教会についての基本的な教えについて幾つかのことを概観したので、この探求において見い出された種々の理念を、体系の中に設定することを試みることが、今や、わたしたちの任務である。
1. 教会の性質
A.最初に、教会についての基本的な理念は、神によって召されてキリストとの結合に入られ、また、相互のまじわりに入れられた社会(society)あるいは人々の集会(assembly)の理念であることを、わたしたちは見た。
B.第2に、新約聖書において教会を表す言葉は、幾つかの意味において使われることを、わたしたちは考察した。教会一般について語ることに付加して、特定の会衆、町の、地方の、世界の教会についての理念がある。主のみわざを続けることにおいて、また、教会の前にある諸課題を決定することにおいて協力して団結した諸教会の理念がある。裁判所(a judicatory)として行動する教会への言及がある。
C.信者たちと主との霊的まじわりと、地上の教会の目に見える現われとの間に区別がなされる。このことは、すなわち、見えない教会と見える教会の2つの教会があると取るべきではないことが考察されるべきである。むしろ、わたしたちはキリストの一つの体だけが、一つの教会だけがあることを覚えるべきである。教会の見える局面と見えない局面について語ることが、あるいは、目に見えない教会の現われ(the manifestation of the invisible)としての見える教会を語ることが最善である。
D.見えない教会は、「選民の全員から成る。それは、すべてのものをすべてのもののうちに満たしているかたの配偶者。からだ、また満ちみちているものである」(ウェストミスター信仰告白第25章第1節)。見えない教会としての教会は、公同的あるいは普遍的である(catholic or universal)。この公同性は、可能的に最も広い性質について(of the broadest possible nature)であり、過去、現在、未来のすべての選民を包含する。
E.見える教会は、見えない教会のオープンな現われである。それは、「真の宗教を告白するすべての者と、その子らとから成る。それは、主イエス・キリストのみ国、神の家また神の家族であり、教会を通して、通常、人々は救われ、教会との結びつきが、彼らの最善の成長と奉仕にとって本質的なのである」(ウェストミスター信仰告白第25章第2節)。ここに、再び、普遍性の理念があり、その中で見える教会は、真の宗教を告白する世界中のすべての人々を包含する。見える教会も信者たちの子供たちを含むことも事実であることに注意せよ。わたしたちは、洗礼のための適切な主題を扱うとき、このことをもっと十分に展開する機会を持つであろう。この時点においては、わたしたちは、わたしたちの以前の議論が、神の民についての旧・新約聖書とそれらの教えの統一性を証明したことを言うことで満足しよう。旧約聖書の民が子供たちを含んでいたことは、明らかである。というのは、子供たちは、契約のしるし、すなわち、割礼で証印されていたからである。もし、この同一性が正しければ、そのとき、新約聖書の民も、子供たちを含むことを期待してよいのである。
F.見えない教会と見える教会は、次の点で比較されよう。見えないという用語は、キリストとの内面的で霊的な関係を示している。他方、見えるという用語は、キリストとの外側の外面的な関係に言及する。それゆえ、見えない教会は、真に救われた人々から成る。他方、見える教会は、告白のみをした者たちを含むが、しかし、彼らは真の救いに至る信仰をもっていない。見えない教会は、共通の選びと信仰のゆえに、公同的で(catholic)ある。見える教会は、信仰の共通の告白と、キリストへのその結果として起こる外面的な関係ゆえに、公同的で(catholic)ある。
G.見えない教会としての教会において、すでに示されたメンバーシップは神の選びの聖定によって立てられた霊的関係に依存する。見える教会おけるメンバーシップは、信仰の外面的な告白によって決定されねばならない。見える教会は、真の信仰があるかないかを決定する手段を所有しておらず、判断され得るすべてのことは、信仰の告白の信頼性(the credibility)である。口だけの告白でなく、クリスチャンとしての行動に応じる生活を含む。
H.わたしたちの聖書研究から強調されるべき一つの点は、神の民は2つの聖書において見られ、多くの方法で異なるが、しかし、一つであるという事実である。シナイの集会は、ヘブライ人の手紙において描かれた大きな会衆の原型(the prototype)である。換言すれば、古いイスラエルは旧約聖書の教会と呼ばれてよいし、また、新約聖書の教会は、新しい契約のイスラエルと呼ばれてよいであろう。古い契約の民は、メシアの到来を待ち望み、そして、彼が来たとき、彼らは全体としては彼を認めることに失敗した。新約聖書の教会は、旧約聖書の教会が失ったもの単純に引き継いだのである。彼らは古い根に接ぎ木されたのであり、また、こうして、新しい形態の下に古いものを継続するのである。パウロは、ガラテヤ3:14-14、29において、この事実を肯定している。キリストは、アブラハムの祝福が異邦人に来るために死んだのであり、また、キリストにある者たちがアブラハムの子孫なのである。
Ⅱ.教会の権能
A. 教会の権能の源泉
わたしたちは、すべての最初に、神が教会を御自身のものとして御自身に召したこと、また、御自身のために教会を所有するすることを以前に注目した。第2に、神は、御自身について証をするための御自身の器(his instrument)として、教会を用いることを適切と見た。パウロは、こうして、見える教会を、「行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」(テモテ一3:15)として描いた。このことは、教会は真について証をするべきとの理念を示唆する。
わたしたちが見てきたように、聖書は、キリストが教会の主であることを教えている。教会を、御自身の目的のために建てたのは、キリストである。この事実から、わたしたちは、教会の権能の源泉は、キリスト御自身から来なければならないことを結論する。教会に力を与えるのは、会員たちの自発的な同意ではなく、教会の王の命令と権威である。社会としての教会は、そのまさに存在と起源を彼に負っている。彼は、教会のかなめ石である。彼が教会を存在させたのである。彼が、彼の律法を教会の支配のために与える。彼が、教会の職務の担い手たちを与える。彼が、彼の礼拝の主であり、教会の礼拝の形態の付与者である。さらに、彼は、教会が彼の御言葉と一致して適切に生きているとき、教会において享受される祝福の源泉である。彼は、御言葉の奉仕、また礼典の順守を通して祝福の付与者である。彼は、個人の信者と、体としての教会の両方の命の源なのである。
「すべてのものが彼から派生している。すべてのものがその源泉としての彼から発出している。主イエス・キリストが唯一の教師であり、律法付与者であり、審判者である。もし、教理が教えられるならば、それは彼がその教理を啓示したからである。もし、諸規定(ordinances)が執行されるならば、それらは彼の名において執行される、そして、その諸規定が彼の諸規定だからである。もし、統治がなされるならば、それが彼の任命と権威によるのである。もし、救いの恵みが与えられるならば、それは彼の御霊の効力と力によって(through the virtue and power of his Spirit)与えられる。もし、祝福が伝達されるならば、それは彼が祝福するからである。信仰告白の言語においては、「主イエス・キリスト以外に教会の他の頭はいない」(James Bannerman,The Church of Christ:Edinburgh:T.& T.Clark,1868,Vol.1.p.195)のである。
B. 教会の権能の律法(the law of church power)
C. 教会の権能の性質
教会の権能はキリストから派生するので、また、神の御言葉を宣言することにおいて使われるべきであるので、教会の権能は霊的であり、物理的ではない(not physical)。このことは、イエスが剣の使用を弟子たちに否定した事実において見られる。霊的な領域における教会の権能の限界は、その力を否定することではない。教会が、権威を行使する3つの領域がある。最初は、信仰の事柄を包含する。教会は、信仰について証をするべきである。教会は、神の言葉を人間に宣言する。これは、説教と教えることである。これは、イエスが大委任(the great commission)(マタイ28:18-20、ルカ24:45-49、使徒言行禄1:8)において教会に与えた特別な権能である。この委任は、伝道と教育の両方を包含する。
教会は、礼拝を定めること(order worship)また、礼典の適切な管理を見ることの権威をも持つ。これも教会の霊的な働きである。それは、適切に召され、任職した教会の職務の担い手たちを通して行われる。
教会が権能を行使する第3の領域は、戒規の権能である。これは、教会の司法的な権能である。これも再び性質において霊的である。戒規は、会員たちの教会への受け入れにおいて、彼らの信仰に基づいて行使される。戒規は、会員たちを、キリストへの信仰と服従において確信することを求めることにおいて行使され続ける。罪の出来事においては、教会は、誤りを、諫め、警告、けん責(censure)、責(rebuke),あるいは、最終的には除名(excommnunication)により、回復を求めることにおいて、戒規を執行しなければならない(コリント一5章、コリント二2:5-11)。ここにおいても再び、剣の行使の場所がないことに注目せよ。教会が、その会員に課すことができる最も大きなけん責(censure)は、見える教会における会員籍を奪うことである。こうして、除名は、教会の戒規的な権能の最後的な限界である。これらの領域における諸決定は、2つの根拠において権威的と考えられる。最初に、教会は、キリストの律法、書かれた神の御言葉に一致して行動したのであれば、そのとき、その行為はキリストの権威を持つのである。第2に、キリストは、教会に鍵の権威を与えたが、それは、これらの領域において行動する教会の権威の象徴なのである。
D. 教会の権能の目的と意図(the end and design of church power)
究極的には、教会の権能の目的と意図は、神に栄光をもたらすためである。このことを、教会は、神の御言葉への服従によって果たす。世との関係において、教会の権能は、第一義的に、証と宣言の領域において行使される。他方、教会の権能は、教会の一般的な益と霊的善に向けられる。コリント二10:8と13:10は、体の一般的な建徳について語る。このことは、その行使における3つの領域、すなわち、信仰、礼拝、戒規の各々においても真実である。人々は、教会にとって、あるいは、個人にとって、破壊的となるような方法で、権能を行使しないように最大限の配慮を用いねばならない。意図は、建徳のためであり、破壊のためではない。
Ⅲ.教会の標識(the marks of the church)
使徒的時代以来、教会は、非常に多くの多様性をもって地のすべての部分に広がった。事柄の性質上、見える教会は、地域的な諸集団の多様性において現われた。さらに、教会の歴史においては、信仰、礼拝、戒規についての意見の違いが生じた。分離が起こり、教会の肢の増加が起こった。理想的には、見える教会は、その霊的統一性を、信仰、礼拝、統治において一つであることを表すべきである。しかしながら、事実は、そのような統一性は存在しない。すべての違いを根絶する近代のエキュメニカルな運動の企ては、あたかもそれらの違いが重要でないかのように、少なくとも、高度に疑わしい行動である。その運動の成功は、非常に多くの教会の側についての洞察の低い状態を大いに示す。それらの教会は、聖書が、教理、礼拝、統治について言わねばならぬところのことについて理解していないか、あるいは、関心をもっていないのである。
歴史的には、教会には、非常に多くの分裂があった。不十分な根拠で、不注意にあるいは理不尽に分離することは、キリストの権威に対する大きくて真剣な罪である。「見える教会は、・・・神の家また家族であり、その外には救いの可能性はない」(ウェストミスター信仰告白第25章 教会について 第2節)。疑問は、見える教会からの分離に対する何かの正当性があるかどうかが答えられるべきである。バナマン(Bannerman)は言う。「その特定の教会自体が信仰から背教し、あるいは、その会員たちにまじわりの条件を課して、どちらかに従うことが、罪であるということは確かである。そのような場合には、分離は果たされるべき義務となり、避けるべき罪ではない。しかし、教会からのそのような環境における分離においては、分離する側に分派はない。こうして、教会からの分離していくことにおいて、わたしたちは、実際、キリストの一つの教会を高度な統一性を侵害する以上のものを、むしろ維持するのである」(James Bannerman,The Church of Christ,op.cit.Vol.1.p.48)。
最もおおきな関心が、教会の見える統一性を保持することを求めることにおいて、考察されるべきである。クラウス・ルーニア(Klaus Runia)は、雑誌「松明とトランペット」(Torch and Trumpet)において、その問題を論じている。彼は、わたしたちは、分派(schism)と分離(separation)を区別すべきことを示している。分派は、その原書の意味において、常に、不注意な違いと会員たちの間における争い(contention)のゆえの教会における分裂(a division)に言及する。分離する側は、教会を去るのである(the separating party leaves a church that is itself faithful to the Gospel)。それ自体が福音に忠実なのである。この理由のゆえに、分派は常に罪深いのである」(Vol.ⅹⅦ、No.6,p.18)。
ルーニアは、さらに分離をこのように定義する「ここに、信者たちのグループは、主な体から自身を分離する(separates itself from the main body)。何故なら、後者は神の御言葉に不忠実になったからである」(Idem.)ルーニアは、それゆえ、この主題に関する聖書的な教えを吟味することを求める。
ここで、原則を求めて、旧約聖書を見る人々がいる。彼らは、どの分離も2つの理由で不適切と主張する。最初に、旧約聖書の預言者たちが、イスラエルのすべての罪にもかかわらず忠実に残った人々の模範として引用される。しかしながら、ルーニアは、この見解は、旧約聖書における神制政治(the theocratic situation)の事実を考えに入れることに失敗していると指摘する。彼が指摘するように、わたしたちは、今日は、そのような神制政治を持っていない。分離に反対する第2の論拠は、残りの者(the remnant)の理念から取り出される。換言すれば、わたしたちは、その腐敗にもかかわらず、教会における残りの者(a remnant)を保持すべきであると主張する。この論拠は、キリストの復活において生じた変化を認めることに失敗している。「厳密に言えば、主の復活は、残りの者の思想の終わりなのである。・・・今後は、次第に少なくなること(not to dwindle)でなく、広がっていくこと(to extend)が、クリスチャンの残りの者(the Christian Remnant)の定めなのである・・・」(G.Henton Davidson,in A.Ruchardson,A theological Wordbook of the Bible :New York)Macmillan,1951p.191)。
新約聖書は、明らかにすべての分派を定罪している(コリント一1:10以下、11:18-19、ガラテヤ2:12、5:20)。他方、わたしたちは、新約聖書において、ユダヤ教教会からのキリスト教会の次第の分離を見い出す。ユダヤ教教会は、キリストを拒否して、「サタンの会堂」になった(黙示録2:9)。他方、クリスチャンたちは真の「神のイスラエル」(Israel of God)(ガラテヤ6:16)から成るのである。論拠の第2の線は、コリント二6:14-17から取られる。そこは、汚れたものからの分離である。このことが、教会の分離に直接的に適用するかどうかは論争の余地がある。それは、明らかに、信仰のすべての敵に適用し、また、直接的に世からの分離に言及しているように思える。ルーニアは、新約聖書のもっと大切な教えは、「異端は教会において耐えられるべきものではない」(herecy is not to be tolerated in the church)という明らかな戒めであることを言っている(Runia,op.cit.p.19)。異端的なものは教会から排除されるべきである。こうして、分離は、信者たちが教会を去ることによるのではなく、異端的なものの排除(the expulsion)によるのである(ガラテヤ1:8-9、テモテ二3:4、ヨハネ二4:い以下、黙示録2:14)。ルーニアは、これが、新約聖書が特にこの主題について教えていることのすべてと主張する。それから、彼は、新約聖書は、「誤りが合法的な場所を得る教会の状況を知らない」と指摘するのである(Runia,op.cit.p.20)。
今日、教会が直面している問題は、許される誤りがあるという事実である。この事柄への適切なクリスチャンのアプローチは何かである。最初のことは、分離による改革の外科的方法と呼ばれるもの(the surgical method of reformation by separation)である。2つの問題が生じる。多くの場合、教会を改革する試みは行われない。それは単純に放棄されている。第2の問題は、頻繁に、教会についての聖書的ではない根底にある完全主義的な見解があることである。罪人が恵みによって救われても、教会が罪人たちから成る限りにおいては、「純粋な」教会(a pure church)は、期待されていない。
第2のアプローチは、医学的方法(the medical method )と呼ばれるものである。ここでの思想は、教会は改革することを超えないし(not beyond reforming)、また、わたしたちは、そこにとどまるべきではないというものである。霊的手段だけが、改革をもたらすのに使用されるべきであり、また、あからさまな争いは避けるべきである。ルーニアは、ピューリタンの期間のリチャード・バクスター(Richard Baxter)、19世紀のライル司教(Bishop Ryle)、そして、今日のジョン・W・ストット(John W.Stott)を、この方法論を適用することを求めた人々の模範として引用した。この見解は、教会の諸行為に対する会員たちの共同責任(co-responsibility)の事実を無視する傾向にある。教会を表す体のたとえのパウロの使用は、わたしたちすべてが一つの体であり、また、こうして、体の各部分が行うところにことに参加するのである(コリント一12章、コリント二6:14-16)。医学的アプローチの他のタイプは、教会の中に教会を建てることの試みである。全体としての教会を正しくすることを試みるのではなくて、全体としての教会の内側に真の信者たちの核(a nucleus)を形成することを試みるのである。
第3のアプロ-チは、ルーニアが、医学的-外科的方法(the surgical-medical method)と呼ぶものである。この方法は、教会を内側から改革することを試みるが、しかし、使えるすべての手段を用いることを主張するバクスター(Baxter)を超えて行く。それは、まさに説教することと誤りについて書くことでは十分ではない。人は軽く教会を去るべきではないという医学的な方法(the medical method)に同意しながらも、この方法は、このことを可能性として除外しない。「それは、分離が、教会あるいは教派の悔い改めない態度によって強いられるときだけ、分離するであろう。それゆえ、最終的な責任性は、常に、教会あるいは教派に依存し、それは、神の御言葉によって改革されることを拒否する」(Ibid.Vol.ⅩⅦ,No.7,p.10)。ルーニアは、次の適切なコメントをもって自分の扱いを結論する。「究極的に、その事柄は、各人の良心の前にある。このことは、主観主義と個人主義の弁解ではない。むしろ、それは、聖書において、その事柄についての明白な叙述がないという事実を認めることである。どのクリスチャンも、常に、自分の良心をその全体性における聖書によってテストしなければならないし、また、この仕方においては、決して完全に暗闇に残されることはないであろう」(Ibid.,p.13)。
教会における誤りの問題を扱ったが、とはいえ、わたしたちは、それによって教会が認められる標識(the marks)についてもっと積極的に何かを規定しなければならない。別の言い方をすれば、わたしたちは、教会の存在に何が必要であるか(what is necessary to the being)と教会の健康な状態のために何が必要か(what is necessary to the well-being of the Church)を区別すべきである。別の言い方をすれば、制度化された教会(what the Church was instituted)と、教会のために制度化されたもの(what was instituted for the Church)を区別する必要がある。
教会が制度化された偉大な目的は、罪人たちの救いにおける神の栄光化であり、またキリストの福音の発布によって救われた者たちの建徳である。
「この目的のために、最初に、教会は制度化され、この目的のために、教会は、一つの世から次の世代に存続する。また、教会が、この一つの偉大な目的を完遂する限り、教会は、教会の適切で第一義的な目的に少しでも仕えたのである。それゆえ、最初のテストによって判断するならば、わたしたちは、真の信仰、あるいはキリストの教理を保持し、説教することは、キリスト教会の唯一の確かで、無謬のしるしあるいは標識なのである(the only sure and infallible note or mark of a Christian Church)と言うことが保証される。・・・真の信仰は真の教会を作り、腐敗した信仰は腐敗した教会を作る・・・教会は、真理のために建てられ、真理が教会のために建てられるのではない」(James Bannerman,op.cit.Vol.1.p.59)。
教会が制度化された真理と対照的に、職務の相手たちのようなそれらのものが教会のために制度化された。彼は、「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです」(エフェソ4:11-12)。これらは、教会の健康な状態のために確かに必要であるが、しかし、教会の存在の存在のためではない。
改革派教会は、同じ基本的な結果をもってであるが、標識(the marks)を異なって載せた。ウェストミンスター信仰告白は、教会の一つの本質的な標識として、真の宗教の告白を語る。スコットランド信条(1560年)、ジュネーヴの英国人教会は御言葉の純正な説教(the true preaching)、礼典の正しい執行(the right administration of Sacraments)、戒規の厳正な執行(the upright administration of discipline)を載せている。アメリカ長老教会(the Presbyterian Church of America)の「教会規定」(the Book of Order)は、御言葉と礼典を載せている。キリスト改革派教会(the Christian Reformed Church)と正統長老派教会は、すべて3つを載せている。これらの見解のすべては、究極的に御言葉とその真理を教会の基本的標識として置いているのである。
解説
「第42章:教会についての教理の形成」の紹介が終わったので、7点の解説をする。細かいことはスミスの本文を読んでいただければと思うので、気がついたことを記す。第1点は、歴史を通して、教会についてのいろいろな局面が明らかになり、教会についての教理が形成された。そこで、スミスは、本章において、3つの事柄を扱う。すなわち、見える教会と見えない教会について、教会の権能について、教会の標識・しるしについてである。では、見える教会と見えない教会とは何か。すると、この区別はルターが最初に言ったこととされているが、改革派も取り入れ、地上にある教会の2面性を強調したのであって、2つの教会があることを意味するものではない。スミスの言っていることを整理すれば、見えないという意味は、キリストとの内面的で霊的な関係を示している。見えない教会は、選民の全員から成る。真に救われた人々から成る。見えない教会の会員は、神の選びの聖定によって立てられた霊的関係に依存する。聖霊により再生されている子供たちは、見えない教会の会員である。
見えない教会に対照して、見えるという意味は、キリストとの外側の外面的な関係に言及する。見える教会は、見えない教会の現われである。信仰告白をしたが、しかし、真の救いに至る信仰をもっていない。見える教会おける会員は、信仰の外面的な告白によって会員である。信者の子供たちも恵みの契約のしるしを受けているので、見える教会の会員である。
見えない教会と見える教会については、拙著「ウェストミsンター信仰告白の解説」の「第26章第1節 見えない教会」と「第2節 見える教会」の説明を参照のこと。
第2点は、スミスは、教会の権能(power)について述べる。すると、教会を、御自身の目的のために建てたのは、教会の王また頭であるキリストであるから、当然、教会の起源、存在、権能、霊的力の源泉はキリストから来ることを述べる。また、教会を治める法は、キリストの御言葉であり、会員の意志ではないし、国家の意志でもない。そして、教会の権能は、あくまでも権威ある御言葉を宣言する権能であり、教会が御言葉と異なる法を勝手に作って支配することではない。教会が教会を治めるために必要な規則を作る場合には、御言葉と一致したものでなければ、まったく権威を持たない。また、教会の権能は、国家と違って、この世の行政的な強制力のように上からの支配力ではなく、神と人に仕える奉仕的な力である。なお、教会の権能の性質は、国家のような物理的力や軍事的・警察的な力ではなく、あくまで権威ある神の御言葉を宣言することに存する。そして、実際に、キリストの権能が現れるのは、伝道と教育、礼拝と礼典、そして、戒規の3つの領域においてであることを、スミスは述べる。では、教会に権能が与えれた目的と意図は何か。すると、スミスは、それは、究極的には、神に栄光をもたらすためであり、罪のこの世に対しては、キリストとその救い権威をもって証し、力強く宣言することであり、教会に対しては、教会と信者の建徳を目的、また意図として与えられたことを語る。それゆえ、教会の権能を教会の破壊や信者の救いの破壊のために乱用しては決してならない。教会役員はこのことを肝に銘じなければならない。
第3点は、改革派の「教会規程」、具体的には、「政治規準」、「訓練規定」、「礼拝指針」は、教会の王にして頭なる主イエス・キリストの教会統治、訓練、礼拝における御心を具現した非常にすぐれたものである。これほどすぐれたものを持っている教派はないであろう。「教会規程」の前文は、非常に優れた表明である。今、全部を載せられないが、一文だけ載せておこう。「主イエス・キリストは、教会の王また頭として、教会に、仕え人、教導の言葉、礼典を含む礼拝儀式その他の活動を与えられ、特に、教理、政治、礼拝の大綱を定められた」とある。以前に、わたしが現職のとき、東部中会の教師会でこの「教会規程」を取り上げ、少しづつ読んで、皆で議論しながら、読んでいって、共通理解を深めることができ非常に大きな皆の益となったことを思い出す。改革派は、神の御言葉に一致した「教会規程」に従って、教会の王また頭であるキリストの教会を日本の地に力強く建てていく使命を持っている。ぜひ、「教会規程」を読んで話し合ってほしいと思う。
第4点は、教会の戒規権能についてのベルクーワの見解の特色を紹介しておく。すると、ベルクーワは、戒規は、罪を犯した教会員が福音を聞いて、罪を悔い改めて、再び、信仰・救い・教会に復帰させるのが目的であるので、戒規と福音を切り離すことをしてはならないことを強調している。カトリックのように、福音と切り離して、教会の司法権・裁判権を主張してはならないと述べている。戒規についてのベルクーワの見解は、拙著(G.C.ベルクーワ:教義学研究-その紹介と解説-」の「第14巻
教会」の「第14章 きよさと戒規」を参照のこと。
第5点は、教会の権能は、教会の伝道・宣教においても現れることについてである。改革派は教理や神学は熱心であるが、伝道や宣教は熱心ではないなどと言われることがあるが、わたしは、あるとき、宗教改革者のカルヴァンが、当時、まだ未開の地であったブラジル伝道に行く2人の宣教師を支援したという事実を聞いたとき、とても驚いたが、同時にとてもうれしかったのを思い出す。後で、わかったことであるが、カルヴァンアのブラジル伝道支援は、わたしの記憶では、R.B.カイパーの「キリストの栄光の体-教会」か「神中心の伝道」に書いてあったと思う。
また、わたしが、ウェストミンスター信仰規準を書いた約百人ほどの神学者たちの経歴を書いた著作を読んでいたとき、土着のアメリカ・インデアンたちへの伝道を熱心に行ったウェストミンスター神学者がいた事実を知ったときも、わたしはとてもうれしかったことを思い出す。
また、ベルクーワの宣教論を読んだとき、わたしは非常に励まされた。ベルクーワは、教会は、罪のこの世において神に建てられた唯一の救済機関として、伝道なくして教会なし、宣教なくして教会なしと言えるほど、今の時代における伝道・宣教の重大性、真剣性、緊急性を強調している。教会の伝道・宣教についてのベルクーワの見解は、拙著(G.C.ベルクーワ:教義学研究-その紹介と解説-」の「第14巻 教会」の「第15章 きよさと宣教」を参照のこと。
第6点は、スミスが教会の標識について述べていることである。教会は、理想的には、キリストの教会として一つであるが、現実には、歴史において、信仰、礼拝、戒規についての意見の違いが生じ、また、異端も生じ、分離や分裂がしばしば生じた。そこで、真の教会、真の見える教会のしるし・標識が問題となり、改革派の宗教改革者たちが見解を語ったが、教会の標識・しるしについては、一つ、2つ、3つが語られた、たとえば、ベザ(Beza)、アメシウス(Amesius)などは、福音の純粋な教理を一つだけ語った。カルヴァン(Calvin)、ブリンガー(Bullinger)などは、御言葉の純粋な説教と礼典の正しい執行の2つを語った。ウルジヌス(Ursinus)、ハイデッガー(Heidegger)などは、御言葉の純粋な説教と礼典の正しい執行と戒規の厳正な執行の3つを語った。ウェストミンスター信仰告白はどうか。すると、スミスは、ウェストミンスター信仰告白は、「真の宗教の告白」(the profession of the true religion)(第25章第2節)を教会の一つの本質的な標識・しるし(the one essential mark)としていると語っている。
第7点は、教会の分離、分裂、複数形態についてである。スミスは、分離と分裂は異なることを、ルーニアを引用して語る。分裂は異端や争いが原因であるが、分離は、教理的なものが原因であることを語る。そこで、教会が幾つにも分かれていることについてのベルクーワの見解を紹介しておく。すると、歴史上、いろいろな意見があ
った。ある人は、教会が分列するのは必然的と考えた。また、ある人は、教会が分裂するのは、神の御心で、許容されると考えた。しかし、ベルクーワは、教会が分裂するのは、人間の罪ゆえであるので、正当化せず、分裂を招いた人間の罪を素直に認め、告白すべきと語る。また、教会が一つになるのは、どうせ無理で、終末においてのみ実現するという考え方は、ベルクーワは、敗北主義と語る。
では、改革派神学者たちは、教会が多数に分かれていることをどのように考えてきたか。すると、オランダのアブラハム・カイパーやヘルマン・バーフィンクは、宗教改革後、教会が幾つにも分かれていることを、教会の複数形態あるいは教会の多数形態という概念で意味づけしようとした。しかし、ベルクーワは、カイパーやバーフィンクの教会の複数形態あるいは教会の多数形態は、決して正当化されないし、聖書に支持されないことをはっきり語った。というのは、聖書は、フィリピ2:2で「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」と言われているように、一致に召されているこことを忘れてはならず、一致のための祈り、努力、工夫の熱心を失ってはならないこと強く主張している。本当にその通リと思う。できるところから努力することが大切と思う。教会の統一性と分裂については、拙著「G.C.ベルクーワ:教義学研究-その紹介と解説-」の「第14巻 教会」の「第2章 教会の統一性と分裂」、「第3章 複数形態」を参照のこと。
http://minoru.la.coocan.jp/morton42.html