序論
聖徒の堅忍に加えて、わたしたちは、信仰の確心(the assurance of faith)あるいは救いの確心(the assurance of salvation)の疑問について考察しよう。
定義
信仰の確心あるいは救いの確心の下に、わたしたちは、信者は恵みと救いの状態にいることを有するという個人の確心(the personal assurance)を扱っている。自分が救われたこと、自分が死から命に移されたこと、自分が永遠の命の所有者であり、栄光を受け継ぐものであることは、信仰である。
「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです」(ヨハネ一3:14)。
Ⅱ.歴史におけるその教理
A. ローマ
アウグスチヌスは、信仰は、その対象に関して確心を包含するという事実を指摘した。ローマは、この点においては違わないが、しかし、ローマは個人的な信仰の確心(the assurance of personal faith)を否定した。トリエント会議は、恵みの状態と最後的な救いの状態にあることの確心は、特別啓示によらない場合を除いては、不可能であることを宣言した。そのようなお特別啓示はまれである。通常の信者は、その慰めを持っていない。ローマは、信仰を第一義的に人間のわざと見る。信仰は、教会によって受け入れられた真理への単なる承認である。赦しは悔悛(penance)の礼典に依拠する。どの死に至る罪であっても、恵みの状態は失われ、そして、悔悛の礼典によってのみ回復される。
ローマは、確心を不可能と見るだけでなく、また、確心を望ましくないもの(undesirable)と見る。ベルコフは、「このことに対する真の理由は、おそらく、教会が、信心深い者たちの霊魂を絶えずあやふやな状態において保つことによって大いに得をする(the church greatly profit)からと感じている。そのことは、悔悛の礼典を通して豊かな収穫を刈り取るのである」(Louis Berkhof,The Assurance of Faith,Grand Rapids:William B.Eerdmans Publishing Company,1939 p.22)。
B. 宗教改革
宗教改革の到来によって、信仰の確心は、ルターとカルヴァンの両者によって主張された大切な点の一つとなった。「要するに、もし、自分が、神は自分に対して慈悲深く善意の父であり、また、御自身がいつくしみからことごとくのものを約束していることを固く確信していなければ、また、もし、自分が自分への神の善意の約束に依存していなければ、また、救いについて疑いのない期待を感じていないならば、誰も真の信者ではない」(カルヴァン:「綱要Ⅱ-Ⅱ-16)。
C. 改革派諸信条
宗教改革の確心の意味を反映して、ハイデルベルク信仰問答は、キリストにおいて見い出される慰めにおける喜びの調べで始まる。「問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもって わたしたちのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ 髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしたちを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。そして、また、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今からこの方のために生きることを心から歓び またそれにふさわしくなるように、整えてくださるのです」。
この調べは、何度も何度も、信仰問答を通して響いている(問21,26、32、39、44、52、54など)。ここに、わたしたちは、確かさは福音の通常の局面であるという概念を見るのである。
ドルト教憲は、確心は特別啓示によってのみ知られ得るというローマの見解に反対して、確心は、信仰の測りにしたがって享受され得ることを断言している。このことは、あたかも、確心が救いに至る信仰の本質であるかのように響く。ウェストミンスター信仰告白が言う。「この無謬の確信は、信仰の本質には属していないので、真の信者がそれにあずかるものとなる前に、長く待ち、また多くの困難と戦うことがある。しかし彼は、神から自由に自分与えられてる事柄をみたまによって知ることができるようにされているので、特殊な啓示なしに、通常の手段を正しく使うことによって、これに到達することができる」。
D. マローの人々(the Marrow Men)
スコットランドにおいて、救いに至る信仰についての確信についてのマローの人々の見解は、普遍的贖罪を含んでいると疑問視された教理の一つであった。これを否定した。この疑いを生じさせたエドワード・フィッシャー(Edward Fisher)の「近代神学の心髄」(The Marrow of Modern Devinity)の個所は次の通リである。「エヴァンジェリスタ(男性名)は信仰のみによる義認について語って言う・・・それゆえ、パウロとトシラスが牢屋番に言ったように、わたしもあなたに言う。『イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたは救われる』。すなわち、あなたの心において、イエス・キリストはあなたのものであり、あなたは、彼によって命と救いを持つ。また、キリストが人類の贖罪のためにしたことは何でも、彼はあなたのためにしたのである(whatsoever Christ did for the Redemption of mankind,he did it for you)」。(Edward Fisher、The Marrow of Modern Divinity,The Ninth edition Corrected:Edinburg:John Mosman and William Brown,1718,p.119,as cited by David Lachman,The Marrow Controversy 1718-1723,An Historical and Theological Analysis:Edinburgh:Ruthford Hose Books,1988,p.9)。
デーヴィッド・ラッハマン(David Lachman)は、次のようにコメントする。「救いに至る信仰の定義において真の納得(a true persuasion)あるいは確信(assurance)のこの包含は最初の宗教改革者たちの教理を反映している。彼らは、救いの個人的な確信に大きな強調を置き、それを救いに至る信仰の中に組み入れたのである」(Ibid,p.9)。
ラッハマンは、宗教改革のより初期の多くの神学者たちを、マローの人々によって主張された立場を支持するものとして引用した。彼は、この事柄についての立場の移行が、サミュエル・ルザーフォールド(Samuel Rutherford)とジェームス・ダーハム(James Durham)のような人々と共に、17世紀の中葉に始まったこと示した。「ほとんど後期の改革派神学者たちは、救いに至る信仰の本質についての確信を否定した」(Ibid,p.15)。彼は、トーマス・グッドウィン(Thomas Goodwin)を、このよい例として引用した。彼は、「義認の確信は、キリストの人格について信仰した後から必然的に来なければならないと主張した」(ラッハマンによる引用として、Ibid,p.16)。)。他方、ウォルター・マーシャル(Walter Marshall)は、彼の「種々の実践的な指針において始まった聖化の福音の神秘」(The Gospel Mystery of Sanctification Open’d in Sundry Practical Directions)において、より初期の改革者たちの見解を主張した。ラッハマンは、マローの人々(the Marrow Men)は、「その時代の正統派の意見を明らかに表明した」ことを結論したのである。しかし、マロー論争(the Marrow ciontroversy)の時代までには、このことは、最早、受け入れられた意見ではなかったが、多くの改革派神学者たちによって注意深く拒否された見解の大切な点であり、ある者たちによって無律法主義者の教理と結びつけられたのである」(Ibid,pp.21-22)。これは、疑いもなく、マローの人々(the Marrow Men)に関して生じた論争の一部を説明する。
E.近代の改革派の思想
20世紀の改革派の神学者たちは、信仰の確信についての主題を簡潔に扱う。ルイス。ベルコフ(Louis Berkhof)は、「信仰の確信」(The Assurance of Faith)という小さなよく知られた論文を出版した。ジョン・マーレー教授(Professor John Murray)の「著作集」(Collected Writings)には、「信仰の確信」(The Assurance of Faith)が含まれている。編集者は、この章の最初の源泉(the original source)を示していない。
マーレー教授は、上記の歴史において生じた諸問題に敏感であり、そして、マロウ論争によって生じた諸問題への解決を、その論争への直接的な言及なしに、わたしたちに指し示したのである。わたしたちは、彼の推論の線をたどろう。彼は言う。「確信(assurance)あるいは確信(conviction)と信仰の直接の行為あるいは第一義的行為(the direct or primary act of faith)の間には明白な区別がある。信仰の第一義的なまた直接の行為(the primary and direct act of faith)は、わたしたちが救われて、永遠の栄光の世継ぎであるという信念ではなく(not the belief)、わたしたちが救われるために(in order that we may be saved)、福音において無償で提供されているキリストに委ねることの行為(an act of entrustment to Christ)なのである。第一義的行為は、救いのためにキリストへの信頼であり、信仰の確信は、この確信がわたしたちのものであるという確信なのである(Murray,Collected Wrintigs ,op.cit.Vol.Ⅱ.p.264)。
信仰の確信は、救いに至る信仰の第一義的な行為に向かい合うもの(the opposite)なのである。救いに至る信仰は、わたしたちは失われており、そして、自分自身からの目をそらすもので、救いのためにキリストに目を向けなければならない。信仰の確信は、他方、わたしたちが救われたキリストを信頼しているということの確信なのである。
信仰の第一義的で反射的な行為(the primary and reflex acts of faith)は区別されるべきという事実は、信仰の確信が信仰の第一義的な行為から時間的に切り離せねばならないことを意味しているのではない。信仰の確信は、信仰の行為に伴うのであり、その結果、信者が自分の回心のときから確信の意識を持つのである。
信仰の確信が、救いに至る信仰の第一義的行為の本質ではないことを認めても、信仰の確信が、「救いに至る信仰の不変に付属するするもの(an invariable accompanyment)か、あるいは、結果(konsequence)なのか」という疑問は問われねばならない。マーレーは、答えは、含意の確信と明白な確信(implicit and explcit assurance)の間の区別である。「確信の芽(the germ of assurance)は、信者が信仰によって所有するようになる救いにおいて確かに含意であり、それは状態と状況においてなされた変化において含意されているのである」(Murray,op.cit.p.Vol.Ⅱ,p.265)。信者は、どんなに自分の信仰が弱くとも、意識的には、信仰に来る以前の自分と同じ状況には決していないのである。しかし、彼は、十分には、救いの確信を意識していないかもしれない。このことは、聖書の勧めに合っている。「だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません」(ペトロ二1:10)ヨハネもヨハネ一5:13において、その確信を悟ると促している。ウェストミンスター信仰告白は言う。「この確信は、信仰の本質には属していないので、真の信者がそれにあずかるものとなる前に、長く待ち、また多くの困難と戦うことがある」(ウェストミンスター信仰告白 第18章第3節、詩編51:8、12、14、31:22、77:1-10、エフェソ4:30-31、ヨハネ一5:13を見よ)。
ローマは、信仰の確信は普通の信者にとっては心の安全なあるいは正常な状態であること(a safe or normal state of mind)を信じない。アルミニウス派は、人は信仰の確信を持つかもしれないが、このことは、堅忍あるいは永遠の救いを保証しないのである。
「要するに、主権的な選びと効果的な贖罪に例証される特定主義(the particularism)に基づかない神学のどの種も、信仰の確信のこの教理に好意的ではないのである。この確信を軸にしての回転が、神の恵みによって、父の永遠の目的に一致して、神の子供であること、また、キリストの完了したみわざによって獲得された救いにおいて、終末的な救いへと神の力によって保持される確信なのである」(Murray,op.cit.p.267)。
Ⅲ.聖書の教え
A. 直接の教え
1. ヨハネ一5:13「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」。
ヨハネは、手紙を書いている目的は、わたしたちが永遠の命の確信を持つためである。含意は、すべての者がこの確信を持つのではないが、他方、確信に達することは可能である。
2. ローマ8:38-39「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。
使徒は、自分自身の確信(his own conviction)とキリストとの関係性についての分離できない性格の確信(assurance of the inseparable character of his relationship with Christ)を示している。彼は、これは、まさに自分自身に関するのではなく、キリストにあるすべての者に関することを述べている。この確信は、源泉として、神が前もって知っていること(the foreknowledge)に振り返って見ている、また、終わりとして栄光化を楽しみに待っている。
3. ペトロ一1:1-7「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」。
この個所は、救いの確信と朽ちない嗣業について語っている。それは、神が前もっと知っておられること(the foreknowledge)に根があり、信仰によって自分のものとされる。
4. ペトロ二1:10「だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません」。
ここで勧めは、わたしたちが信仰の確信を求めることであり、また、このことはわたしたちの召しと選び確かにすることによってなされる。換言すれば、わたしたちの確信は、究極的には、わたしたちが神の選びの一人であることに依拠している。
B. 確信の根拠
確信の根拠について語ることにおいては、わたしたちは、信者が自分の救いについて確信に来る方法(the ways)について語るのであって、自分の救いの根拠についてではない。
1. 救いの計画の性質
救いの確信を持つことは、信者が救いの計画それ自身の性質について適切な理解に来なければならない。彼は、救いにおいて与えられた恵みの大きさについて理解する必要がある。
2.御霊の内的証言
キリストへの信仰は、信者を神の世継ぎ、また、キリストとの共同相続人とする。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです」(ローマ8:15-17)。
使徒は、ここで、キリストの福音において、わたしたちは神の家族の子とされ、また、キリストと共同相続人になることを称賛している。聖霊は、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることを証言する。
「しかし、いずれにせよ、彼らは子とする霊として聖霊を受けたのであり、聖霊において、また、聖霊によって、彼らの内に、『アッバ、父よ』と呼ぶことにおける表現を見い出す子としての信頼(filial confidence)が生じるのである。彼らは、関係性の親密さを意識し、その結果、彼らは呼びかけと神の彼らへの父らしい関係の嘆願において、自発的にその表現をするのである」(Murray,op.cit.p.272)。
わたしたちが神の子であるとのわたしたち自身の証言に加えて、御霊の証言がある。「神の御霊は、主を恐れる者たちの心に内住することによって、また、そのように明白に神的である人間の更新におけるそれらのすべての恵み深い働きによって、継続的に証言をするのである(Berkhof,Assurance,op.cit.p.61)。
ヨハネは、わたしたちが神の子であるという事実を叫ぶ。彼が次のように言うとき、彼はわたしたちが神の子であることの概念をほとんど把握し尽くせないように見える。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」(ヨハネ一3:1-2)。
信者の確信は、神に対する自分自身の信仰と愛に依拠するのではなく、神の変わることのない忠実性に依拠する。「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず/わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと/あなたを憐れむ主は言われる」(イザヤ54:10)。
福音の約束は、イエス・キリストにおいてすべて見いだされ、きのうも、今日も、永遠に変わらないのである。
4.神の戒めへの従順
わたしたちが、神を愛しているかどうかを知る証拠は、わたしたちが神の戒めに従順であるどうかである。「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります」(ヨハネ一2:3)。従順の生涯において、確信がある。不従順の生涯においては、わたしたちは、神の御顔の光がなくなることの経験を予期することができる。わたしたちが不従順の道を歩くとき、確信は弱くなり、消えさえもするのである。
「このことは、救いのために行いに依拠することを同じではなくまた、それは自己満足と同じでもない。従順は、わたしたちが神を愛し、神の国のメンバーであることの証拠を単純に構築することである(Murray,op.cit.p.271)。「愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ」(ヨハネ一3:21)。
5. 自己吟味
「確信に最も有害なのは、救いを当然のことを思うことである」(Murray,op.cit.p.271)。わたしたちは自分たちの救いのため、イエスを信頼しているということを確かにするため、自己吟味が必要である。「だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません」(ペトロ二1:10)。「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。」(コリント二13:5)。
C. 確信の効果
聖書に基礎づけられた確信は、次のような祝福を信者にもたらすであろう。
1. それは霊的喜びを増進する
人が救われているという確信(confidence)と確信(assurance)を持つことは、信者に、喜びと平安の深い感覚をもたらすことができる。これが、ネへミヤがイスラエルの人々に入った主旨です。「彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ8:10)。
2、それは神へのわたしたちの奉仕を促進させる
わたしたちが神に属し、また、キリストと共同の相続人であることを知ると、わたしたちをより大きな奉仕へのわたしたちを促すのである。「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(コリント一15:55-58)。
2. それは罪へのわたしたちの抵抗を助ける
「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ4:7)。ここで、使徒は、わたしたちを罪深い思いから守るのは、信者が持っているまさに神の平和なのであることを示している。「クリスチャンの実際の経験において、確信の恵みを享受する者は、尊い不老長寿の薬(the precious elixir)が怠慢によって失われないように、神の前を最も注意深く、慎重に歩むのである(Dabney,op.cit.p.713)。
「神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。 御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。」(詩編139:23-24)。「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。
5:8 わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(コリント二5:6-9)。「しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです」(ヘブライ6:9-12)。
解説
「第37章:信仰と救いの確信」の紹介が終わったので、?点の解説をする。細かいことは、スミスの本文を読んでいただければと思うので、気づいてことを記す。第1点は、「信仰と救いの確信」の教理の扱い方である。スミスは、この教理を、救いの秩序、救拯論の最後で1章を独立させて扱っているが、ベルコフは「組織神学」において、神秘的結合、一般的で外的な召命、有効召命、回心、信仰、義認、聖化、聖徒の堅忍という順序で救いの秩序を扱うが、確信の問題は、独立した1章を設けることをせず、信仰の章で、信仰の確信が信仰の本質に属するかどうかを扱っている。ちなみに、オールド・プリンストンのチャールズ・ホッジは、「組織神学」において、召命、再生、義認、聖化という順序で、救いの秩序を扱うが、信仰の章において、「信仰の効果」として「確信」(assurance)と「救いの確かさ」(certainty of salvation)論じる仕方をしている。なお、チャールズ・ホッジの息子のA.A.ホッジは、「神学概論」において、有効召命、再生、信仰、キリストと信者の結合、悔い改め、義認、聖化、子とすること、聖徒の堅忍という順序で扱っているが、信仰において、「信仰の確信」を論じる仕方をしている。なお、岡田稔先生の「改革派教理学教本」においても、また、ベルクーワの「教義学研究」においても、「信仰と救いの確信」についてのまとまった論述は特にない。
こうして見てくると、「信仰と救いの確信」の扱い方も神学者によって異なることがわかる。それぞれに、良さがあると思うが、スミスのように、「信仰と救いの確信」を、1章を設けて論じる仕方は、主題がはっきりして分かり易いかもしれない。特に、「組織神学の」教科書としては、これから神学を学ぶ神学生に最も分かり易いかもしれない。
第2点は、「信仰と救いの確信」の定義についてであるが、日常的に言えば、自分はキリストを信じてすべての罪を赦され、救われて、永遠の命を与えられていることを自分が確信することと言えよう。なお、この確信を持てるかどうかについては、立場によって異なる。ローマ・カトリックは、特別な啓示がなければ、この確信は持てないと主帳する。しかし、宗教改革においては、ルターもカルヴァンも、特別な啓示がなくても、持てることを主張した。たとえば、ハイデルベルク信仰問答は、よく知られた第1問において、信仰の確信を印象深く強く表明している。ウェストミンスター信仰告白も第18章第3節で、この確信は信仰の本質には属していないが、しかし、特別な啓示がなくとも、また、この確信を持つのに時間かかかる場合もあるが、しかし、自分が救われて恵みの状態にあることを十分、確信できるようになることを力強く告白している。実際、改革派教会においては、説教において、この確信が持てることが語られ、また、教えられるので、わたしたちは、キリストを信じて救われ、恵みの状態にあることを確信し、心に喜びと平安を持って歩める。
第3点は、17世紀に生じたスコットランドのマロー論争についである。マロー論争とは、どのようなものだったのか。すると、マロー論争は次のようであった。1646年に、エドワード・フィッシャーが、「近代神学の真髄」(The Marrow of Modern Divinity)という改革派の正統神学に立つ著作を書いていたが、後に、ボストンによって、1700年と1718年に再版されて、人々に読まれた。「近代神学の真髄」は、人の救いは神の主権的恩恵によることの強調、また、救いの恩恵は普遍的に提供されていること(すなわち、福音の一般的提供)を語っていた。ところが、当時のスコットランド全体が、人は救われるために律法を守るべきであるというような律法主義的な説教が広くなされていたので、「近代神学の真髄」は、当時の律法主義的雰囲気に反するということで、「近代神学の真髄」は、反律法主義と訴えられ、読むことを禁止され、また、「近代神学の真髄」が、救いの恩恵は普遍的に提供されていること(すなわち、福音の一般的提供)を語っていたことから、改革派の特定救済主義に反すると非難された。そこで、ボストンをはじめとする12人の教職が、スコットランド長老教会を離脱し、離脱者教会を組織した。しかし、マローの立場を支持する「マローの人々」(Marrow men)は、改革派の正統派であったのである。
そして、この論争の中で、マローの立場を支持する「マローの人々」(Marrow men)は、「信仰と救いの確信」を、信仰そのものと区別することなく、信仰に組み込み、信仰そのものと一体化していた語った。実際、宗教改革のより早い時期の改革派神学者たちの中には、そのように救いについての個人の確信を強調して、信仰そのものに組み込む神学者たちもいたのである。しかし、17世紀中頃には、信仰そのものと「信仰と救いの確信」は区別され、「信仰と救いの確信」は信仰の本質には属さないことが一般的になっていた。そこで、マローを持するマローの人々と他の人々の論争されたのである。結果として、マーレーが分かり易く述べているように、両者は区別されるものである。17世紀の中頃、作成されたウェストミンスター信仰告白でも、「信仰と救いの確信」は、信仰の本質には属さないことを明白に告白した。なお、マロー論争についての詳細は、拙著「H.バーフィンク:改革派教義学-オランダ語原書による紹介と解説-」の「上巻」の「第5節E.改革派教義学」の「12.イングランドとスコットランドにおける防御とスコットランドのマロー論争」と「結び」を参照のこと。
第3点は、「信仰と救いの確信」が聖書自身の教えであることを、スミスは聖句を挙げて述べる。直接的な個所として、スミスは4個所挙げているが、信仰と救いにういて確信できることを教えているヨハネ一5:13を引用しておこう。「・・・・」。また、信者が、信者が自分の救いについて確信に来る方法として、神の救いの計画を理解すること、御霊の内的証言、神の賜物と召しは変わらないことの認識、自己吟味の4点を挙げている。わたしは、特に、神の戒めへの従順を覚えたいと思った。わたしたちは、「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります」(ヨハネ一2:3)と勧められているように、日常生活において神の戒めを従順に守る努力をしないならば、信仰と救いについて確信できないであろう。また、信仰と救いの確信を持っている効果として、霊的喜びの増進、神へのわたしたちの奉仕を促進、罪へのわたしたちの抵抗を挙げているが、何と言っても、わたしたちがキリストを信じて救われているという確信からは、大きな喜びと深い平安が心に宿るであろう。
第5点は、「信仰と救いの確信」が信仰の本質に属するかどうかについての改革派神学における種々の理解を、ベルコフの「組織神学」(507頁-508頁)に基づいて記しておく。すると、ハイデルベルク信仰問答(1563年)は、ローマ・カトリックが「信仰と救いの確信」を否定したのに強く対抗して、「信仰と救いの確信」は信仰の本質に属ずることを強調した。ドルト教憲(1618年-1619年)は、各信者の信仰のはかりにしたがって「信仰と救いの確信」を享受できると述べたが、このことは、「信仰と救いの確信」は、幾分(in some measure)、信仰の本質に属することを意味する。すなわち、信者は、しばしば肉的な疑いと葛藤するので、いつも常に「信仰と救いの確信」を持つのではないことを意味する。ウェストミンスター信仰告白(1647年)は、「信仰と救いの確信」は信仰の本質に属さないことは明白に述べている。しかし、キリストを信じても、この「信仰と救いの確信」を持つまでに。長い時間がかかることもあることを語っている。マロー論争は、1718年以降に起こったが、そのそのきっかけとなったエドワード・フィッシャーの「近代の神学」(The Marrow of Modern divinity)が出版されたのは、1646年であり、この著作の立場が、「信仰と救いの確信」は信仰の本質に属するとの立場であった。以上が、ベルコフが述べていることであるが、宗教改革の初期は、傾向としては、「信仰と救いの確信」は信仰の本質に属ずることを述べたが、流れとしては、次第に、両者が区別され、「信仰と救いの確信」は信仰の本質に属さないことが明白になっていったことがわかる。
第6点は、ウェストミンスター信仰基準における「信仰と救いの確信」についてである。ウェストミンスター信仰告白は、「第18章 恵みと救いの確信について」であり、第1節が恵みと救いは確信できること、第2節が恵みと救いの確信の根拠、第3節が恵みと救いの確信の仕方、第4節が恵みと救いの動揺、弱体化、中断について告白されている。
ウェストミンスター大教理問答は、問80と問81で、恵みと救いの確信について述べている。問80は、真の信者は、恵みと救いを間違いなく確信できること、問81は、恵みと救いの確信は信仰の本質に属していなので、確信を持つまでには長い時間がかかるかもしれないこと、また、一時的に弱体化すること、中断することもあるが、しかし、絶望に沈むことはないことが述べられている。ウェストミンスター信仰告白の「第18章 恵みと救いの確信について」は、拙著「ウェストミンスター信仰告白の解説」の当該個所を参照のこと。
http://minoru.la.coocan.jp/morton37.html