたしたちの上の人を、わたしたちの心において、敬いの場に(in a place of honor)保持することである。もちろん、そのような保持は、従順を含む。パウロは、この戒めを引用するとき、従順の点で敬いを置いたのである。「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。『そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です』」(エフェソ6:1-3)。ここに、わたしたちは、使徒が、子供たちの従順のために、その戒めを特に子供たちに向けたのを見る。聖霊の霊感の下に、パウロは、その戒めについての新約聖書の注解を与える方法に注目することは興味深い。パウロは、土地の約束から、約束についての言い回しを変え、それは、疑いもなく、カナンの地への、地上への言及を持っている。こうして、わたしたちは、カナンの地におけるその民ではなく、全地における(in the whole earth)教会の普遍的なより広い適用に使われているのを見るのである。


 如何に、使徒が、この戒めを子供の両親の相互の義務(the reciprocal duty)に変えるかを見ることは興味深い。彼は言う。「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」(エフェソ6:4)。それから、彼は、奴隷たちと主人たちの、また、主人たちの奴隷たちとの関係に進み、それらについて、この戒めの社会におけるいろいろなレベルへの広い適用として取られよう。両親と主人たちの両方の場合において、目上の人の側における目下の人への義務がある。父に対しては、主の教育(the nurtue)と諫め(admonition)において子供を育てることの義務がある。加えて、両親は、自分の子供を怒りに挑発しないように警告されている。父は、自分勝手な仕方で、自分の親としての権威を行使するのではなく、自分の家族への自分の支配において公平であり、恵み深くあるべきである。父は治めるが、しかし、自分勝手な独裁者としてでなく、愛情のある父(a loving father)として治めるのである。


 使徒が、この戒めを僕たちと彼らの主人たちへの忠実に適用するとき、彼は、基本的な原理を与えている、すなわち、奴隷たちは人にではなく、主に仕えるように行うべきである(7節)。わたしたちのすべての義務は、この精神で遂行されるべきである。わたしたちは、いろいろな関係をわたしたちの仲間の人々に持つが、しかし、それは、神に対するわたしたちの義務なのである。こうして、わたしたちは、神へのわたしたちの義務を果たすことを求めるべきであるので、わたしたちは、神が命じたこれらの適切な関係を主張するであろう。


 


3.禁止されている罪


 


第5戒によって禁止されているところの意味されている罪は、もちろん、どのレベルでのこの領域における不従順である。子供たちは、彼らの両親に不従順であるべきではなく、あるいは、彼らの両親を敬うことをしないのではなく、あるいは、彼らに権威を持つ誰に対してもそうであってはならない。このことは、わたしたちの関係のすべてに関して存続している。奴隷たちの主人たちに対する義務であれ、市民の政府に対する義務であれ、教会の会員の教会の権威に対する義務であれ、聖徒の教師に対する義務であれ、存続している。これらの関係のすべてにおいて、わたしたちは、不従順あるいは敬わないのでなく、敬うべきであり、従順であるべきである。両親は自分の子供たちを怒らせてはならないし、また、主の諫めにおいて自分の子供たちを教育することに失敗してはならないという相互の関係も意味されている。主人たちは、自分たちの奴隷たちにつらく当たったり、自分勝手に振舞ったりしてはならない。どのレベルのどの領域においても、権威ある人々にすべてに対しても同じである。もし、わたしたちが、特別な関係が、わたしたちの下にある者たちの教えのような義務を含むならば、わたしたちは、教えることに失敗し、不従順であってはならない。


 


5. 第5戒に付け加えられている理由


 


 使徒が、この戒めを約束のついた戒めの最初として語るのは、興味深い。彼がこれによってまさに意味しているところのものは、明らかではない。というのは、第2戒も、神を愛する者たちには千代にも憐みを示すという約束が含まれているからである。たぶん、第5戒は、個人に語られているという意味において、最初である。あるいは、たぶん、第5戒は、解釈的な関係を扱う律法の第2の板において、最初である。


 約束のテキストは、考察するに興味深い。その約束は、イスラエルの国民(the nation of Israel)に与えられたので、その約束は、彼らのその土地における滞在に関する条件的な約束(a conditional promise)であったろう。彼らが、この戒めに関して忠実であるならば、彼らはその土地を安全に持つことを期待できたであろう。彼らがこの戒めを破るならば、そのとき、彼らはその土地からの自分たちが除かれることを予期し得るであろう。このことは、イスラエルとユダの道徳的生活の傾きの歴史の部分と思われ、また、結果的には、その土地を失ったのである。


 他方、パウロは、その約束を生涯の一般的な長寿の意味においてクリスチャンたちに適用する。その約束は絶対的な、機械的な約束ではなく、わたしたちが、わたしたちの両親に従順と敬いの一般的な条件を満たしたときという趣旨の一般的な約束である。他方において、人々は自分たちの両親を敬わなくなり、不従順になったときには、わたしたちは、自分たちの早い死去を予期するし、あるいは、彼らが長生きするならば、その約束は、幸せと繁栄の無いものであろう。人は、その国民が反逆的なとき、如何に長く国民が繁栄を享受することを期待できるかを思うのである。


 


G.第6戒


 


 第6戒は、次のようである。「殺してはならない」(出エジプト20:13)。


 


1.  この戒めが求めていること


 


この戒めは、明らかに命の保持を求めている。そのことは、命は、神の賜物であり、また、命は神の命令においてだけ取られるべき(to be taken)という事実に基づく。人が、他を殺すとき、彼は、彼の最も価値ある所有物、命自体を彼から取るのである。聖書は、殺人に対する最高の根拠を置く。聖書が、もし人が他を殺すならば、彼は神のかたち攻撃したのである(創世記9:6、ヤコブ3:9)。こうして、殺人は、最もオープンで凶悪な方法において、創造主なる神に対して向けられた罪である。人が、仲間の人間に対して起こすことができる最も大きな悪であり、また、それは神に対する不敬虔の行為である。それゆえ、求められているところのことは、人間の命を保持する適切な努力である。


 イエスは、殺人の外側の行為を含むだけでなく、殺人に導くところの心の姿勢も含むものとして解釈した。こうして、意味されている義務は、わたしたちが、罪深い欲望や怒りを許さない心を守ることである、また、そのような罪深い心の表現である口汚いことば(abusive language)使わないように、わたしたちの口を守ることである。


 


2.禁止されている罪


 


 禁止されている罪は殺すとこのすべて(all killing)であるが、しかし、特に殺人の罪である。明らかに許された殺すことのある行為がある。たとえば、聖書は、人間の食料に対して動物を殺すことを許しているし、また、正当防衛の行為において(in acts of self-defense)も許している(創世記9:1-4を見よ)。この戒めは、旧約聖書においてだけでなく、わたしたちは、新約聖書において、動物の肉を食べるイエスを見い出すし、また、復活後においてさえも、御自分の弟子たちがそうすることを励ましている(ルカ24:43、ヨハネ21:9)。使徒たちは、ローマ14:3とコリント一10:14において、肉を食べることに言及もしている。


 許しは、死の恐れから、他の命を取ることにさえも、自分自身(one’s self)を防御することに与えられている。モーセは、このことを、出エジプト22:1において、このことを認めた。「もし、盗人が壁に穴をあけて入るところを見つけられ、打たれて死んだ場合、殺した人に血を流した罪はない」。(民数記35:22、マタイ5:39も見よ)。


 とはいえ、多くの議論の点であった他のケースは、死刑(capital punishment)である。創世記9:6は、そのようなものに対して命令を与えている。「人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたから」。死刑に対する論拠は、第一義的には、そのような罰の抑止的効果(the deterrent effect)ではなく、神のかたちが攻撃されたという事実である。そのような犯罪から他の者たちを留めることしての副次的作用(side effects)もあろうが、しかし、このことは、この罰に対する聖書においえ与えられた理由ではない。(民数記35:31、し出エジプト21:15、申命記13:5、ローマ13章も見よ)。


 新約聖書は、律法のこの部分を廃止したという示唆がときどきなされる。人間の統治者たちの手には剣の権威への言及をもっているローマ13章は、人間の統治は、法を破る者たちの命を取ってよいことを確かに意味している。パウロは言う。「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです」。ここでの意味は、神は、明らかに剣を市民的な実体(a civil entity)としての社会に与えたのであり、また、市民的政府は神によって委任されたものとしての死の力を持つのである。この関連において、人は、適切な条件下で戦争をする緒国家の権利を主張するかもしれない。不道徳な諸国家による侵略的な戦争は大量殺人と略奪にすぎない(an aggressive war by an immoral nations waging war nothing but mass murderer and robbery)。そのように侵略された国家は、。個人がそうするのと同様に、自分自身を防御するために確かにその権利を持つ。他の諸国家が、侵略諸国(the aggressor nations)を打ち負かすために、警察的軍隊(a police army)として立ち上がり、仕えることも適切である。戦争において諸国家の軍隊に参加した個人たちは、彼らが敵を殺すとき、個人的には殺人の罪を負わない(individuals involved in the armies of nations at war not personally guilty of murder when they kill the enemies)。神御自身が、いろいろな機会に、イスラエルの戦争に行くように命じたことは思い出すのに興味深い。洗礼者ヨハネが、自分のところの来た回心者たちを扱っていたとき、彼は兵士たちに武器を捨てるように告げなかった。むしろ、彼は、彼らが暴力で民を扱ってはならないことを示した。


 自殺は、自己殺人以外の何物でもない(suicide is nothing less than self-murder)。自殺した者が天国に行く可能性があるかどうかの疑問が生じた。聖書は、自殺を許されない罪(the unforgivable sin)として語ってはいない。もちろん、ここでの基本的問題の一つは、自殺の罪は、その後の悔い改めの行為に対する機会を与えない。もし、真のクリスチャンならば、そのとき、彼は自分の最後の行為が自分の作り主(his Maker)の面前で、非常に大きな罪(his last deed before of his Maker a sin of great enormity)であると言う事実に直面しなければならない。彼は、最も深い恥をもって自分の作り主の面前に入ることのみがあり得る。他方、キリストは、自殺の前であってさえも、彼らが罪を置かす前に(before they are committed)、信者たちの罪のために死んだのである。もし、そうならば、その罪に対する罰は、十分支払われたのである(then the penalty for that sin has been paid in full)。


 このことは、わたしたちが、自己殺人(self-murder)の罪を軽く取ることを意味しないが、しかし、そのような者が愛した人たちが絶望においてあきらめないように、励ますことが提供されるのである(it is offered to encourage loved one of such not to give up in despair)。究極的に、主とのわたしたちの関係は、わたしたちの救い主としてのイエスへのわたしたちの信仰に依拠する。そのような信仰は、よき行いを生み出すが、しかし、わたしたち皆が、信仰はこの世においては、まったくの完全さ(total perfection)を生み出さないという事実を知っている。クリスチャンは、深い絶望のある期間中、この罪に陥るが、とはいえ、救われている人(a saved man)であることは、考えられる。


 わたしたちの救い主は、マタイ5:21-26において、この戒めについてのコメントをしている。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」。


 イエスは、律法を破ることは単に外面的な行為であるというその戒めについての誤った解釈を訂正した。彼は、怒りに導くであろうどのようなことも、あるいは、その怒りを表わすこと、兄弟に関して悪く言うようなことは、この戒めを破ることであることを指摘した。彼は、わたしたちは、自分自身の態度に対して責任があるだけでなく、わたしたちに対する他の人たちの態度にも責任がある。換言すれば、わたしたちは、その戒めを破ることだけに責任があるのではなく、他の人たちがその戒めを破ることを防ぐことを求める責任もある。イエスが教えた原理は、憎しみは殺人の根であり、他方、愛は命の法則なのである。パウロが言うように、「だから、愛は律法を全うするものです」(ローマ13:10b)。


 20世紀末の燃えるような激しい問題の一つは、堕胎(abortion)である。キリスト教の影響下において、堕胎は西洋諸国においては数世紀間、非合法化されてきた。合衆国最高裁判所(the Supreme Court of the United States)の動向とともに、法の基礎としてのユダヤ的-キリスト教的倫理(the Judaeo—Christian ethic)から離れて、ロウェ(Rowe:英国の詩人・劇作家)対ウェイド(Wade:英国の外交官・中国学者)の決定(the Rowe versus Wade decision)が、合衆国中の堕胎に対する門を開いたのである。その結果は、受精した細胞(the fertilized cell)は人間存在(a human being)であること信じる人々による判決の逆転を得るための大規模な試みであった。 


 アメリカ長老教会は(the Presbyterian Church of America)は、幾人かの内科医を含めて、教職と治会長老の研究委員会を任命した。その結果は、この主題に関する神学的で医学的な洞察の両方を反映するすぐれた研究であり、それは、第6回総会において採択された。報告の基本的前提は、聖書は、人間の生命は妊娠をもって始まること(begins with conception)を教えているというものであった。この立場は、創世記4:1、ヨブ3:3、詩編51:5、詩編139:13-16、ルカ1:24-56のような聖書の多くの個所の引用によって支持されていた。こっらの個所を読むことは、聖書は、まだ生まれない子供を、その妊娠から人間存在として扱っていることを示している。


 報告書の一部は次のように結論づられた。「聖書は、それは、書かれて神の言葉であるが、信じる者たちのために救いに至る神の力として与えられている。しかし、それは、神だけが持つところの与えあるいは取る権利を持っている創造された生命に関するものとして、制度や個人を規制するために、絶対的権威が与えられているにほかならない。この根拠において、わたしたちは、まだ生まれていな子供(an unborn child)を意図的に殺すことは、神の戒め権威を侵害することと信じる。聖書は、そのような子供を人格(a person)として考え、また、こうして、誕生後も人格として神的保護によって(by Divine protection)覆うのである。・・・聖書は、特に第6戒は、神のかたちを担う生命への具体的な保護を与えている。・・・聖書は、明らかに、人間の生命の神聖さ(the sanctity)を断言し、その自分勝手な破壊を定罪しているから、わたしたちは、妊娠と誕生の間にあるまだ生まれていない子供を意図的に殺すことは、どんなときでも、どんな理由でも、明らかに第6戒の侵害である」(M6GA,6-40)。


 第8戒は、危機の妊娠(crisis conception)の場合に関して次のようなことを述べている。


「1.第6戒は、どのような理由に対してであれ、罪のない命(innocent life)を取ることを禁止するだけでなく、罪のない命の保持をも可能な限り求めている。


2.子供の命と同様に母親の命も、第6戒の十分な保護の下に来るし、また、すべての道徳的な医療的な知恵と技術が、子供の命と同様に母親の命を保持するために使用されなければならない。


3.わたしたちが、2つの罪(子供を殺すことと母親の命の保持を怠ること)の間で選択の立場(the position of choosing between two sins)に置かれることを言うことは、わたしたちのまったく賢く、まったく聖い神(コリント一10:1)の主権的な摂理の反対において、わたしたちの信仰を捨てることであり、また、わたしたちは、善が来るために悪をしなければならないこと主張することなのである・・・聖書によって定罪されている哲学である(M6Ga,8-69,p.97)。


 


H.  第7戒


 


第7戒は、次のようである「姦淫してはならない」(出エジプト20:14)。


 


1.命じられている義務


 


 第7戒は、個人の人格的な純潔(the personal purity)、特に、性的な領域におけるを求めている。第6戒は、生命の神聖性が維持される戒めであった。第7戒は、結婚の純潔を維持する。この戒めの広い適用下において、その戒めは、人類の性的な局面の全領域を規制する。求められていることは、純潔の徳(the virtues of purity)である。これらの徳は、真の家庭の諸関係の基礎である。家族は、社会の基礎である。わたしたちが、神に対する聖い子孫を増やすのは家族においてである。


 使徒は、この戒めを、体に対する罪は聖霊の宮に対する罪と指摘するとき、非常に高い意味において語る。「みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」。


 ここに、わたしたちは、自分たちの体において神の栄光を現わすべきであるというこの戒めの積極的な適用を見る。体は聖霊の宮であり、キリストの尊い血の代価で聖くされたのである。この2つの理由のゆえに、わたしたちは、自分の体の聖さ、そして、自分たちの思いの聖さを維持することが勧められている。


 


1.禁止されている罪


 


 特に禁止されているこの罪は、姦淫である。姦淫は、結婚した人による非合法の同棲(an illicit cohabitation)である。そのような同棲は、不潔、結婚の誓約の違反、家族の腐敗を包含する。姦淫は、社会全体を根こそぎにする。殺人は個人の時間的な存在(the temporal existence)を破壊するが、姦淫は、存在をありがたいものにすることを破壊する(makes existence a boon)。モーセの律法におけるこの罪に対する罰は、死であった。イエスは、罰を低くすることによって(by lowering punishment)、律法への御自身の権威を行使した。姦淫は、罪のない側による離婚の合法的な根拠としてなおも留まる。


 イエスは、この戒めの外面的な順守におけるこの戒めに従うことだけなく、もし、わたしたちが情欲を抱くならば、わたしたちはその戒めを破ったと言うとき、心と精神の姿勢においても、順守することを明らかに示した(マタイ5:28)。こうして、戒めは、外面的な姦淫を禁止しいるだけなく、心の姦淫も禁止している。禁止されている姦淫の行為だけなく、不品行あるいは結婚関係の外側の性の乱用が禁止されている。同性愛(homosexuality)と獣姦(bestiality)などの性的な倒錯が明らかに禁止されている(ローマ1:26-27、レビ記18:22-23)。このことは、性行為の承諾年齢に達した成人が行うことを望むところの何事をも認める許容的な近代社会と鋭く対照している。


 さらに考察を必要とする一つの特別な事柄は、結婚と離婚の事柄である。わたしたちがすでに示したように、結婚はわたしたちの性的な衝動に対する正しい流れ道(the proper outlet)である。結婚は、創世記2章において、神に定められた。こうして、一夫多妻性(あるいは一妻多夫性)が、約聖書における信者たちによっても習慣化されていたが、キリスト教会は、一夫一婦性に戻ったのである。最初の律法は、旧約聖書の聖徒たちによって部分的には軽視されたが、決して廃棄されかかった。それは彼らによって十分理解されなかったかもしれない。しかしながら、一夫多妻性ゆえの彼らの生涯と彼らの家族に現われた不和の範例は、生涯の理想的な道ではなかったことを、彼らに警告することに仕るべきであったのである。


 パウロは、コリント一7章において、結婚関係の義務について幾つか特に教えている。彼は、結婚は、性的衝動の正しい流れ道(the proper outlet)であることを述べている。アダムとエバへの最初の命令は、彼らが増え広がることであったが、パウロは、結婚は人類が増えるだけでないことを示している。ひとたび結婚関係に入ると、夫と妻はお互いに婚姻の義務を持つ。「夫にその務めを果たしなさい。 妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです」(コリント一7:3-5)。


 ここに、わたしたちは、結婚関係に入る者たちは、その結婚を言葉の身体的な意味において(in the physical sense of the term)果たす義務を持つことを見る。そのような実現は、両方の側の同意においてのみ妨げられよう、そして、そのときは、祈りの目的のために短期である。別居は結婚関係においては実際には予想されていない。もちろん戦争あるいは他の緊急事態が夫を妻と別れさせるとき、それは防ぐことができないかもしれないが、しかし、このことは、確かにキリスト教の結婚に対する規範ではない。むしろ、期待は、結婚を通して続いていく身体的関係なのである(an ongoing physical relationship)。


 聖書によって許容されている離婚に対する2つの根拠は、姦淫と意図的な遺棄(willful desertion)である。そのような場合には、罪を犯さなかった側が、そのとき、姦淫あるいは意図的な遺棄の根拠で、罪を犯した側から離婚を得るのである。このことは、そのようにしなければならないということを言うことではないが、しかし、姦淫の行為は結婚の結びつきをそのように激しく破るので、結婚を継続することは不可能であるということの承認なのである。こうして、主は、誰でもこの根拠で妻を去らせることを許容した。「言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」(マタイ19:9)。


 罪を犯さなかった側は、聖書的な根拠で離婚したが、再婚が許容されるのだろうか。答えは、もし、離婚が許容されるならば、そのとき、結婚はまったく壊れ、再婚は許容される。申命記24章は、離婚の可能性を与えているし、また、明らかに再婚が許容されることを述べている。もし、神が離婚を許容するならば、そのとき、神は結婚が法的に壊れ、罪を犯さなかった側が罪無くして再婚できよう。


 離婚に対する第2の根拠は、コリント一7:15において述べられている。「しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです」。パウロが、兄弟あるいは姉妹が束縛下にいないことを示すとき、彼は、ローマ7章で、その夫が死んでいる妻に言及するのに使ったのとまったく同じ言い回しを使っている。そのような人は、死亡した配偶者に最早、束縛されていないので、再婚してよいのである。長老派と改革派によって理解されたものとしての意味は、この種の遺棄は、捨てられた側の離婚の合法的な根拠になる。使徒がコリント一において引用している特別な場合は、おそらく宗教的な根拠による未信者による信者の遺棄である。ウェストミンスター信仰告白は、遺棄は、宗教的な根拠でなければならないという理念を説明していない。「束縛に対する唯一の罪は、それは欠陥を持つが、絶対的にその関係と相容れないところのものであり、姦淫と意図的遺棄である。これらの場合においては、罪を犯さなかった側に対して壊された結びつきは、彼は、相手が死んだかのように、完全に独身の男(as completely a single man though the other were dead)のようなのである」(Dabney,Systematic Theology,op.cit.p.410)。


 


I.第8戒


 


第8戒は、次のようである。「盗んではならない」(出エジプト20:15)。


 


1.命じられている義務


 


 この戒めは、再び財産の権利を扱うことにおいて否定的に述べられているが、反対の義務がしっかり教え込まれている。もし、財産の権利が、侵害されないのであれば、そのとき、財産の権利は守られる。わたしたちは、自分自身のため、また他の人々のため、富を合法的に獲得することを求めるべきである。この概念の下に、すべての人は、神の財産管理人(stewards of God)に見られるべきである。すべての財産は神に属する。このことは、創造それ自身から見られる。創造以前に、何も存在しなかった。今、存在するすべての財産は、神が、財産が存在するように命じたことの結果なのである。こうして、究極的な意味において、神が唯一の当然の所有者(the only natural proprietor)である。財産への人間の権利は、人間への世界の神の賜物に基づくのである(創世記1:29)。


 チャールズ・ホッジ(Charles Hodge)は、神の意志の下における財産の権威に関する4点を挙げている。最初に、彼は、神がある物の排他的所有と使用の権利(the right of exclusive possession and use of certain things)を求める欲求と必要性で人間を構成したことを示した。


神は人間をそのように創造しただけでなく、動物も同様のニードを持つことが動物たちの領域的な権利(territorial rights)を持つことにおいて見られることは、興味深い。第2に、人間は、社会的存在として造られ、財産の権利は、健全な社会に本質的である。第3に、正義感が、人間の造り主によって人間に印を押されており(the sense of justice has been stamped on man)、それは、これらの権利の違法行為は道徳的に悪いものとして定罪するのである。第4に、御言葉は、この戒めにおいて、この権利の侵害は罪であることを宣言している。


 問われねばならない興味深い疑問は、新約聖書の教会による物の共同体の明らかな習慣に関する(使徒言禄4:32-35)。このことについての解説において、わたしたちは、次の諸点を考察しよう。最初に、それは、他者に対する配慮からのクリスチャンたちの自発的行為であった。使徒たちがそれを命じたという示唆はない。第2に、新約聖書の信者たちが行ったように、財産の共有は本来的に悪いことではない。彼らは、キリストの体の唯一性を認めていたし、また、他者に対する愛から、彼らがしたように、彼らは共有することが可能であった。第3に、エルサレムの習慣は、視野的力のない実験にすぎない(only an experiment with no perspective force)と思われる。それは彼らが行ったことであるが、しかし、彼らは、そうするようにとの命令下にはなかった。第4に、そのような習慣を大きな規模で成功させるためには、すべての参加者の側に聖化の非常に高いレベルがあらねばならなかった。自分たちの労働の結果における絶対的な無関心をもって、自分自身の状態を改善しない場合、人々が働くことは不可能である。そのような富の分配における完全な状態を維持することは困難でもある。それは、その共同体の各々のメンバーの穏健と満足の精神を要求する。一般的に言えば、教会でさえも、そのメンバーのすべての側に聖化のこのレベルを示さないのである。


 


1.禁止されている罪


 


 第8戒によって禁止されている明らかな戒めは、盗みの罪である。盗みは、わたしたち自身の使用のため、あるは、わたしたち自身の利益のため、他者の財産を私物化することは、不公平であり、不正である。盗みは、このこのとのすべての外面的な違反において最も一般的である。盗みは、仕事の事柄におけるすべて偽りの見せかけ、すべての偽りの表現を含む。(all false pretenses in matters of business,all false representations)。人は、近代の広告技術のあるものについて、如何にそれらはこの戒めに符号しているか、すぐに疑問に思うであろう。第8戒は、仲間の人々の無知や必要性を利用することを禁止している。第8戒は、人々が他者から財産を技術上の欠陥において(on a technical flaw)奪うことを禁止している。賭博はこの戒めに該当する。賭博は、人から代償なしに、財産を奪うために、油断している人々あるいは未熟な人々を利用する。クリスチャンは、神の財産の管理人として、財産が適切に使用されるかされないかに関して、「偶然」(chance)の手に置くことの権利を持ってない。賭博をする罪は、盗みを含む。一方において、この方法で富を得る者たちは、労働なしでそのようなことを行うが、それは、盗むことである。彼らは適切な財産管理人性の欠如を支援しているし、また、偶然の神(god of chance)の下にあるものとしての世界についての偽りの見解を示しているのである。


 


J.第9戒


 


 第9戒は、次のようである。「隣人に関して偽証してはならない」(出エジプト20:16)。


 


1. 第9戒によって求められている義務


 


 この戒めに含めれている義務は、真理を保持する義務である。特に、公的な証言をする事柄における(in the matter of public witness bearing)真理の保持である。もちろん、この下に、わたしたちが述べるすべてのことが入る。すべてのことは、真理に従うべきである。わたしたちは、人と人の間の真理を維持し、促進することを求められているし、また、わたしたちは、わたしたち自身の善き名声と隣人の善き名声を保持することを求められている。この義務の根拠は、神御自身の性質に打ち立てられ、神は真理である。神のかたちに造られた人間は、自分のコミュニュケーションのすべてにおいて(in all of his communications)真実で、忠実であるべきである。ある意味において、真理の事柄は、すべての他の徳の父(the father of all other virtues)である。もし、わたしたちが真実ならば、自分たちは盗まないであろうし、貪らないであろうし、わたしたちは、自分たちの神礼拝において、また、自分たちの両親を敬うことにおいて忠実で真実であろう。わたしたちは、みだりに神の御名を唱える必要はない。というのは、わたしたちは、常に、真実な断言をするからである。


 真理を軽視するものは何ものでも、神のまさに性質に反するのである。神は真理であり、また、それゆえ、わたしたちは、真理のすべての現われ(all manifestation of the truth)を保持することを求めるのである。もし神が御自身を宣言するところのものでなければ、もし神が御自身を意味するものとして宣言することを意味しないならば、もし神が約束することを果たさないならば、神についての理念全体が失われるのである。 真理がなければ、神はいなし、また、あり得ない。わたしたちが、神御自身の属性としての真理の本質的な資質を分析するならば、わたしたちは、そのとき、真理は人間のすべてのコミュニュケーションにとって、また、人間社会の維持にとって、基本的であることを認めねばならない。真理は、わたしたちのすべての知識の土台である。真理は、すべての道徳の土台である。真理に対して罪を犯す人は、自分の道徳的存在のまさに土台に対して罪を犯すのである。


 


2. 禁止されている罪


 


 第9戒において禁止されている特別な罪は、公的な証言をする事柄において、自分の隣人に対して偽りの証言をする罪である。このことは、裁判におけるわたしたちの証言に関係しなければならない。もちろん、それは、裁判の外で、わたしたちの隣人に対して偽りの証言をするようなより小さい罪をも含んでいる。またわたしたちは、隣人を中傷することを拒否し、隣人について悪口を言うことを拒否して、隣人の善き名声を保持することを求めるべきである。わたしたちは、隣人を裁くような仕方には注意すべきである。もし、わたしたちが、調べもしないで厳しく裁くのであれば、わたしたちは、隣人についての偽証人であろう。とはいえ、さらに別の分野には、いわゆる社会的な習慣的な虚言(the so-called conventional falsehoods)や礼儀上の虚言(the lies of courtesy and niceties)も含まれる。わたしたちは、そのような嘘も避ける必要がある。


 イエスは、悪魔(the Devil)は、偽りの父であることを教えた(ヨハネ8:44)。悪魔は、元々、生ける神に対する反逆者として、本質的に偽る者となった。悪魔は、人々の間で、偽りの扇動者(the instigator)である。最初の誘惑は、神を偽り者と呼ぶことであったし、それは、その表面において、偽りの最大のものであった。それゆえ、人間の最初の罪は、サタンのこの偽りに基づくものであった。わたしたちは、サタンから真理を決して期待できないことを理解すべきである。わたしたちは、こうして、わたしたちの隣人についても、あるいは、わたしたち自身についても、サタンの偽りに警戒すべきである。


 真理それ自体は、神の性質の反映であり、偽りはサタンの性質の反映であるので、問われる必要がある疑問は、人間が偽るか、あるいは、真理を歪曲するかの機会があるかどうか(whether there are ever occasions when a man may lie or pervert the truth)である。2つの異なった関係が、改革派神学者たちによって取られた。最初の見解は、ロバート.L.ダブネー(Robert L. Dabney)とR.J.ラシュドーニー(R.J.Rashdoony)によって主張された。それは、聖書は、そのような例外を許容していると主張する。ダブネーは、助けがないとき、そうでなければ殺人を防ぐために、


狂犬を滅ぼすために、狂犬を騙すことは、あるいは、暗殺者を彼の犠牲となる人から惑わせることは、罪でないであろうと主張した。ダブネーは、ヨシュア記8:2において、戦略を用いたヨシュアの場合を引用するが、それは、神御自身が敵を欺く意図をもって正当化したのである。ダブネーは、このことを、その疑問への適切なアプローチとしたのである。「ここに、わたしは、違いをもって、事柄の別の叙述を提供しよう、それは、調和の難しさを含んでいることがわかる。どのような状況下で、人による殺しが殺人ではないのか。人間の生命は神聖なものではないか、造り主だけのものではないのか。律法は答える。有罪の生命が神の罰として失われるとき、また、神が、神の代理者として、人間に有罪の生命を滅ぼす権威を与えるとき、人間は殺すかもしれない。だから、攻撃の極端な目的は、不当かつ悪意に満ちており、わたしたちのまさに存在を狙うことは、有罪の攻撃者の権利の喪失を構成すると、わたしは思う。攻撃者の活発な悪意の支配の間に、彼らは彼を意図された犠牲として非人間化し、彼の生命は自己防衛のより高い権威によって失わさせられるのである。その権利が現れ、攻撃された人が、罪無くして、攻撃した人を殺すのである。大は小を含むという規則によって、彼はまた正しい目的のために、人を欺かないのであとうか。この見解の利点の一つは、生命が悪意をもって攻撃された極端な場合にのみ、この欺きの権利を与えることである。


・・・・攻撃者が、攻撃から無力にされるか、あるいは、より善い心に変わるや否や、わたしたちの思いやりと寛容についての彼の要求のように(as do his claims)、彼の真実の権利が生き返るのである。それゆえ、善き人が、戦略をもって正しく自分の敵を欺くので、休戦の旗が現れるや否や、あるいは、敵が攻撃不能となって捕らえられるとき、善き人は敵の懐の友人に対して、完全な誠意をもって行動する義務がある。この譲歩(this concession)を守ることにおいて、もし、罪のない人が誓い、約束、取り決め(engagement)を不義な攻撃者にしているならば、どんな暴力的な威嚇下にあれ、あるいは、他の動機に下にあれ(whatever violent threat,or other inducement)、罪のない人は、もし、約束された事柄がそれ自体罪でな いならば(unless the thing promised is sin per se)、その取り決めを果たす義務がある。というのは、取り決めは自発的であるからである。その善き人は、取り決めを果たすことを選ぶか、あるいは、威嚇的な悪に耐えることを選ぶかの選択肢を持つ。その善き人は、「悪事をしないとの誓いを守る」人である(詩編15:4)(Dabney,Systematic Theology,op.cit.p.425)。


 他の立場は、ピューリタンの神学者たち(the Puritan divines)の善き多くの者たちによって主張された立場であり、また、最近では、ジョン・マーレー教授(Professor John Murray)によって主張された。聖書において嘘(lyimng)が認められたと言われるいろいろなケースを注意深く研究した後で、彼は次のように結論する。「しかし、わたしたちの結論は、どのような緊急事態下でも(under any exigency)


、不真実の妥当性(the propriety of untrustfulness)を証明する例はない。わたしたちは、ある緊急事態下においては、自分たちの隣人に不真理(untruth)を語る可能性があるという立場を取ることができるために、聖書が提供するよりもはるかに多くを求めることになる。換言すれば、わたしたちが偽り(falsehood)を遠ざけ、真理を語るという聖書的証言を維持できる求めからの逸脱を正当化できる証拠はないのである。わたしたちは、そのような逸脱を保証する最も明らかな証拠を必要とするであろうし、また、その証拠が欠けていることが証拠なのである。それゆえ、如何にして、わたしたちは偽りを正当化できるのか」。


 マーレーは、真理の隠ぺいは、ときどき許容されるだけなく、義務でさえ(even be obligation)もあることを指摘する。「悪口を言い歩く者は秘密をもらす。誠実な人は事を秘めておく」(箴言11:13)。それから、マーレーは、ダブネーが与える類の論拠に答える。「他の人々は知るべき自分たちの権利を失った、あるいは、真理が語られるべき権利を失ったということを根拠にして、不真理(the untruth)を語る権利を主張する者たちは、実にひどい誤りを犯したのであり、また、聖書が支持していない真実(truthfulness)からの逸脱を正当化したのである。真理の主張以上に、基本的で、究極的な主張はないのである。わたしたちは、何か他の罰則(any other sanction)を、真理が犠牲にされる祭壇におけるより高いものとして認めることができないのである。


マーレーは、その章を次のように結論している。「わたしたちにおける真実(truthfulness)は、『真理』(the Truth)から派生し、また、それに倣ったのであり、そして、「偽りは真理から生じない(ヨハネ一2:21)。不真実(untruthfulness)が悪いのは、不真実は神の性質に矛盾するからである。真理(truth)と不真理(untruth)は、神が真理であるゆえに、正反対なのである。そして、このことが、真理と不真理が結びつかない理由なのである。


 


K.第10戒


 


 第10戒は、次のようである。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」(出エジプト20:17)。


 


1. 第10戒の求めていること


 


 この戒めの求めていることは、それがどんなものであれ、わたしたちの定め(our lot)に満足することである。このことは、単なる無関心(mere indifference)に取られるべきではなく、快活な状態(cheerful condition)に取られるべきである。わたしたちは、この世のものについて感謝をもつべきであり、また、わたしたちの生活の状態を向上するすべての適切な手段の勤勉な使用を持つべきである。わたしたちの満足は、キリスト教信仰の宗教的な確信、また、わたしたちの生活のすべてを支配するイエスの主性(てぇLordship)と結びつけて考えるべきである。彼は、天と地において一切位の権威を持たれたお方である。彼は、教会の祝福のため、すべてのものを支配する王として、御座に座している。


 エフェソ1:18-23で次のように言われている。「心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」。


 人が、キリストの主性は自分の個人的な環境に関係するものとして、キリストの主性の意義を把握するとき、そのとき、彼は深く根差した満足(a deep-seated contentment)と自分の定めについて平安を持つことができる。パウロは、自分に対してここに来て、「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」(フィリピ4:11)。彼は、試みと困難に直面しても、ある喜び(a certain pleasure)を断言することさえもできる。「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(コリント二12:10)。わたしたちにとっては、そのような姿勢は如何に難しいことか!とはいえ、真の霊性に如何に重要か!


 この戒めについての意義深い点の一つは、この戒めは明らかにわたしたちの心の姿勢を扱っており、単に外面的な行為を扱っているのではないことである。前の4つの戒めは、もちろん、イエスが山上の説教で教えたように、そのような行為は心の姿勢から出て来るのではあるが、特に外面的な違反について語っていた。この戒めは、明らかに心の姿勢に話かけている。「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある」(箴言4:23)。


 


2. 禁止されている罪


 


第10戒において禁止されている特別な罪は貪ること(coveting)である。第10戒は、財産を貪ることの事柄と情欲(lusts)と肉の欲(appetites of the flesh)の両方を含んでいる。第10戒は、貪り(covetousness)に対する一般的な禁止である。第10戒は、自分が所有していないものに対する法外な欲望(inordinate desire)を持つべきではないという趣旨である。わたしたちは、神がわたしたちを扱うことに対してあるいは、他の人々の定めや財産に対して不平を言うべきではない。そのようなうらやみ(envy)は、隣人を愛することの反対であり、また、神が隣人に行ったことにおいて、隣人と共に喜ぶことの反対である。パウロは、神の律法がなければ、貪ることが罪であることを知らなかったであろうことを示している(ローマ7:7)。しかしながら、貪ることが罪であることを認めた、そのとき、彼は言い回しの最も強い類において、貪ることを定罪している。コロサイ3:5において、彼は、貪ることは偶像礼拝と語った。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない」。再び、コリント一6:9-10において、彼は、貪ることは、人々が神の国を継ぐことから除くところの罪と共に貪ることを含めている。「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」。


詩編の作者は、詩編10:3において、貪欲(coveting)は、ヤーゥェ(Jehovah)を捨てることとして語る。「神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている」。それゆえ、わたしたちがこの戒めを破ることは、軽いことではない。それは、人間の宗教的思いのまさに基礎に打撃を与えるのである。その戒めは、わたしたちの心に語るのであるから、その戒めは、単なる外面的な行動によっては従われ得ないが、しかし、神の面前での心の誠実さを含むのである。人々が、外側はきれいであるが、しかし、腐敗した心をもって、「白く塗られた墓」(whited sepulchers)としてのファリサイ派のようである危険が常にある。心の姿勢にこの最後の戒めを語りかけることにおいて、神は、わたしたちが心においてきよいことを望んでおられることを示している。


 わたしたちが、十戒の概観を締めくくるにあたり、わたしたちは、すべての人が何らかのかたちで、すべて戒めを破ったことを認めねばならない。わたしたちの誰一人として、律法を心と行為において完全に守った者はいない。すべての人が罪を犯し、神の栄光を受けられなくなっている。キリストにおける神の備えに対して、わたしたちは如何に感謝すべきことか。神は、わたしたちに代わって律法を守らせ、わたしたちが律法を破ったことに対する罰を支払わせるために、神は御自身の独り子を遣わしてくださったのである!!これが、福音のよき知らせである。神の律法の説教は、わたしたちに、罪人たちとしてのわたしたちのための福音の備えを感謝させる。こうして、このことは、教会の説教の規則的な側面(a regular aspect)であるべきであり、その結果、律法は人々をキリストの面前に膝まづかせることにおいて、恵みの手段となり得るのである。


 神がわたしたちに与えた完全な規準として、律法は聖化におけるわたしたちの成長のための模範(the pattern)となるのである。ここで再び、律法の説教は、わたしたちが恵みのうちに成長するためための恵みの手段なのである。


 


 


解説


 


「第45章:恵みの手段としての神の御言葉」の紹介が終わったので、?点の解説をする。まず第1点は、スミスのこの章の扱い方についてである。すると、スミスは、第43章で、罪人を救いと霊的成長に導く神の恵みが与えられる手段として、ウェストミンスター大教理問答154問を使って、それらは、御言葉、礼典、祈祷の3つを挙げた。そして、第44章において、恵みの手段としての御言葉というときには、具体的には、御言葉の説教であることを述べた。そこで、今度は、第46章で、恵みの手段としての御言葉には、2つの局面があり、それらは律法と福音であることを述べる。そして、律法も福音も、どちらも目標は同じで、罪人の回心であり、両方が恵みの手段であるが、しかし、区別もある。すなわち、律法は、罪人をキリストに導く養育係であり、罪を自覚させ、目覚めさせて、キリストによる救いの必要性を意識させるが、福音はキリストへの信仰による救いを約束し、与える。


そこで、スミスは、この第46章においては、律法を詳細に扱い、十戒の解説・講解にまで及ぶ。改革派における十戒の解説・講解と言えば、カルヴァンの「綱要」、ハイデルベルク信仰問答、ウェストミンスター大教理問答・小教理問答、チャールズ・ホッジの組織神学などを思い出すが、改革派のすべての組織神学書、教義学書、信条、教理問答においてなされているものではない。実際、バーフィンクの「改革派教義学」やベルコフの「組織神学」には、十戒の解説・講解はない。


そこで、スミスも、十戒の解説・講解は、組織神学が本来的に扱うものではなく、キリスト教倫理学において扱うものであると自ら語っている。しかし、律法は、特に、実践と生活の規範であり、神の義を教えて、罪人をキリストに導く養育係として導き、さらに、キリストを信じて救われた者たちが恵みのうちの成するのを助けるものであるので、スミスは十戒を解説・講解を省略しないで載せた。


スミスが、十戒を解説・講解を省略しないで載せたことは、非常によかったとわたしは思う。特に、本書は、組織神学のテキストとして書かれたのであり、十戒が具体的に何を教えているかを示すことは、とても実践的、実際的で、律法というものがどのようなものかを身近に知ることができるし、また、スミスは、十戒が今時代の問題を意識し、適用しながら解説・講解しているので、なおさら分かり易く、十戒についての知識をひとまとまりとして持つことができる。なお、スミスの十戒の解説・講解の方法は、ウェストミンスター大教理問答・小教理問答の方法にしたがって、求め立てている義務と禁止されている罪の2つの観点からそれぞれの戒めを解説・講解しているので、非常に分かり易い。


第2点は、律法という言葉のいろいろな意味に、スミスは整理していることである。神の啓示の全体(詩編1:2)、全旧約聖書全体(ヨハネ10:34)、モーセ5書(ルカ24:44)、十戒への特別な言及なしで、神の道徳的な綱領(ローマ2;14)、儀式律法(ヘブライ10:1)、特に十戒(マタイ22:36-40)、原理(ローマ7:23)を意味する。そして、十戒というとき、それは十戒以外の道徳的戒めを排除しているのではなくて、道徳的律法の全体の要約として十戒が語れていることを理解することが大切である。ウェストミンスター大教理問答第98問の答えで、「道徳律法は「、十戒のうちに要約的に包含されている、また、ウェストミンスター教理問答第41問の答えで、「道徳律法は、十戒の中に要約的に含まれています」と言われている通リである。


 第3点は、律法と福音の区別についてである。どちらも恵みの手段としての御言葉に属するが、この区別は、旧約聖書が律法で、新約聖書が福音であるという単純な区別ではなく、旧約聖書と新約聖書において、命令と禁止のかたちでの神の意志の表れが律法であり、福音は、旧約聖書と新約聖書において、キリスト信仰による罪の赦しの赦し、すなわち、救いを約束するものが福音という区別である。それゆえに、旧訳聖書にも福音があり、新約聖書にも律法がある。たとえば、創世記3:15の「女の子孫」は、母なる福音と呼ばれる。儀式律法における福音としては、旧約聖書の犠牲制度、割礼、過越の小羊がキリストによる罪の赦しと救いの象徴や予型を表していることは福音であり、また、預言者たちのメシア預言は福音である(イザヤ53章、イザヤ55:1-3、6、7、エレミヤ31:33-34など)。また、新約聖書における律法は、マタイ5:17、ローマ8:4、13:9、ヤコブ2:8-11、ヨハネ一3;4、5:3などが挙げられる。


 こうして、律法は、わたしたちに罪を自覚させ(ローマ3:20)、キリストに導く養育係(ガラテヤ3:24)であり、福音はキリストへの信仰を教えて救いを約束し、与えるのである(ローマ1:16、コリント一1:18)。パウロは、信者は律法の下にいるのではなく、恵みの下にいると端的に両者の区別を語った(ローマ6:14-15)。両者は同一ではない。


 第4点は、律法の効用、益についてである。スミスは、4つの効用、益を上げている。それらは、律法は、明らかに、キリストに導く養育係と言われる(ガラテヤ3:24)。信者たちの聖化のための規範である(ローマ7:22、ヤコブ2:3、ヨハネ14:15)。神の律法・十戒の説教は、広く人々の罪を抑制して、義と善を促進する。また、スミスは、ヨーロッパ諸国、英国、マメリカの法体系の基礎は十戒を含んでいることを語って、罪の抑止力になっていることが語り、クリスチャンはこの基礎が崩れないように努力するべきことを述べている。さらに、スミスは、律法は、最後の審判の規準として神に用いられることを語る。


 スミスは、こうして、律法の4つの効用を挙げたが、伝統的な改革派神学においては、通常、律法の3効用として語り、第1効用は、律法・十戒の説教は、広く人々の罪を抑制して、義と善を促進する効用、第2効用は、キリストへの養育係、第3効用は、信者の聖化の規範であるが、スミスは、第4効用として、最後の審判の規準としての効用も追加して語っている。わたしは、もちろん、最後の審判の規準としての律法が規準となることを知っていたが、3つの効用に使いして記すという仕方に初めて出会った。


 第5点は、十戒解釈の規則、ルールについてである。スミスは、この後、十戒について、一つ一つの戒めについて詳しく解釈・解説・講解するにあたって、十戒をどのような方法で解釈するのかその規則、ルールを確認しておくが、その解釈のための規則として、ウェストミンスター大教理問答第99問に述べられているか十戒解釈の規則、ルールを、6つを挙げているが、それらは、ウェストミンスター大教理問答第99問答通リなので、そこを読んでいただければと思う。


 第6点は、十戒の具体的な解釈である。序言から始まって、一つ一つの戒めを、現代の問題を意識しながら解釈をしていくので、わたしには非常に興味深いものであった。細かい点は、スミスの本文を読んでいただければと思うので、各戒めにういて、気づいたことを記す。十戒の序言については、十戒は、エジプトの奴隷状態から恵みにより救い出された後で、与えられたもので、救われた者の生活の規範となるのであって、この十戒を完全に守って救われよという律法主義的な意味で与えられたものではないことをスミスは語る。この十戒を完全に守って救われよという意味で与えられたと理解すれば、福音書に出て来る律法学者やファリサイ派の誤りに陥る。第1戒は、十戒の基本的な戒めであり、わたしたちは、ヤーウェ(Jehovah)を真の神として認めるべきことを意味している。十戒は、神の民とされるイスラエルのすべての人が守る義務があるが、それにもかかわらず、神は、「「あなたがたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と、2人称複数で語りかけたのではなく、「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」と「あなた」という2人称単数で、イスラエルの一人一人に権威をもって語りかえたことに注目すべきである。第2戒は、礼拝の様式を扱っている、神は、霊で目に見えない神であるので、刻んだ像を神として作ること、また、それらを通して神を礼拝することである禁止している。しかし、だからと言って、人間が芸術の意味で、神以外の物を彫刻することまで禁止していない。イエスは、当時の1デナリオン銀貨にローマ皇帝の肖像の使用を定罪しなかった。イエスは、それを認め、それを肖像として語った。


第3戒は、神の御名と神が御自身を知らせることごとくのものについての敬虔な使用を求め、神の御名の無益な使用を禁止している。ここで、門田になるのは、神の名による誓いである。イエスは、守る意思のない誓いを神の名以外で行っていたユダヤ人の行為を不敬虔として禁止したが、今日、英語では、神(God)の遠回しな表現の)gosh(ガシュ)あるいは、golly(ガリー)を使って、ええっ、まあ、すごい」などの驚きを表す言い方も、第3戒違反時になるので止めるように語っている。なお、


わたしは、ある人から次のようなことを聞いたことがある。今日、英語で怒りや驚きを現わすとき、それは、日本語では、「畜生!」に当たるが、英語で、Jesus(ジーザス)あるいはChrist(クライスト)と言ったりするということを聞いたこともあるが、


語る本人は、その言葉がイエス・キリストを表すこと知らないで使っていたので、その人が本来の意味を教えてあげたときには、その本人自身がびっくりしたということを聞いたことがある。これは、第3戒違反になる。


第4戒は、安息日ついてであるが、論争がある。すなわち、この第4戒を、ウェストミンスター信仰規準のように、永遠の道徳律法として守るか、ただし、その場合でも、キリストが復活してからは、週の最初の日がキリスト教安息日に変わった(changed)として丸1日を聖く守るか、それとも、カルヴァンの「綱要」における理解のように、この第4戒は、キリストによる霊的安息を差し示していたので、キリストが出現したことによって目的を果たして終了したので、いつ公同礼拝を行うのに日や曜日にこだわる必要はないが、信仰の養いと教会の秩序のために、週に一度、キリストが復活した週の最初にを「主の日」として、会衆が集まり、礼拝すると理解するかで、見解が分かれる。


スミスは、ウェストミンスター信仰基準に立つアメリカ長老教会の神学者なので、の第4戒を、ウェストミンスター信仰基準のように、永遠の道徳律法として守る立場で書いていて、青書的な根拠があることをかなり詳しく述べている。わたしは、ウェストミンスター信仰基準の安息日理解を守るために、これほど詳しく述べられたものを初めて読んだ。カルヴァンの「主の日」理解を取るか、ウェストミンスター信仰規準の安息日理解を取るかについては、わたしたちの日本キリスト改革派創立者たちの間においても見解の違いがあった。また、日本キリスト改革派は、ウェストミンスター信仰基準を採用しているから、カルヴァンの「主の日」理解を取ることは許されないということは事実としてなかった。そして、実は、この問題は、英国で作成されたウェストミンスター信仰基準をアメリカの長老派教会が受け入れるとき、どのような意味で、受け入れるかが議論されていて(チャールズ・ホッジの論文「ウェストミンスター信仰告白を採用する意味」)、礼拝、安息日、国家的為政者。誓約、結婚、教会、聖徒の交わり、礼典、死後の状態についての説明の違いは許され、これらのことについての説明の仕方については、ウェストミンスター信仰基準の説明と違っていても、これらは本質的な教理でないので、良いカルヴィニストであり得るという意味で、アメリカで採用された。


しかし、日本キリスト改革派教会の創立時には、「創立宣言」にもあるように、「・・・ウェストミンスター信仰基準ハ、聖書ニオイテ教エラレタル教理ノ体系ヨシテ最モ完備セルモノ」として受け入れたが、ウェストミンスター信仰基準を「教理の体系」として受け入れることが、どのような意味なのかにいての議論なしに、受け入れたのであり、また、チャールズ・ホッジの論文「ウェストミンスター信仰告白を採用する意味」すらも読んでいなかったと思われる。


それゆえ、カルヴァンの「主の日」理解を取るか、ウェストミンスター信仰規準の安息日理解を取るかについては、教会としての議論はないので、個人の信仰に任されているので、見解が異なっても、わたしたちは批判し合わず、お互いに認め合って歩むことが大事である。なお、ウェストミンスター信仰告白(基準)を採用する意味については、大会できちんと皆で議論して共通理解に立つことが必要であろう。チャールズ・ホッジの「ウェストミンスター信仰告白を採用する意味」において、日本キリスト改革派教会も受け入れることを明白にしておいたらよいと思う。


この問題についてのこれ以上の論述については、拙著「ウェストミンスター信仰告白の解説」の「第21章 宗教的礼拝および安息日について」の特に「第7節 キリスト教安息日」、「第8章 キリスト教安息日の守り方」、拙著「改革派教会の神学・説教・伝道・教会形成」の「上巻 20.、チャールズ・ホッジのウェストミンスター信仰告白を採用する意味」、「ウェストミンスター信仰基準採用の意味-安息日に即して-」を参照のこと。


第5戒については、子供たちが両親を敬い、両親に従順に従うべきことが求められているが、ここで求められている従順は、両親にだけでなく、市民的権威である国家為政者への従順も含まれいる。第6戒については、人が他の人を殺すならば、彼は、神のかたちを攻撃したので、神に対する罪となることを、スミスは語る。また、スムスはその理由で、殺人者に対して国家・政府が死刑を課すことは、神から与えられた剣の権威として許されることを語っている。第7戒は、結婚関係の純潔が求められているが、離婚は、相手側の姦淫と意図的な遺棄の場合に許されることを、ウェストミンスター信仰告白に基づいて語っている。


では、自殺はどうなのか。すると、スミスは、自殺は、自己殺人で、神に対する大きな罪であることを語る。では、信者で自殺した人は、天国に行けるかどうかについては、スミスは、聖書は、自殺を許されない罪として語ってはいないと言う。ただし、自殺の罪は、悔い改めの機会がないことを語る。それゆえ、彼は、最も深い恥をもって自分の造り主の面前に入ることのみがあり得ると言う。しかし、キリストは、信者のすべての罪をすでに許しているので、彼は天国に行ける旨を語っているし、彼が天国に行ったと言えるならば、自殺した信者が愛していた人々は、彼が自殺しても天国に行けたことを聞いて、絶望しないで、慰めを受けられることを語る。


以上が自殺についてのスミスの解釈であるが、この解釈にすべてのクリスチャンが同意するかは、わたしは疑問に思う。自殺が第6戒違反の罪であることは、ウェストミンスター小教理問答第69問の答えで「第6戒が禁じていることは、私たち自身の命を奪うこと、あるいは隣人の命を不当に奪うこと、またその恐れのあるようなすべての事です」と述べているので同意できるが、しかし、自殺した信者が天国に受け入れられるかどうかについて判断を下すことは難しい。聖書における自殺者は、サウル、アヒトフェル、イスカリオテのユダの3人であるが、これらの3人は、神に対する罪を犯したことで、自殺しているので、天国に受け入れられたと考えるのは、無理であろう。現代においては、聖書のケースと違って、心の病いに陥った信者が自殺する場合があるが、その場合はどうなのだろうか。憐み深い神の御配慮に委ねましょうと言って、遺族を慰めるのがよいのではないかと、わたしは思う。それ以上のことは、言えないような気がする。


また、自殺と共に、第6戒に関する問題は、堕胎であるが、スミスは、自分が属しているアメリカ長老教会(P.C.A)の立場を紹介して、受精した細胞は人間存在である、また、人間の生命は妊娠から始まることを語って、堕胎は第6戒違反であることを明白に語る。たとえば、ルカ1:24-56において、エリサベトが洗礼者ヨハネを妊娠していたとき「胎内の子」と言われている。また、マリヤがイエスを身ごもったとき、「胎内のお子さま」と言われていることなどの個所を挙げている。また、妊娠して母体が危機に陥ったとときには、両者を助けるための最大限の努力がなされるべきことを語っている。


第8戒は、各人の財産の権利が守られることを教えている。わたしたちは、自分自身のため、また他の人々のため、富を合法的に獲得することを求めるべきである。それゆえ、スミスは、勤労を軽んじて、チャンスに賭ける賭博は、第8戒違反と語る。財産に関しては、使徒言行禄2章で、エルサレムの信者たちが財産を共有する生活をしたが、それをどのように考えるべきか。ある人たちのように信者はそのようにすべきなのか。すると、スミスはそのようなことはないことを語る。理由は、エルサレムの信者たちの財産共有の生活は、愛の心から出た自発的行為であって、いつの時代のどこの国の信者もそうすべきものとして命じされていないことを語る。使徒ペトロは、使徒言行禄5:4で、アナニヤに対して、彼の財産権を十分認めている。


第9戒は、真理を保持する義務であり、特に公的な証言をする事柄における真理の保持である。真理は人間のすべてのコミュニュケーションにとって、また、人間社会の維持にとって、基本的である。社会に偽り、嘘、不真実がはびこれば、お互いの言葉を信頼できなくなり、社会は崩れる。では、事実に反する嘘は、どのような場合でも許されないのだろうかという問いがですが、ダブネーは、ヨシュアが戦略として、敵から自分たちの生命を防衛するような緊急事態においては、嘘も許されると言った。しかし、マーレーは、嘘が正当化される個所は聖書にはないと言ったことを、スミスは語る。でも、マーレーは、聖書には、嘘をつくのではなくて、真理を語らないでおくことが、求められる場合があることを、箴言11:13を引用して語る。


第10戒は、貪り、貪欲、際限のはい所有欲、満足することのない心の禁止を教えている。すなわち、自分が所有していないものに対する法外な欲望を持つべきではないという趣旨である。わたしたちは、神が自分たちを扱うことに対してあるいは、他の人々の定めや財産に対して不平を言うべきではない。ウェストミンスター小教理問答第80問の答えは、「第10戒が求めている事は、私たち自身の状態に全く満足すること、おsれも、隣人とそのすべての所有物とに対して、正しい愛の気持ちをもって満足することです」と簡潔に述べている。


以上十戒の解釈について気づいたことである。そして、十戒の解説と言えば、わたしは驚いたことがある。わたしは初めてウェストミンスター小教理問答の十戒解釈を読んだとき、その詳しさに飛び上がるほど驚いた。それぞれの戒めが、その文字通リだけのことを言われているのでなく、あれもこれもと言われているとして、求められている義務と禁止されている罪が書かれているのを見て、これを書いた人たちは聖書を隅々まで本当によく知っていたに違いないと思って、その聖書知識の広さと深さに驚嘆したことを、今でも思い出す。それゆえ、それゆえ、とても十戒をすべて完全に自力で守って救われることなど不可能だと思った。まさに、十戒、すなわち、律法は罪を自覚させ、キリストを信じて恵みによってのみ救われることに導く養育係の役割を果たすことがよくわかった。


第7点は、スミスは、特に論じていないが、バルトの律法は福音の形式という誤りについてである。すなわち、改革派神学においては、律法が福音に先立ち、人間の罪を責め、人間に罪を自覚させ、人間が律法を守り切って、義を得ることは不可能であることを知らせて、人間が福音によりキリストを信仰して、恵みにより救われることへ導く、キリストへの守役、養育係としての律法の益が語られてきた。そこで、律法は、福音に先行するものとして、律法と福音という順序で語られた。しかし、バルトは、その伝統的順序を逆転させて、福音と律法と言い、律法は、福音の形式と語る。すなわち、バルトによれば、人間は、キリストにおいて選ばれ、また、キリストの和解において、罪、律法の呪い、死、裁きから解放され、義とされ、受け入れられていて、恩恵がすでに客観的に勝利している。   


そして、福音は、この主権的恩恵を意味し、主権的恩恵は、永遠から選ばれ、イエス・キリストの十字架の死と復活により、すでに客観的に和解され、義とされた人間に、「あなたは何々すべし」という神の命令を与えるが、この「あなたは何々すべし」という命令が律法であるので、律法は福音の形式となり、律法は、恩恵の枠組み内においてのみ機能をもつと、バルトは主張する。こうして、神の言葉はひとつであり、内容から言えば福音であり、形式から言えば律法なのであると言い、また、義とされた人間が、神の意志の表れである律法に従って生きることが聖化となると、バルトは言う


しかし、ベルクーワは、ハイデルベルク信仰問答問3においても明白に表明されている福音に先行する律法の機能は、バルトには欠けていると語る。すなわち、人間に、罪と悲惨さを教え、自覚させ、責めて、キリストによる恵みによる救いの信仰へ連れて行く律法の大切な効用はなく、すでに客観的に選びの恵みに入れられている人間に対してのみ、人間が従う神の命令として律法は機能するというバルトの不十分さを、ベルクーワは指摘する。ハイデルベルク信仰問答問3の証拠聖句として、ローマ3:20で「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」、また、ローマ7:7で「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。」と語っていることが、バルトには欠けている。律法と福音は密接に結びついて、神の御言葉として恵みの手段であるが、しかし、同じものではなく、聖書自身において明白に区別されているが、バルトは、この区別を見逃す誤りをしている。それゆえ、わたしたちは、正しい意味で律法と福音と言おう。


なお、オランダのアペルドールン(Apeldoorn)神学校のファン ヘンデレンとフェレーマ共著のオランダ語で書かれた「簡潔な教義学(簡潔な教義学と言っても小さな活字で829頁もある1巻本の大著である)」において、バルトは、律法は福音の形式ということによって、律法も内容は恵みと主張したが、その主張は、律法の罪を告発する機能を見過ごしていると批判している。また、さらに、福音は、律法を守れなかった罪人をキリストへの福音信仰によって、罪を赦して救うものなので、福音は律法を前提し、律法が福音に先行することを語り、バルトが、その順序を逆にして律法と福音と呼ぶことは聖書の順序に反すると批判している。バルトの律法は福音の形式であるとの議論については、拙著「G.C.ベルクーワ:教義学研究-その紹介と解説-」の「第14巻 罪」の「第7章 罪と福音 6.カール・バルトの律法観(1)「律法は福音の形式である」、拙著「G.C.ベルクーワ:カール・バルト神学における恩恵の勝利-その紹介と解説-」の「第11章 神的勝利」の「7.バルトの福音と律法」dr.J.van Genederen,dr.W.H.Velema,Beknopte Gereformeerde Dogmatiek,Uitgeverijk Kok,Kampen,Wet en evangelie.pp.697-700を参照のこと)。


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