キリストと教会

 


1. 教会についてのキリストの教え


 


A.  マタイ16:13-19


 


この個所の文脈は、最終的に、エルサレムでのわたしたちの主の死に結果する対立の年の真ん中の出来事である。イエスは、生じるであろう拒否に対して、御自分の弟子たちを準備しておられた。偉大な告白の直後に、「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(マタイ16:21)という教会に関するイエスの叙述をわたしたちは見い出す。これらは、もちろん、サンヒリン(the Sanhidrin)を構成した3つのグループであった。「わたしたちの主の言葉の意味は、それゆえ、弟子たちによって理解されたように、彼は、彼らが弟子たちの心に対して、また、すべての敬虔なユダヤ人たちにとって、会衆あるいはイスラエルと主の教会(קהל ישראל:the qehal yisrael:ケハル イスラーエル、קהל יהוה:qehal yehowah:ケハル イホウワー、εκκλησία του θεουthe ekklesia tou theou:エクレーシア テゥ セウウ)の最高の代表たちである「民の支配者たちと長老たち」の大きな集会によって公的に、また最後的に拒否されることであった」(Bannerman,Scripture Doctrine of the Church,op.cit.p.166)。


 イスラエルであることを公言する会衆によって差し迫った拒否にもかかわらず、また、彼に苦しみと死における神による拒否にさえもかかわらず、彼は御自分の教会を建てることを語ったのである。「彼らは、岩のように固い基礎の上に御自分の教会を建てることについて、何の妨害もないのであり、その結果、教会は、将来におけるすべてのあり得る攻撃を不可能にすべきであった」(Idem.)。


 ペトロの告白は、イエスの問いへの応答である。「人の子」(Son pf Man)という表現は、ダニエルから来ており、メシアについての彼の預言であり、それは、天の雲に乗って栄光のうちに来られるメシアを語っている(ダニエル7:13)。「人の子」は、それによってイエスが御自身に言及する好まれた仕方の一つであった。人々は、イエスのことを誰と考えているかに関して与えられた種々の答えから、人々がイエスについての真理を把握することに失敗したことは明らかであった。他方、ペトロは「生ける神の子」(Son of Living God)というタイトルを使い、こうして、明らかに神的タイトルをもたらした。こうして、キリストを描くのに、人間と神の両方のタイトル(both a human and a divine title)を結びつけていて、彼は2つの性質において神と人であり、また、一つの人格なのである。ペトロの告白は、まさのそれであった。それは思弁的な叙述ではなく、イエスに関する弟子たちの信仰の告白であった。


 イエスは、このことは、天の父からの啓示によって、ペトロに来たことを示す。それから、イエスは、偉大な約束と「偉大な予告を与えたのである。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16:18)。「ペトロ」(Peter)という名前は、イエスの弟子として、召されたときのシモン(Simon)に与えられていた(ヨハネ1:43.マルコ3:16)。「しかし、そのそれにふさわしいことは、顕著には証明されなかった。わたしたちの主の言葉は、このことに等しいと思われる。『そうだ、あなたの名前のペトロは、わたしが何であるかに関して、また、わたしが何をするために油注がれて遣わされたかに関して、わたしの父があなたに啓示した真理を保ち、わたしをそのような強くて固い信仰をもって語るときは、岩の人を意味する。そして、この岩の上に(επι ταύτη τη πέτρα:epi taute te petora:エピ タウタ テー ペトラ)わたしはわたしの教会を建てる』(Banerman,Scripture Doctrine of the Church,op.cit.pp.170-171)。


 バナマン(Bannerman)は、それゆえ、この叙述の意味の考察に進む。「ここには、ペトロ自身に対する特定の本人的なかつ公的な言及(a ceratai npesonal and official reference9)があることは確かとわたしは思う。そして、それは、たとえば、―アウグスチヌスと他の人々によってなされたように―わたしたちの主は、その岩(the rock)が、ペトロの告白において具体化されるキリストに関する真理であるのではなくて、教会が建てられる岩として(as the Rock)御自身を指し示す何かのゼスチャーをしたと仮定することによっては、公平に脇に置かれ得ないのである。他方において、こうして、信じ、告白し、他の使徒たちと弟子たち一般のスポークスマンとして、そのように信じて告白することだけであるということも、明らかである」(Ibid,p.171)。


 ペトロは、この環境において、主イエスの人格とみわざへについての真の救いの信仰の福音の歴史において最初の公的な代表として立っているのである。「ペトロは、要するに、アブラハムが旧約聖書においてそうであったように、新約聖書の土台において真の信仰の代表、今後、キリスト・イエスを信じるすべての人々への模範またモデルとして立っているのである」(Ibid,p.172)。


 「わたしはわたしの教会を建てよう」との断言は、御自身の教会の源泉を示す。イスラエルの会衆の拒否にもかかわらず、また、御自身の来るべき死にもかかわらず、イエスは、御自身が御自身の教会を建てるのである。ここで用いられた εκκλησία:ekkresia:エクレーシアという用語は、神政国家的集会(the theocentric assembly)あるいは神の民の共同体(the community of God’s people)についての旧約聖書全体の概念を意味している。εκκλησία:ekkresia:エクレーシアという用語は、世界の他のすべての国民から神によって選ばれ、そして、御自身の特別な民へと召された聖なる会衆なのである。贖い主は、陰府の門も対抗できないと宣言するとき、教会についてのこの概念全体を充当したのである。すなわち、まさに死とサタンの領域から来る力も対抗できないのである。


 「神の契約の民のまじわりは、彼らの時代において、神の子、自らによって岩のように固い基礎の上に建てられ、そして、見えない未来と見えない世界からの悪の力、死と滅びの領域も対抗できないのである」(Ibid.p.175)。


 御自身の教会の建設と継続のこの確かさに沿って、御国の引き渡しが加えられる。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16:19)。


 バナマンは、「『御国の鍵』1という句の理解に関して、最も助けとなる示唆を与える。ペトロの岩と彼の告白の上の御自身の教会を、御自身が建てることに関して言及するとき、イエスは家のたとえを使う。キリストは、幾つかのたとえにおいて、家の主人の理念を教えた。主人が遠くに行っているとき、管理人たち(stewards)に家を治める権威を指定した(ルカ12:42以下、19:12以下)。イザヤ22章に興味深い個所がある。そこでは、エルサレムの新しい総督として、シェブナに代わってエルヤキムがなる。「彼にお前の衣を着せ、お前の飾り帯を締めさせ、お前に与えられていた支配権を彼の手に渡す。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵を置く。彼が開けば、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はないであろう」(イザヤ22:21-22)。


 ここで、わたしたちは、統治的な権威の象徴として、「ダビデの鍵」(key of David)という用語の使用を、町を開けたり、閉めたりすることへの特別な言及をもって、見るのである。イエスは、モーセの座に座っている律法学者たちやファリサイ派に言及し、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」(マタイ23:13)。ルカ11:52の平行句において、このことは、「知識の鍵を取り上げる」こととして描かれている。教会を支配する王としてのイエスの権威が、黙示録3;7において、「フィラデルフィアにある教会の天使にこう書き送れ。『聖なる方、真実な方、/ダビデの鍵を持つ方、/この方が開けると、だれも閉じることなく、/閉じると、だれも開けることがない。その方が次のように言われる」と描かれている。


「御国の鍵」の概念は、ここでは、新しいものではないが、しかし、明らかに、キリストの管理人たちの権威に言及している。つなぐ(to bind)と解く(to loose)の句は、ユダヤ教の会堂では見慣れたものであったし、そこでは、禁止すること(to forbid)と許可すること(to allow)を示した。「キリストの家と御国における管理人は、鍵の力を使って、何が禁じられ、何が許可されるかを決定す。換言すれば、管理人は、家の一員であることの条件と家の規則を定着させるのである」(Banerman,


Scripture Doctrine of Chuech,op.cit.p.177)。


禁止されることと許可されることの性質については、ここで扱われないし、また、それが、一人によってあるいは他の人々との協議によってであれ、その権威が行使される方法も扱われない。ここでも主要な点は、弟子たちの代表的スポークスマンのペトロへのキリストによる権威の委任(the delegation)である。わたしたちが、次の章で考察することおいて見るように、それはまさしくペトロに与えられたのでなく、弟子たちに与えられたのである。


カルヴァンは言う。「鍵の比較は、キリストが、律法学者たちとファリサイ派は、同じ仕方で、知識の鍵を持っていると言うときのように、教えの職務に非常に適切に適用される。何故なら、彼らは律法の解釈者たちであるからである。わたしたちは、神の言葉以外には、命の門がわたしたちに開かれる他の方法はないことを知っている。そして、それゆえ、そのことは、鍵は、言わば、御言葉の奉仕者たちの手に置かれたということが続くのである」(Commentary on a Harmonoy of the Evangelists :Grand Rapids:William.B.Eerdmans Publishing Company,1949,マタイ16:19、Vol.Ⅱ.p.293)。


 解くこととつなぐことに関して、カルヴァンはつけ加える。「福音の教理は、それゆえ、束縛を解くために指定されていると宣言される、すなわち、人々の声と証言によって、地上において解かれ、わたしたちは、天においても解かれるのである」(Ibid.)。カルヴァンは、同じ方法でつなぐことを扱う。つなぐことは、福音の本質ではないが、しかし、遺棄された者たちによって福音の拒否の結果なのである。


 カルヴァンは、この個所の光において、御言葉の奉仕者たちが持つ特権についてさらに語る。「これは偉大な栄誉である。すなわち、わたしたちが、その救いの言葉を確証する神の使者たちであることは。・・・一言で言えば、、貧しい死すべき人間によって、彼らにもたらされる救いのメッセージが 神の御前で批准されることを知ることは、敬虔な精神にとって素晴らしい慰めなのである。その間、神の命令によって彼らに説教された教理を適切と考えるように、不敬虔な者たちにあざけらせよ。彼らは、いつの日か、神が人間の口によって、彼らを威嚇した真理と重大さをもって知るであろう。最後的に、神の命を与える恵みを、大胆さをもって防御するように、この確かさに依拠して、敬虔な教師たちと他の人々をして、自ら勇気づけさせよ、そして、彼らをして、教師たちの教理を軽蔑する者たちに対して、ずうずうしく大声で非難しないようにさせよ」(Ibid.p.294)。


 


B.  マタイ18:15-20


 


「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。


 18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。


 


イエスは、ここで、信者たちの間で犯された罪を扱っている。最初に、私的に解決するように努力がなされるべきであり、次に、証人たちの前で、そして、もし、彼が拒否するのであれば、教会へ持ってくるのである。言及は、イエスが少し前に語った教会・・・御自身の教会、生ける神の子キリストとしてのイエスにある信者たちの社会、そして、その教会は御自身が岩の上に建てる教会であることが明らかに思える。ここで、教会は、戒規(discipline)を行う団体であるので、弟子たちは、これは教会の代表たち、すなわち、長老たちと理解したことにはほとんど疑いがない。会堂(the synagogue)における普遍的な習慣は、弟子たちも見慣れていたが、長老たちに戒規的な事柄を扱わせることであった。さらに、旧約聖書には、קהל:qahal:カーハールあるいは集会(the assembly)が、会衆の全体ではなくて、会衆の長老たちに言及している多くの個所がある。


 イエスは、教会的な権威の行使への奨励として2つの約束を与えた。最初の約束は、もし、2人が何かについて一致するならば、そのことがなされるように求めることである。このことは、2人または3人が彼の名において集まるところ、その真ん中にイエスがいるからである。このことは、そこに、神の名が置かれ、神が住まうところである旧約聖書の幕屋、神殿についての言及と対照されるとき、目立つのである。新約聖書の時代は、この理念の顕著な拡大を見るべきである。


 「エルサレムにおいてだけでなく、あるいは、今後、神殿においてだけでなく、真の礼拝者たちは父に近づくことが十分実現するであろう。『わたしがわたしの名を置くところはどこでも』、神は昔、イスラエルに言った。『わたしはあなたのところに来る。そして、あなたを祝福するであろう』。それが今や、御名が真理において置かれる真のイスラエルに啓示されたのである。キリストの弟子たちが2人または3人が、彼の名において、『生ける神の子、キリストの御名において』、集まるどの場所においてさえも啓示されたのである」(Ibid.,p.191)。


 バナマンは、これらの2つの個所(マタイ16章とマタイ18章)を、キリストの教会における大憲章(the Magna Charta of hi Church)と呼んだ。「彼らは、わたしたちの前に、地上における彼御自身に、彼のみわざに、また、神と人との彼の関係に関する偉大な中心的な事実を置くのであり、そして、その上に教会が建てられ、また、教会によって、その職務の担い手たちとメンバーを通して、地上の教会の歴史のすべての多様な環境と緊急時において偉大な真理が適用され、行使されるのである」(Idem.)。


 


C.ヨハネ20:21-33


 


 「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす』。そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』。十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない』。さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい』。トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである』。このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。


 鍵の実際の委任が、キリストの復活の夕方に起こったのである。イエスがやって来て、彼らの真ん中にたったとき、10人の弟子たちが、恐れのうちに集まっていた。平安の挨拶の後、彼は彼らに委任した。このことは、イエスによる彼らの使徒職への就任式(their installation into the Apostolic office)であった。「しかし、今や、主は、御自身の御国を世界に樹立するために、彼らを御自身の大使(his ambassadors)に任命するのである。それゆえ、わたしたちに、使徒たちは、今や、初めて福音の通常の奉仕者たちとして任命されたという確証された真理を主張させよ」(John Calvin,Commentary on the Gospel according to John:Grand Rapids:William .B.Eerdmans OPublishing Company,1949,Vol.Ⅱ.p.266)。


 イエスは、今までも教師(the Teacher)だったが、今や、弟子たちを彼の代わりに置いているのである。カルヴァンは、このことがイエス御自身についての父の委任に戻って関係していることの意義を指摘している。「キリストが、父から受けた権威を御自身の使徒たちに伝達することは、それゆえ、理由がないことではない。すなわち、こうして、彼は、福音の宣教が、人間の権威によってではなくて、神の命令によって、御自身に委ねられたことを宣言するのである」(Ibid.,p.266)。


 当然、イエスに代わるこの委任は、福音の宣教にのみ関係するのであり、イエスのみができた、そして、完了させた贖いのみわざには関係していないのである。


 その個所は、弟子たちに息を吹きかけることを語ることに進んでいき、こうして、聖霊を与えたのである。カルヴァンは、このことは御霊の予備的授与(a preliminary giving)であり、彼らは、御霊の十分さをペンテコステまで待たねばならなかった。ヘンドリクセン(Hendriksen)は、この個所をもっと詳しく扱う。「この吹きかけは、象徴的な意義を持った。吹きかけは、聖霊の特別な賜を象徴した。ある意味において、その賜物は教会全体に与えられたのである。それにもかかわらず・・・吹きかけは、職務の担い手たち、彼らだけによって、共同体的に彼らによって行使されるべきであったのである。ここで示されている特別な賜物は、この結びつきにおいて意味しているに違いない罪を赦すこととそのままにしておくことの賜物であり、誰かの罪は赦されるかあるいはそのままにされているか(赦されない)を宣言することである。


 ヘンドリクセンは、これらは教会の行為であり、教会の職務にある者たちを通して、共同的に行われ、御言葉に一致していることを指摘している。「しかし、教会の行為が御言葉(御言葉は、その戒規が愛の精神において行使されることを要求する)と一致していないときは、そのときは、この力は非常に現実的であり、どの人にも(to anyone)(その人が誰であれ)言及する。その人の罪は、赦されるかそのままにされるかが宣言される。しかし、教会は、神がすでに行ったこと(have already done)(参照 マルコ2:7)を宣言するだけである。わたしたちは次のように読む。「・・have been(and continue to be;hence are)、(those・・・have been(and continue to be :hence are)」(Idem.)。


 わたしたちがここで、また、マタイ16章において持つところのものは、教会における職務の確立(the establishment of office in the Church)である。職務は、最初は使徒たちによって保たれ、そして、彼らはその職務を彼らが任命した長老たちに移行した(使徒言行禄14:23、20:28、テモテ1:18、3:1、5、4:14、5:17、テモテ二4:1、テトス1:5-9、3:10、黙示録2:20)。この職務が持つ権威は、罪人を教会のまじわりに受け入れる権威であり、また、もし必要ならば教会から追放する権威である。そのような戒規は、常に愛の精神において行使される。教会の戒規が最初であり、キリストと教会の栄誉と栄光を守るため、次に、聖徒を完成させるためである。


使徒たちに御霊が与えられることは、御国の鍵が彼らに与えられるこのことにおいてであることに注意せよ。カルヴァンが、鍵は福音の公的宣言に包含されていることを示したように、このつながりにおいて、御霊が与えられるこのことは、疑いもなく、御霊は、それらの使徒たちを彼らの最初の説教において、次には、彼らが新約聖書を書くことにおいて、彼らを霊感し、導くお方であろうという事実を包含したのである。もちろん、この賜物のこの局面は、新約聖書が一度完結すると、使徒時代を超えて継続されてきたのである。


 


ヨハネ10:16


 


「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」。


 


 この個所は、教会の多様性と統一性について語っている。一方において、最初の囲いの羊でなく、他の羊もいる。これらの羊は、探し求められ、羊飼いの召しに応じて来るのである。彼らは一つの群れになると言われているが、しかし、必然的に一つの囲いではない。「統一性は、その囲う壁をもった囲いの外面的な統一性ではなく、ひとりの羊飼い(the one Sheperd)の下での生きた統一性である」(Bannerman,Scripture Doctrine of the Church,op.cit.p.207)。


 ベルクーワも、教会の統一性について述べている。教会と言うと、現実には、分裂した多くの教会のことを語ることになる。そこで、ある人々は、分裂は神の御心、許容とまで言うが、ベルクーワは、教会の分裂は、決して必然的でなく、また、神の御心でもなく、人間のとが(guilt)、人間の罪ゆえであるので、教会の分裂を正当化したりしないで、分裂を招いた人間の罪を率直に告白すべきであることを語る。また、ベルクーワは、教会の統一性の実現は、歴史においては、どうせ無理で、終末おいてのみ実現するという考えは、敗北主義であると語る。教会は、フィリピ2:2で、「どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい」と明白に言われているように、一致へ召されていることを忘れてはならず、そのための熱心を失ってはならない。新約聖書が教える教会は、一人の羊飼いであるキリストのひとつの群としての教会であることを忘れてはならないと言う。


 また、ベルクーワは、教会が分裂して、多数に分かれていることを、教会の存在の形態、かたちとして認めていく考え方がることを紹介する。すなわち、特に、オランダのバーフィンクやカイパーなどが主張した「教会の複数形態」と言われるものである。バーフィンクは、特に、宗教改革において、聖書的プロテスタントが、教皇を頂点としたカトリック教会から分裂したことは、よいものがあることを語った。さらに、カイパーは、バーフィンク以上に、積極的に、明るく語り、聖書にも、ローマ、エフェソ、コリントの教会の在り方は異なって、複数形態であったことまで語った。


 しかし、ベルクーワは、バーフィンクやカイパーの複数形態は、如何なる意味でも認められないことを主張する。というのは、聖書が語るローマ、エフェソ、コリントの教会の在り方は、それは教会の複数形態でなく、キリストのひとつの教会の豊かな多様性・分在性を表すもので、複数形態と多様性・分在性は区別すべきことを語った。また、ベルクーワは、教会の統一性を目指す世界教会協議会(WCC)も、努力はしていても、教会の統一性を実現することに成功していないことを述べる。しかし、ベルクーワは、教会は、キリストのひとつの群、ひとりの羊飼いを目指して歩むべきことを語る。なお、わたしたち日本キリスト改革派の教会についての一致についての考え方は、「創立宣言」において明白に表明されている。その上に立って教会の一致を求めていく。改革派は教会の一致に反対するものではない。教会の一致・分裂・複数形態については、拙著「G.C.ベルクーワ:教義学研究-その紹介と解説―」の第14巻 教会」の「第2章 教会の統一性と分裂」、「第3章 複数形態」を参照のこと。


 


D.ヨハネ15章


 


 この個所における教会は、ぶどうの木に例えられている。キリストは、御自身をぶどうの木に、弟子たちを枝として語っている。このことは、信者たちとキリストの有機的統一性(the organic unity)を教える。それは、また賜物の多様性と実、そして、実らない枝が投げ捨てられることも教えている。


 


F.ヨハネ17章


 


 キリストは、この祈りを、教会のための大祭司(the High Priest)としている。彼は、最初に、教会の頭(the Head of the Church)としての御自身のために祈る(1節-5節)。次に、彼は、見える教会のために、すなわち、弟子たちのために(6節-19節)、最後に、彼は普遍的教会のために祈る(20節-26節)。


 祈りを貫いて走る主題の一つは、教会は、神からキリストへの賜物(the gift of God to Christ)であることである。こうして、キリストにとっては、教会は、父なる神によって以前に選ばれ、それから、御子に与えられたのである・・・選民である。彼は、教会を彼らの信仰のためにも描く。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(ヨハネ17:20)。


 祈り(20節-23節)の主な区分の一つは、教会の統一性について語る。信者たちの統一性は、今や、すべての未来の世代において、キリストおよびキリストにおける神との内面的な結合に依拠する。これまでは教会なしで立ってきた者たちに、霊的な目的のための勝利の力で耐えるように、自らを外面的に示すことである。


「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」(ヨハネ17:22)。


 御自身の弟子たちについての最後の言葉と共に取られるこの祈りの最後の言葉は、全体をまとめ、また、御自身の教会の未来のすべての歴史への鍵を与える。「『勇気を出しなさい。わたしは世に勝っている。わたしは彼らにいる』。キリストは、彼の民のための彼のみわざ、また、彼らにおける彼のみわざにおいて啓示されるが、暗い日々におけるクリスチャンの希望なのである。彼の弟子たちにおけるまた彼らにおける彼の臨在は、十分な栄光と祝福の保証(the earnest)である。それは、地上におけるキリストの教会に対する終わりのない勝利の固い約束であり、ま、教会の真のメンバーたちにとって、彼らのために指定されたすべてのみわざでらり、戦いなのである・・・」(Bannerman,Scripture Doctrine of the Church,op.cit.p.220-221)。


 


G.マタイ23:34以下


 


 「だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる」。


 


イエスは彼が遣わした者たちについて言及することにおいて、会堂についてのよく知られたタイトルを使った。この個所の意味は、イエス御自身が、教会における教師たちと統治者たちを遣わすであろうということである。「その場合の性質として、弟子たちの社会において、教えると同じく支配と管理の働きをもったある種の職務の担い手たちがいなければならないことが明らかであった・・・一言で言えば、イエスの教会は、用語の十分な意味において、『兄弟たちのまじわり』(communication fratrum)(eine Brudergemeinde)であり(マタイ18:15、23:9)、その中において、彼だけが治めるが、しかし、自由な仕方で、彼の愛の御霊によって内側から支配する。また、その中においては、すべて他の者たちは、同じ愛の御霊において相互に仕え合うのであり、また、すべての者が共に世に仕えるのである。そして、その仕方は、『御霊である主』(the Lord ,who is the Spirit)のより完全で適切な器として、個人のメンバーが全体の団体に喜んで服し、個人の会衆は教会全体に喜んで服するのである」(Ibid.,pp.227-228)。


Ⅱ.契約の頭としてのキリスト


 


 契約の理念は、本質的には、神の神の民のじわりの一つである。このことは、もし、民の罪の除去の手段が備えられているときだけ、実現され得る。旧約聖書においては、このことは、儀式律法の型的形態において(in the typical forms)備えられたのである。


これらの形態のすべては、メシアと彼のみわざにおける実現を指し示していた。わたぢたちが旧約聖書においてすでに考察したように、彼らの契約関係からのイスラエルの傾きと離脱があった。神によって、残りの民が保持され、回復の約束がなされたのである。


 この更新は、旧約聖書において、最も栄光的な用語において予告された。主は御自身の民に来られるのである。彼は、第二の出エジプトにおいて彼の民を召すであろう。彼は、彼らの贖い主-羊飼い-王(their Redeemer-Shepherd-King)なのである(イザヤ10:27、35:10、40:3、30、52:12、エゼキエル34:11-16)。


 「預言者において約束された神の到来はメシアの到来と同一視された。イザヤ40章において、彼の民の羊飼いとして老来するお方は神御自身である。イザヤ42章において、神の御霊において地に義を打ち立てるのは主の僕(the servant of the Lord)である。エゼキエル34:11において、神御自身が羊飼いであり、23節において『わたしの僕ダビデは羊飼い』である。詩編42編、2編、72編のダビデ的な王は、神的支配を行うのである(Clowney,op.cit.p.48-49)。


 キリストは、契約の主として来たのであり、また契約の御子(the Son of the Covenant)なのである。彼は、契約の民に対する契約の要求を完成した。「神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます」(コリント二1:20)。契約の勝利の主として、キリストは、彼の民を集める大権を行使した。そして、新しい契約の民を樹立したのである。彼は、彼の民を召したのである。12人を召すことは、古い部族たちに相対するもの(the counterpart)であったと思われる。彼は古いイスラエルに拒否されたとき、新しいイスラエルを建てたのである。「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(マタイ21:43)。「家造りらに拒否された石は、新しい神殿と王国の隅の石になったのである。キリストを受け入れた者たちだけが、御国を受ける真の群れなのである」(Clowney,op.cit.pp.48-49)(ルカ12:32、マルコ14:27)。


 キリストは、彼がペトロから彼の偉大な告白を引き出したとき、新しいイスラエルの建設を告知したのである。「シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた」(マタイ16:16)。イエスは、ペトロを祝福して応答した。「すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16:17-18)。


 その告白は、父の啓示によって来得ないという事実は、常に、ふさわしい考察を与えてきたのではなかった。このことの意味は、主が啓示しようとしている者たちだけが、この告白に来るのである。教会は、彼らが神の助けによってキリストを告白するとき、使徒たちの上に建てられる。「それは、岩である彼の明白な使徒的な働きにおける、告白する者としてのペトロである、ぺトロは、キリストが建てる者として見られる観点からすれば岩なのである(in terms of the a figure)。


 キリストは教会を建てたお方である。彼は、これを御自身の三つの職務を通して行う。祭司として、彼は御自身の犠牲を献げる。また、こうして、契約の要求を満たす。預言者として、彼は御自身の者たちを召し、彼のために如何に生きるかを教える。王として、彼は教会を、シオンにおける唯ひとりの頭として支配するのである。


 彼が、教会における秩序を確立するのも王としてである。彼は、御国の鍵を与える権威を持つ。教会がつなぐことと解くことは、彼の御言葉と一致してなされるとき、その背後に権威を持つ。彼は、職務を教会に与え、そして、その統治を地上において制定した。彼は、教会から剣の権能(the power of the sword)を取り消した(ヨハネ18:36)が、しかし、彼は、教会に宣言的で奉仕的な権威(the declarative and ministerial authority)を与えたのである(ルカ9:5、10:5-16、マタイ10:12-15、ヨハネ20:21-23、使徒言行録13:51)。


 「キリストは、教会における彼の主性を御言葉と御霊を通して行使する。キリストの主権性は、神的であり、絶対的である。旧約聖書における契約の主に帰された神の民を選ぶこと、召すこと、命じること、大事にすることは、新約聖書の主であるキリストに帰されるのである」(Ibid.,p.51-52).


 王として、キリストは、彼の権威を、礼拝の範例を確立することにおいて遂行する。彼は、彼の御霊を通して、書かれた御言葉を信仰と実践の彼の唯一の規範として与えた。礼拝の形式においては、新約聖書の礼典、すなわち、洗礼と主の晩餐が含まれる。彼は、教会の統治をも備えた。


 王としてのキリストは、教会の頭でもある。キリストの頭性の基本的理念は、彼が持つ契約関係において見られる。旧約聖書においては、アダムが人間の契約の頭であった。そのようなものとして、彼は、彼らの代表なのであった。彼は、適切な預言者、祭司、王として創造された。これらの働きのすべてにおいて、彼は失敗した。旧約聖書は、メシアを新しい契約における神の民の仲保者的な頭として予見した。彼は、三つの職務を更新するであろう。彼は、彼の民のために、契約の要求を満たすであろう。


 キリストの体としての教会についての新約聖書の概念は、基本的に神秘的ではなく、契約的である。


 「『キリストにある』(to be in Christ)ことは、キリストによって、彼の贖罪の偉大なみわざにおいて表される。『キリストにあること』は、それゆえ、『アダムにあること』(in Adam)に比較される(ローマ5:12-21、コリント一15:22)。基本的な範疇は、主観的な神秘的な経験の一つではなく、客観的な贖罪の歴史の一つである。確かなことに、キリストにおいて、人間は生きておられる主との宗教的なまじわりを享受するのであるが、彼は、契約の頭としてのキリストにあるゆえに、彼は享受するのである」(Clowney,op.cit.p。62)。


 クラウニィは、この思想をさらに発展させるとき、教会を表す『体』(the body)の比喩の使用を説明することを助けるのは、契約的な表現なのである。それは、主の晩餐の要素が、表していることの事実を、今度、説明するのである。それは、キリストによって表されるものとしての教会全体を包含し、そして、また体の個人的なメンバーたちも包含し、彼らは、彼らの頭であるキリストにあるゆえにメンバーたちなのである。


 「彼の体として、これらすべての点において、大胆な言語が教会をキリストと結びつけるのである。とはいえ、比喩の基礎は、教会の神格化に対して警戒する。教会は、キリストが『木にかかって、わたしたちの罪を担った』ゆえにのみ、キリストの体なのである」(Ibid.,p.64)。


 キリストの体としての教会は、聖霊によって住まわれ、また、こうして、神の神殿なのである(エフェソ2:20-22)。このことは、全体としての教会について真実であるだけでなく、個人も聖霊の神殿であると描かれている(コリント一6:9)。御霊による個人の信者たちと全体としての教会の両方のこの内住は、教会の生命力の源泉なのである。こうして、わたしたちは、キリストとの代表的な契約的結合をもっているだけでなく、彼との生命的な結合も持っているのである。


 「キリストとの代表的な契約的結合は、教会の地位と立場を決定する。キリストとの生命的な結合は、教会の命の源泉なのである。キリストとの結合は、それゆえ、教会についての全体の教理の特別な決定なのである(Clowney.,op.cit.p.69)。


 クロウニィ教授は、わたしたちの教会論の決定要素としてキリストとの生命的結合のこの理念から重要な推論を引き出す。わたしたちは、彼の思想を次のように要約する。「最初に、体の比喩は、各信者と教会全体をキリストに関係させる。個人もまた集団も教会においては第一義的ではなく、キリストが第一義である」(Ibid.,p.70)。キリストとの体の部分として、個人は直接キリストに関係する。信者と救い主の間には、何の媒介的な制度はないのである。


 「コリント一10章においては、パウロは、自分自身を、救いの如何なる礼典主義者の見解(any sacramentarist view)にも反対して置いている。キリストに外面的に洗礼され、主の晩餐に大胆に来る者たちは、荒れ野におけるイスラエルの拒否を思い起すべきである。パウロは洗礼を強調しているのではなく、福音の説教を強調している(コリント一1:9)。救いは、個人の経験なのである」(Idem.)。


 第2の推論は、キリストの体における結合なしには、救いはないのである。こうして、教会は、救いの計画において真に重要であることが見られる。この結合からまじわりあるいはkoinonia:コイノニアの真の意味が出て来る。それは、個人間のまじわりは、キリストにおけるまじわりのように、あるものではない。「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」(コリント一1:9)。


 


Ⅲ.教会へのキリストの委任(Christ’s Commission to the Church)


 


 教会に関するキリストの教えを離れる前に、わたしたちは、彼の復活後、教会に与えられた彼の委任を吟味すべきである。バナマン(Bannerman)は言う。「この世における教会の第一の目的は、キリスト御自身であるところのこと、彼が行ったことを行うこと、彼がそのために天から来られた偉大なみわざを、最終的な成功にもたらすことである」(Bannerman.Scripture Doctrine of the Church,op.cit.p.246)。教会についてのこの概念は、いろいろな個所において見い出される。それは、イエスの大祭司の祈りの中心的な主題である。「エスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(ヨハネ「2:21)。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:18-20)。


 教会が果たすべき二重のみわざがある。御言葉の宣教を通して選民を集めることであり、また、それから、こうして御言葉の十分な教えにおいて集められた者たちの教育(the instruction)である。換言すれば、教会の使命(the mission)は、失われた人々に伝道すること(to evangelize)であり、さらに、伝道された人々に神の御旨の全体(the whole counsel of God)を教えることである。わたしたちは、使徒言行録における教会が貧しい人々に仕えているのを見るが、しかし、究極的には、このことは、彼らは信仰を教えられ得るという目的なのである。このことが、そして、このことだけが、教会の使命である。R.B.カイパー(R.B.Kuiper)は言う。「教会の任務は、神の御言葉を教えることを宣教することである。他の何がその任務にとって従属的に、補助的に適切かもしれない。このことが、至高の任務なのである」(R.B.Kuiper.,The Glorious Body of Christ:Grand Rapids:William.B.EEerdmans


:Philadelphia company ,no date、p.163)。彼はこの主題についてれ次のように言って締めくくる。「御言葉の宣教はそのように大きいので、教会はそれだけに献身しなければならない。教会にとって、他の活動をすることが、このことに不可避的に


結びついていないならば、とてつもない失敗である(a colossal blunder)。何故なら、それは不可避的に教会の適切な任務の怠慢に結果するからである。教会を社交的クラブにするな。教会を娯楽の商売にするな。神の御言葉において扱われていないものとして、教会を経済の、政治の、自然科学のそのような局面に味方させるな。教会を、一般啓示ではなく、特別啓示を教えることで満足させよ。教会を教会とせよ」(Ibid.,p.169)。


わたしたちは、さらに、このことは、教会の王によって与えられた唯一の任務であるので、教会はこの任務遂行に、また、この任務だけに自分自身を限定することをつけ加えよう。アメリカ長老教会は最初の総会において、「世界を通してイエス・キリストのすべての教会へのメッセージ」を採択した。それは、南長老教会によって創設のときになされた同様の『「式辞』(Address)から多くを取られている。この『式辞』(Address)において、教会は宣言した。「わたしたちは、教会の任務を第一義的に、法的で司法的でなく、宣言的で奉仕的(declarative and ministerial)と理解する・・・わたしたちは教会の究極的目的は神の栄光を表すこと宣言する。わたしたちは、このことは、キリストの大委任(Christs Great Commission)に優先性を与えることを包含していることを信じる。わたしたちは、教会の使命(the mission)に関する「わたしたちの以前の教会の創立の父たちによって取られた立場の本質を認める。


 わたしたちは、今や、教会がその旗を世界に広げるように、教会の頭と王としてのわたしたちの主の権威に直接的な従順において、彼の最後の命令を、わたしたちの教会の旗に明らかに意識的に刻むことを切に望むのである・・・。わたしたちは、これをわたしたちの組織の大きな目的として、そして、それへ従順を、わたしたちの主の約束された臨在の不可欠の条件として、認めるの。それは、一つの大きな包括的な目的であり、その壮大さと大きさがキリストの強い愛の下で、わたしたちのエネルギーを効果的に喚起し、わたしたちがそれを遂行できるように、わたしたちの資質を開発させることができる唯一のものであり、それは、わたしたちの主への忠誠心が要求する活力と効果、わたしたちの内面的な成長と家庭での繁栄に必要な他の働きなのである」(MIGA,1.-58、p.41-42)。


 


 


解説


 


「第39章:キリストと教会」の紹介が終わったので、、5点の解説をする。細かいことはスミスの本文を読んでいただければと思うので、気づいてことを記す。第1点は、教理の流れである。前章で、スミスは、「教会についての聖書の理念」について述べた。すなわち、教会はこの世から召し出され、分離され、聖別された神の民の集会であり、さらに、教会は神と神の民のとの結合、神と神の民とのまじわり、神が御自身の民に住んでくださることを意味すると述べ、そのことは、最初は、幕屋、続いて神殿において実現し、新約時代においては、神は我々と共におられるというインマヌエルであるイエス・キリストが共にいてくださることにおいて実現したことを述べた。また、神が共にいること、神が共に住んでくださることの思想は発展し、パウロは、キリストを信じる信者一人一人および信者の共同体である教会を神殿と呼んで、教会には神が親しく臨在することを、スミスは説明した。こうして、教会は、この世から召し出され、分離され、神が親しく臨在してくださる神の民の集会であることがわかったので、今度は、その教会について、キリスト御自身がどのように教えたのかを、スミスは扱う。


第2点は、スミスは、教会についてのキリストの教えを、7個所を挙げて述べる。第1個所目は、よく知られたマタイ16:13-19である。ここは、ペトロがイエスを生ける神の子キリストですと父なる神の啓示により岩のように固い信仰告白をした。すると、イエスはその岩のように固い信仰告白の上に、ユダヤ教の会堂とはまったく別の御自身の教会を建てることを宣言し、使徒たちに、御国の鍵、すなわち、罪の赦しを宣言することと罪をそのままにしておくことの権威を与えることを約束した。


なお、カトリックは、この個所を根拠にして、使徒ペトロがキリストとの代理として立てられて首位権を与えられ、教皇がその使徒的首位権を代々継承していくという使徒的継承を主張し、ローマ教皇がいるとこころに教会があると言ってはばからない。しかし、ベルクーワはその解釈は誤りであることを語る。ベルクーワは、宗教改革者たちに倣って、天国の鍵、すなわち、罪を赦す権威と罪を留めておく権威は、ペトロの人格にでなく、岩のように固いペトロの信仰告白に対して与えられたことを語る。しかも、ペトロは、その後も、ずーっと、岩のように固い信仰告白を維持し継承し、継続したのでなく、その直後、イエスが十字架の死への途を明らかにしたときに、ぺトロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(マタイ16:22)と語って、イエスの十字架の途を否定し、その結果、イエスから、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16:23)と叱責され、ペトロのそのときの言動は、サタン的であることが明らかにされたが、これは、ペトロの岩のように固い信仰の継続でなく、挫折であり、断絶であり、非継続である。


さらに、十字架前夜、イエスが、ペトロの離反を予告したとき、ペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」、また、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」とも言い、イエスの離反予告を真剣に受け止めなかった。そのため、ペトロは、イエスが逮捕されたとき、大祭司の館で、イエスを知らないと三度も否定してしまい、ペトロの信仰はガラガラ崩れた。でも、イエスが、ペトロの信仰がなくならないように執り成しの祈りをしてくださっていたので、ペトロは、悔い改めて、再び、立ち上がることができたが、このように、ペトロの信仰には暗い影があり、非継続がある。さらに、さらに、エスが天に帰られてから、アンテオケ事件があり、ペトロの信仰の姿勢に、首尾一貫性がないことを、パウロから責められた。それゆえ、ペトロは、とてもキリストの代理などはできない。カトリック教会は、これらのペトロの信仰の影と非継続性を全然考慮していないと、ベルクーワは批判する。


使徒職は、1世紀においてだけのもので、反復できない性質のものである。その後の時代は、使徒たちの教えの上に教会を建てていけばよいのである。1世紀の使徒たちの教えを、聖霊のはたらきによって、信仰をもって宣教していけばよいことを、ベ


ルクーワは語る。教皇制さらに教皇無謬の誤りについては、拙著「G.C.ベルクーワ:教義学研究-その紹介と解説-」の「第14巻 教会」の「第10章 使徒的継承」を参照のこと。


第2個所目は、マタイ18:15-20で、ここでは、信者たちの間で犯された罪の処理の方法について、すなわち、教会は、戒規を行う団体であり、また、戒規は教会の代表たちである長老たちによって行われると理解される個所である。また、旧約時代においては、神の名が置かれる幕屋、そして、神殿に、神は住んでくださったが、新約時代には、イエスの名によって2人または3人が集まるところには、生ける神の子キリストが臨在してくださるとの意味の豊かな拡大がある。


ベルクーワも、現代の教会も戒規を行うべきことを語る。すなわち、教会は、罪を見過ごすのでなくて、罪に対する姿勢、態度、処置、処理としての戒規を必要とする。何故なら、教会における罪は、教会のきよさを汚すことであり、神の栄光を損なうことであるからである。実例として、サムエル上3:13で、旧約時代の祭司エリは、息子たちが、罪を犯して聖所を汚していたのに、何もしないで見過ごしていたので、神に裁かれてしまったことを述べる。教会の戒規については、拙著「G.C.ベルクーワ:教義学研究-その紹介と解説-」の「第14巻 教会」の「第14章 聖さと戒規」を参照のこと。


第3個所目は、ヨハネ20:21-23で、ここでは、鍵の実際の委任が、キリストの復活の夕方に直ちに起こったのである。鍵の権能は、福音の宣教がなされ、福音を信じた者の罪の赦しを宣言する権能である。もし、信じなければ、罪の中に留まることになる。そして、この福音宣教の権能は、息の吹きかけで象徴されている聖霊の力により教会が行うものであるが、特にその職務の担い手たちによって共同的に行使される。そして、カルヴァンによれば、このときの息の吹きかけによる弟子たちへの聖霊の授与は、予備的付与で、聖霊の十分な付与はペンテコステになされたと解釈する。


第4個所目は、ヨハネ10:16で、教会の多様性と統一性について語っていて、1世紀の信者たちという羊たちもいるが、その後、教会の宣教によって召し集められる信者たちという他の羊もいる。しかし、羊たちはキリストというひとりの羊飼いに養われる一つの群れであることが語られている。


ベルクーワも、教会の統一性について述べている。教会と言うと、現実には、分裂した多くの教会のことを語ることになる。そこで、ある人々は、分裂は神の御心、許容とまで言うが、ベルクーワは、教会の分裂は、決して必然的でなく、また、神の御心でもなく、人間のとが(guilt)、人間の罪ゆえであるので、教会の分裂を正当化したりしないで、分裂を招いた人間の罪を率直に告白すべきであることを語る。また、ベルクーワは、教会の統一性の実現は、歴史においては、どうせ無理で、終末おいてのみ実現するという考えは、敗北主義であると語る。教会は、フィリピ2:2で、「どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい」と明白に言われているように、一致へ召されていることを忘れてはならず、そのための熱心を失ってはならない。新約聖書が教える教会は、一人の羊飼いであるキリストのひとつの群としての教会であることを忘れてはならないと言う。


 また、ベルクーワは、教会が分裂して、多数に分かれていることを、教会の存在の形態、かたちとして認めていく考え方がることを紹介する。すなわち、特に、オランダのバーフィンクやカイパーなどが主張した「教会の複数形態」と言われるものである。バーフィンクは、特に、宗教改革において、聖書的プロテスタントが、教皇を頂点としたカトリック教会から分裂したことは、よいものがあることを語った。さらに、カイパーは、バーフィンク以上に、積極的に、明るく語り、聖書にも、ローマ、エフェソ、コリントの教会の在り方は異なって、複数形態であったことまで語った。


 しかし、ベルクーワは、バーフィンクやカイパーの複数形態は、如何なる意味でも認められないことを主張する。というのは、聖書が語るローマ、エフェソ、コリントの教会の在り方は、それは教会の複数形態でなく、キリストのひとつの教会の豊かな多様性・分在性を表すもので、複数形態と多様性・分在性は区別すべきことを語った。また、ベルクーワは、教会の統一性を目指す世界教会協議会(WCC)も、努力はしていても、教会の統一性を実現することに成功していないことを述べる。しかし、ベルクーワは、教会は、キリストのひとつの群、ひとりの羊飼いを目指して歩むべきことを語る。なお、わたしたち日本キリスト改革派の教会についての一致についての考え方は、「創立宣言」において明白に表明されている。その上に立って教会の一致を求めていく。改革派は教会の一致に反対するものではない。教会の一致・分裂・複数形態については、拙著「G.C.ベルクーワ:教義学研究-その紹介と解説―」の第14巻 教会」の「第2章 教会の統一性と分裂」、「第3章 複数形態」を参照のこと。


第5番目は、ヨハネ15章で、ここでは、キリストと教会の関係が、ぶどうの木と枝に例えられて語られていて、枝である信者たち(教会)は、ぶどうの木にしっかりつながって、栄養分を受け、豊かな実を結ぶことが求められている。


第6番目は、ヨハネ17章で、ここは、大祭司としてのイエス・キリストの祈りと言われるところで、信者たち(教会)は、父からキリストに与えられた賜物であるという思想が全体を貫いて5回も繰り返して強調されている(2節、6節、9節、11節、24節)。父のものとキリストのものは一つで、食い違いは全くない。


第7番目は、マタイ23:34以下であるが、イエスは、御自身の教会に預言者、知者、学者と言われる職務の担い手たちを与えることを、ユダヤ教の会堂がよく知っている言葉で語ったのである。預言者は教える働きをするが、知者と学者は、教会の統治と管理を担う職務を表している。


以上のようにして、スミスは、イエスが教会について教えたことを諸側面から語る。わたしが、気づいたことは、ヨハネ20:21-23の解釈についてである。スミスは、カルヴァンは、ヨハネが描く聖霊の付与は予備的で、ペンテコステにおける聖霊の注ぎが本格的なものと理解している解釈を示しているが、そのように予備的-本格的解釈でなく、聖書は、聖霊が与えられることは2回あったことを語ろうとしているとい解釈で、それぞれの異なった意図がある。最初の聖霊の付与は、イエスが復活したその日の夕方、直ちに、福音の世界宣教のために教会に罪赦しの宣言的権能が与えられたことを描く意図であり、ペンテコステにおける聖霊の注ぎは、福音の世界宣教が実際に聖霊の力によって奇跡を伴って力強く開始したことを描く意図であったという解釈である。こちらの解釈の方がよりよい解釈にわたしには思える。ヨハネ福音書の著者は、最初の聖霊付与が予備的なものとして示すために記したのではないであろう。両方の記事の意図の違いについては、拙著「説教集:ヨハネによる福音書(4)」の当該箇所を参照のこと。


第3点は、キリストは教会の契約的頭であることについてである。キリストは教会の頭ということは、よく言われるが、スミスは、単に、キリストは教会の頭と言わないで、敢えて、キリストは教会の契約による頭であると語り、キリストが教会の頭であるのは恵みの契約によることを強調している。すなわち、旧約時代において、神は何事をするにも契約を結んで実行された。神は、契約により、御自身の民を選び、召し、命じ、大事にして育てたが、それらは、すべて到来するメシアの働きの型であった。そこで、キリストも、恵みの契約を礎として、御自身の民を、選び、召し、命じ、大事に育てて、古い契約の民に代わる新しい契約の民を樹立した。12弟子を召したことは、12部族から成る古い契約に相対するものであった。彼は古いイスラエルに拒否されたとき、新しいイスラエル、すなわち、御自身の教会を建てたのである。こうして、キリストは御自身の教会の頭となられたが、それは恵みの契約を礎としてであった。


第4点は、教会へのキリストの委任についてである。この委任は、マタイの最後の大委任あるは伝道命令として知られている。また、教会建設命令と呼ぶ人もいる。キリストは、教会が果たすべき二重の使命を命じている。一つは、御言葉の宣教を通して選民を集めること、すなわち、失われた人々に伝道することであり、もう一つは、教育であり、伝道された人々に神の御旨の全体を教えることである。


第5点は、スミスが言っているわけではないが、教会の任務である宣教・伝道にっついてのベルクーワの言及についてである。ベルクーワは、「教義学研究」の「教会」の「第8の聖さと宣教」において、非常に大切なことを述べている。これまで教会を考えるときに、教会というのはすぐに、神の民としての教会、キリストの体なる教会という縦の関係だけで考えようとしてきた。しかし、ベルクーワは、それだけでは、教会を正しく理解できないと言う。何故かと言えば、教会とは何かという観点から新約聖書を見ると、教会はこの世の救済のために存在するからである。なわち、罪でどろどろになって、真っ黒になって希望がない。もうそこにあるのは絶望と、悲惨だけである。惨めさ、無知の中に失われ、骨の髄までも真っ黒になってしまったところの神の前に失われたこの世がある。しかし、教会はそのような罪でどろどろになったどうにもこうにも箸にも棒にもかからないでにっちもさっちもいかないこの罪のこの世の救済の機関として、救済の器としてこの世の中に、聖霊の組めども尽きない無尽蔵の豊かな力によって、キリストによる救いを世の終わりまで力強く証言するために、キリストから遣わされた存在であることを認識することが必要である。換言すれば、罪のこの世があるからこそ、その罪からの唯一の救いの機関としての教会がある。罪に支配された真っ黒な暗黒のこの世があるからこそ、そこからのキリストによる罪の赦しを宣べ伝え、光を発する教会があるということを世界の教会、世界の神学また改革派神学も気付いてきた。すなわち、教会というものを縦の関係だけではなく、横の関係、この世との関係、この世にあるから教会に意味があるのだという縦軸だけではなく横軸、x軸とy軸の両方で理解しなければならないという神学的なインサイトが、段々出てきていることを、ベルクーワは述べているが、わたしは、正しいと思う。使徒言行録1:8で「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とキリストが語られたことはまさにこれである。宣教・伝道については、拙著「G.C.ベルクーワ:教義学研究-その紹介と解説-」


の「第8章 聖さと宣教」、「改革派教会の神学・説教。伝道・教会形成」(中巻)の「54.教会の福音宣教の神学的基礎付け」、「55.改革派宣教の特色(A)」、「この世に向けての宣教」、「キリストの証人」、「59.改革派宣教の特色(B)」、「60.21世紀を目指して」、「61.21世紀のキリストの証人-伝道の宣言に学ぶ-」、「63.ベルクーワの宣教論」を参照のこと。


第6点は、日本伝道についてである。日本伝道は難しい。日本伝道をどのようにしていったらよいのかで悩む。しかし、改革派には、「創立40周年記念宣言」の「三、福音の宣教」、また、「創立50周年記念宣言」の「伝道宣言」という日本伝道のすぐれた指針があるので、その指針に従い、各教会が置かれた地域性を考え合わせながら、伝道のいろいろな努力・工夫・知恵を尽くしていきたいと思う。「創立40周年記念宣言」の「三、福音の宣教」、また、「創立40周年記念宣言」の「伝道宣言」を繰り返し読もう、また、各教会で学び、話し合いをしよう。


http://minoru.la.coocan.jp/morton39.html