恵みの手段

 


1. 恵みの手段についての理念


 


 堕落した人間は、堕落により、神についてのすべての権利(all claims)を失った。もし、彼が、救いの祝福を受けるならば、それは神の恵みの源から来るに違いない。この恵みが人間に与えられる方法は、「恵みの手段」(means of grace)という用語によって示されてきた。この表現は聖書には見い出されないが、しかし、それは、罪人たちが福音の祝福を受けることを可能にする手段を描くのに役に立つ用語である。


 それは、厳密に定義された用語ではないし、また、神学者たちによって一般的に使われる以上に広く使われるかもしれない。たとえば、教会が、恵みの手段と見られるかもしれず、それは、神が聖霊を通して御自身の者たちを召し、造り上げる。また、幸福と逆境の両方を通しての聖化の全過程も、恵みの手段と呼ばれるであろう。救いの種々のステップでさえも、悔い改め、信仰、聖化を含んで、恵みの手段と広く理解され得る。


 しかしながら、神学者たちは、その用語の専門的な使用において、この表現をもっと狭い範囲において使う。教会は、実際には、恵みを伝えない。教会は、御言葉と礼典に仕え、また、恵みを受けるのは御言葉と礼典を通してである。信仰と悔い改めは、恵みの手段よりも、恵みの実である。ベルコフ(Berkhof)は、恵みの手段は、・・・「教会のために神が制度化した客観的なチャンネルとして、また、それに対して神が通常、御自分の恵みの伝達において御自分を束縛するように、御言葉と礼典に限定されるべきと主張している。もちろん、恵みの手段は、キリストから分離されてはならないし、また聖霊の力強い働きからも分離されてはならないし、また神的恵みの祝福の分配のために指定された器(the appointed orgam)の教会からも分離されてはならない。それらは、それ自身において、極めて効果がなく(in themselves quite ineffective)、聖霊の効果的な働きを通してのみ霊的な結果を生み出すのである」(Berkhof,Systematic Theology,op.cit.p.604-605)。


 ウェストミンスター大教理問答は、「キリストが、その仲保の恵みをわたしたちに伝達される外的手段は、何か」という問に、次のように答えている。「キリストが、その仲保の恵みを彼の教会に伝達される外的な、普通の手段は、キリストの全規定、特に、み言葉と礼典と祈りであって、これらすべて、選ばれた者にとって、その救いのために有効とされるのである」(154問、小教理問答88問も見よ)。


 


Ⅱ.恵みの手段についての歴史的見解


 


A.  ローマ・カトリックの見解


 


 ローマは、恵みの手段として、聖遺物と聖像(relics and images)のようなものを包含する。カトリックは、より重要な手段として、御言葉と礼典を強調する。実際には、カトリックは、御言葉の使用を縮小し、恵みの手段として、礼典を強調する。教会が、礼典を執行する制度なので、教会が最も重要な恵みの手段なのである。キリストの体としての教会において、キリストは、この地上において神的人間的生涯(a divine-human life here on earth)を持つことを継続する。こうして、キリストが恵みと真理の充満を伝達するのには、そのことを通してなのである。この恵みは、超自然的な力である 人間に注入され、そして、事柄それ自体によって効果を持つのである(works ex opera operato)。こうして、礼典において、それは見えるしるしであるが、見えない恵みが常に存するのである。それゆえ、洗礼が、それ自体で再生を起こすのである(Baptism,therefore,regenerates ex opera operato))。主の晩餐は、自動的に霊的に養うのである。ローマにとって、教会なしでは、あるいは、礼典なしでは、救いがないのである。


 


B.  ルター派の見解


 


 ルターは、再洗礼派(the Anabaptists)の神秘主義への反動として、できる限り、ローマに近づいた。「ルターも、神の恵みを、手段に含まれたある主の実体(a sort of substance)として認識し、手段から離れて得られるものとは認識しなかった。もし、人間がその道に障害物(a stumblingblock in the way)を置かなければ、神の御言葉はそれ自身で常に効果的であり、人間において霊的変化を起こす」Berkhof,op.cit.p.607)。


 


C.神秘主義の見解


 


 神秘主義的な再洗礼派(the mystical Anabaptists)は、神が何かの恵みの手段を使うことを事実上、否定した。神は、御自分の恵みを伝えるのに、絶対的に自由である。御言葉と礼典は、内面的恵みの外面的なしるしにすぎない。「この全体的な概念は、自然と恩恵の二元論的な見解(a dulalistic view of nature and grace)によって決定されている」(Idem)。恵みの手段は、自然界の一部(part of the world of nature)として見られていて、他方、人間の心における御霊の働きは、恩恵の一部である。


 


D.合理主義的見解


 


 16世紀のソシニウス主義者たち(the Socinians)は、17世紀のアルミニウス主義者たち(the Arminians)と18世紀の合理主義者たち(the Rationalists)が従ったが、礼典は道徳的な価値があるだけ(only of moral value)と見ることを主張した。 こうして、礼典は道徳的な説得力を通して働くが、しかし、聖霊の何の働きにも関係していないのである。彼らは、神が恵みの手段を通して行うこと以上に、人間が恵みの手段において行うことを強調した。恵みの手段は、わたしたちの告白の記章(badges)、あるいは、記念物(memorials)にすぎない。


 


F.改革派の見解


 


 改革派の見解は、恵みの手段がそれ自身で恵みを与えることができることを否定した、「神が、また神だけが救いの効果因(the efficient cause)である」(Ibid.,p.608)。神は、恵みの手段の使用に絶対的には束縛されていない。神は、神が望むときいつでも、どこでも、どのようにしても、働くことができるし、また働くであろう。他方、恵みを伝える通常の手段として(the ordinary means)、神は恵みの手段を定めたのである。こうして、恵みの手段は、罰せられずに(with impunity)無視されてよい偶然的な、あるいは、どうでもよい(indifferent)手段ではない。恵みの手段の意図な無視は、霊的損失の結果を招くのである。


 


Ⅲ.恵みの手段についての改革派教理の諸要素


 


A.恵みの手段は、救いの恵みと霊的成長が罪人たちに伝えられる通常の手段である。神は、恵みの手段を超えて、あるいは、恵みの手段なしで行為することができるが、しかし、恵みの手段は神が定めた手段であるから、わたしたちは、神が恵みの手段を用いることを期待するのである。


 


B.再生の場合には、神は直接、恵みの手段の使用なしで行為する。ここにおいてでも、新しい誕生を受けた者の恵みの手段は霊的成長のために必要である。こうして、神は、ここで、恵みの手段の文脈において働くということが言われよう。


 


C.神の恵みは、一般的に恵みの手段を通して間接的に与えられるが、それは、恵みが手段に存するからではない。むしろ、それは、恵みの手段に効果性(their efficacy)を与える御霊が伴うからである。


 


D.礼典と御言葉は決して分離されるべきではない。礼典は、御言葉にある真理の目に見える表明(a visible representation)であるから、御言葉の説明なしでは無意味であろう。


 


E.「神的恵みの受領によって得られるすべての知識は、御言葉の手段によって人間のうちに働き、また御言葉から得られる。この立場は、御言葉によって媒介されない特別啓示と霊的な知識について主張し、また、その際に、わたしたちを無限の主観性の領域に導く神秘主義のすべての類に反対して主張される」(Ibid.,p.609.この部分においてなされる引用に見られるように、著者(M.スミスのこと)は、この主題についてのベルコフ議論に負っている)。


 


解説


 


 「第43章:恵みの手段」についての紹介が終わったので、4点の解説を記す。第1点は、恵みの手段についての理念である。恵みの手段は、罪人が神から恵みを受ける手段のことであるが、広い意味では、恵みの手段は、教会、聖化、救いの過程と言えるが、神学の専門用語としては、より狭く、教会のために神が制度化した客観的なチャンネルとして、また、それに対して神が通常、御自分の恵みの伝達において御自分を束縛する御言葉と礼典に限定されることを、スミスは述べる。


 第2点は、恵みの手段についての諸見解についてである。ローマ・カトリックは、キリストの地上における体としての礼典を行使する教会が、最も重要な恵みの手段と主張する。カトリックは礼典の事柄自体が効果を生む(works ex opera operato:it works by the work performed)という考えなので、洗礼を受けることによって、人に再生が起こり、救われると主張する。また、ミサにあずかることで、自動的に霊的に養われると主張する。ルターは、神が直接、無媒介的に、超自然的に恵みを伝えると言う再洗礼派に反対して、御言葉を第一義的に恵みの手段と考えたが、完全には、カトリックの誤りを招請しきれず、恵みをある種の実体(a kind of substance)と考えた。また御言葉は、人間が妨げを置かなければ、常にそれ自身で効果を持ち、人間に霊的変化を起こすと主張した。神秘主義の再洗礼派は、神は絶対的に自由なので、恵みを与えるのに外的な手段の使用を否定し、直接、超自然的に与えることを主張した。すなわち、手段は自然的な世界に属するものであり、恵みは霊的な世界に属し、両者は無関係という二元論に立っていた。それゆえ、御言葉と礼典は、内面的で霊的な恵みのしるにすぎないと考えた。16世紀のソシニウス主義者たち、17世紀のアルミニウス主義者たち、18世紀の合理主義者たちは、典は道徳的な価値があるだけと主張した。すなわち、礼典は道徳的な説得力を通して働くが、しかし、礼典を通して、聖霊が働くことを否定した。合り主義者たちとっては、恵みの手段は、信仰告白のバッチ、あるいは、記念物にすぎない。


 第3点は、改革派の見解についてである。改革派の見解は、カトリック、ルター派、神秘主義者、合理主義者たちのどの見解とも異なる。改革派は、カトリックの礼典は、そ


れ自身で恵みを与えることができることを否定し、神だけが救いの効果を与えることを主張した。神は、恵みの手段の使用に絶対的には束縛されず、神が望むときいつでも、どこでも、どのようにしても、働くことができることを認めた。しかし、神が恵みを与える通常の手段として、神が恵みの手段を定めたことを十分認めた。こうして、恵みの手段は、無視されるべきものでなく、恵みの手段の無視は、霊的損失の結果を招くことを語り、積極的な正しい活用を強調した。


 第4点は、恵みの手段についての改革教理の諸要素についてである。神は、恵みの手段を超えて、あるいは、恵みの手段なしで行為することができるが、しかし、神御自身が定めた手段であるので、わたしたちは、神が恵みの通常の手段として用いることを期待する。再生の場合には、神は直接、恵みの手段の使用なしで行為するが、恵みの手段の文脈において働く。恵みの手段には御霊の働きが伴う。礼典と御言葉は分離されない。。礼典は、御言葉の説明なしでは無意味である。救いについてのすべての知識は、御言葉から得られ、神秘主義のように特別啓示を必要としない。


 わたしたち罪人は、堕落ゆえに、神から裁かれ、滅ぼされこそすれ、神からの祝福を要求する資格や権利を一切もっていないが、しかし、神の驚くべき愛と憐みにより、御言葉と礼典という恵みの手段を与えられている。御言葉を聞くとき、わたしたちは聖霊により再生され、有効召命されて救われ、救いのしるし・証印としての洗礼を受け、主の晩餐にあずかり、霊的成長の道を歩むようにと、神が定めてくださった御言葉と礼典の恵みの手段により、豊かで力強い信仰の生涯を、この日本の地で喜んで歩んで行こう。


 御言葉と礼典については、拙著「G.C,ベルクーワ:教義学研究-その紹介と解説-」の「第8巻 礼典」の「第3章 御言葉と礼典」、礼典の効力については、「第4章 礼典の能力」を参照のこと。


 http://minoru.la.coocan.jp/morton43.html