悔い改めと信仰 

     

序論的考察


 


わたしたちは、「救いの秩序」(ordo salutis)についての章の下に、悔い改めあるいは信仰の優先性の疑問を決着することは可能ではないことを、すでに考察した。2つの事柄は、分離不可能的に結びついている。悔い改めを最初に置いている個所がある(マタイ21:32、使徒言行録2:38)。わたしたちは、こうして、罪からの方向転換の段階としての悔い改めを最初に扱い、それから、キリストへの方向転換としての信仰を扱う。回心は、方向の変化(a change of direction)あるいは心の変化(a change of mind)を包含するので、わたしたちは、それは、あるものからの否定的な方向転換とあるものへの積極的な方向転換の両方を包含する。それは、古い罪深い生活を意識的に見捨てること、また、キリストにおける新しい生活を抱く手目の方向転換を包含する。こうして、わたいたちは、回心を扱うことを求めるとき、それをこれらの2つの動きの間に分けること、また、各々を分析することは適切である。


 


1.回心の聖書的な理念


 


A.  民族的な回心


 


わたしたちは、歴史を通して、イスラエルが罪から神へと繰り返し方向転換することの例を見出す。イスラエルは、このことを、モーセ、ヨシュアの下で、また、士師記において繰り返しして行った。ヨナ署は、ニネべにおけるヨナの説教の結果を民族的な回心として表している(ヨナ3:10)。これらのすべの場合において心の変化(a change of mind)があったし、また、こうして、罪と滅びの途から義と命への方向の変化があった。


 


B.一時的な回心


 


 聖書は、一時的な回心について言及収しており、それは、心の真の変化を反映していないし、また、こうして、過ぎ去る意義ものみを包含している。そのような回心は、真実で真正に見えるかもしれないが、しかし、時間のテストを満たすことに失敗する(そのような例は、次の個所において見い出される:マタイ13:20-21、テモテ一1:19-20、ヘブライ6:4-6)。


 


C.真の回心


 


コリント二7:10において、パウロは、真の回心を描いている。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。この真の悔い改めは、再生のみわざに基づき、根づいている。真の回心は、意識的生活における再生の効果である。真の回心は、思いと意見の変化、欲求と意志の働きの変化である。真の回心は、生活全体のコースの変容である。雅歌は回心を2重の局面を包含するものとして描く。「主よ、御もとに立ち帰らせてください/わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして/昔のようにしてください」(哀歌5:21)。他方、 その中において、神が行動主体である回心の受動的な局面がある。これは、人間の無意識下のレベル(the subconscious level of man)を包含する。それは、神の再生のみわざである。他方、人間の積極的な応答がある。これは、それによって人間が神の恵みにより悔い改めと信仰において神の向かうころの。再生された人間の結果的な意識的行為である。次の個所は、真の回心の聖書の範例である:ナアマン、列王下5:15、マナセ、歴代誌下33:12-13、ザアカイ、ルカ19:8-9、盲目に生まれた男性、ヨハネ9:38、「サマリヤの女、ヨハネ4:29、エチオピアの宦官、使徒言行録8:30以下、コルネリオ、使徒現行禄10:44、パウロ、9:5以下、リディア、使徒言行録16:14など。


回心は、その用語は、重い皮膚病の人の帰還に言及するのに用いられるが、厳密な救拯論意味においては決して繰り返されないものである。


 


Ⅱ.回心の特徴


 


A.回心は、神の司法的な行為(a judicial act)ではない。回心は、人間の司法的な状態を変化せない。むしろ、回心は、人間の状況(the conditions)を変容し、また、こうして、再創造的な行為と呼ばれよう。回心は、もちろん、司法的な領域において、神の働きに密接に関係している。というのは、回心において、心が罪の意識に目覚め、そうして、キリストを受け入れることに目覚めるからである。回心が、悔い改め、キリストを受け入れるとき、神は罪を赦し、そして、罪人を義とするのである。


 


B.  再生のようにではなく、それは無意識下のレベルにおいて起こるが、回心は人間の意識的活動である。


 


C.  人間の意識的活動として、回心は罪から離れる人間の意識的な方向転換の始めをしるし、また、新しい人を着ることの始めを記す。回心は、無意識的な変化であるが、しかし、それ自身は人間の意識的な活動である。回心は、聖さを追い求める始めであり、人間が自分の残りの生涯にわたって追及しなければならない探求である。


 


D.  聖さを追い求めることの始めとして、回心は、一つの瞬時の行為であるが、聖化のように成長の過程ではない。回心は、一度起こる変化である。クリスチャンには、浮き沈みがあるが、また、こうして、幾つかの回心があるように思えるが、しかし、今日局的には、たった一度の真の救拯的回心がる。


 


E.  救拯は、個人の人生における鋭い危機においてしるしづけられよう。そのようなものとしては、使徒パウロがそうであった。他方、次第次第の事柄(a gradual matter)であろう。それは、洗礼者ヨハネであった。彼は、母親の胎内から御霊の影響の下にあったのである。


 


F.救拯は、罪人の心における神の超自然的な行為の結果である。神は、死んでいた罪人を命に生かし、また、罪から主に向かわせることがおできになるお方なのである。


 


Ⅲ.救拯の諸要素


 


A.  悔い改め


 


1.知的な要素


 


 悔い改めは、罪からの意識的な方向転嫁を萌芽するので、罪の性質についての認識があらねばならないし、また、残存する罪の意識もあらねばならない。聖書は、「罪の認識」(knowledge of sin:επιγνωσις àμαρτία:epignosis hamartias:エピグノーシス ハマルチアス:ローマ3:20)という用語を使う。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(詩編51:3も見よ)。罪の認識には、わたしたちの本人の罪責(our personal guilt)と腐敗(defilement)、また、その絆を破るにはまったく希望がないこと(the total herplessness to break its bondage)の認識も含まれる。


 


2.感情的な要素


 


 わたしたちの罪についての認識があらねばならないだけでなく、罪についてのわたしたちの感情と欲望における変化があらねばならない。詩編51に示されているように、特に、3節と11節に示されているように、わたしたちの罪に対する姿勢の変化がある。罪人は、聖く義しい神に対して犯した罪の対する悲しみを示す。イザヤは、神殿における幻のゆえにそのように示した(イザヤ6:5)。パウロは、このことをコリント二7:9-10において語った。


 


3.意志的な要素


 


目的の変化があらねばならない。すなわち、罪からの方向転換、赦しと聖さを求める傾向があらねばならない。再び、悔い改めの大きな詩編を見よ(詩編51:5、7、11、エレミヤ25:5)。この要素がなければ、他の2つの要素は、空しい行使(empty practice)となる。こうして、このことは、悔い改めの最も重要な局面である。意志的な要素は、聖書においては、「悔い改め:μετάνοια: repentance: metanoia:メタノイア)(使徒言行録2:38、ローマ2:4)。


 


 


 


B.信仰


 


1.信仰についての聖書の理念


 


a.  旧約聖書


「信仰」(faith)という用語は、旧約聖書においては2回だけ生じる。信仰は、申命記32:20に見い出される。「 言われた。わたしは、わたしの顔を隠して/彼らの行く末を見届けよう。彼らは逆らう世代/真実(אמן:emun:エームン)のない子らだ」。また、ハバクク2:4において、「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰(אמונה:emunah:エミューナー)によって生きる」。この言葉の理念には、確固としていること(steadfastness)あるいは信仰深いことと(faithfulness)される。確固としていることが意味されるとこころの信頼の理念が疑いなく包含されている。この理念が、旧約聖書において、「信じる」(believe)、「信頼する」(trust)、「望む」(hope)などの言葉において明白である。


 「信じる」(אמן:aman: アーマン)という言葉は、最初に創世記15:6において生じる。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(ローマ4:3、ガラテヤ3:6を見よ)。ここでは、信頼の理念が文脈において意味されているように思われる。神はブララハムにまさに子孫を約束し、アブラハムはこの約束を「信頼することに動き、また、それを守るのは主である。同様な使い方が創世記45:26において見出される。出エジプト4:1において、わたしたちは、民が自分を信じないことの不平を、モーセが述べているのを見る、すなわち、彼らは彼の言葉を受け入れようとしない、あるいは、彼らの指導者として彼を信頼しようとしないのである。同じ文脈において、わたしたちは同じ言葉の使用法を知的な信仰と呼ばれるところのもの、なわち、ある事実についての信頼性の受け入れへの言及に見出す。出エジプト4:5で、「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる」と言われている。再び、出エジプト4:9において、モーセが民に与えたしるしを受け入れないことへ言及している。「しかし、この二つのしるしのどちらも信ぜず、またあなたの言うことも聞かないならば、ナイル川の水をくんできて乾いた地面にまくがよい。川からくんできた水は地面で血に変わるであろう」。モーセは、出エジプト19:9において、信じられない対象として表明されている。「主はモーセに言われた。『見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである』。モーセは民の言葉を主に告げた」。


  ヨシャハトは、歴代誌下20:20において、神への信頼を呼びかけているものとして表されている。「翌朝早く、彼らはテコアの荒れ野に向かって出て行った。出て行くとき、ヨシャファトは立って言った。『ユダとエルサレムの住民よ、聞け。あなたたちの神、主に信頼せよ(האמינו ביחוה אלהיכם:haeminu beyhwh elohecam:ヒアミーヌウ ベイェホーワー エロヘーケム)。そうすればあなたたちは確かに生かされる。またその預言者に信頼せよ。そうすれば勝利を得ることができる』」。その言葉の両方の使用法において、「~を」(ב:be:ベ)}が続く。信頼の理念がこの構造によって示唆されている。確固としていること(steasdfastness)がそのような信頼の結果であることが考察されるべきである。


旧約聖書における「信じる」(אמן:aman: アーマン)という言葉の使用法についてのこの短い概観から、わたしたちは、それによって担われる幾つかの理念を発見する。最初に、信頼の理念がある、特にその対象としての人格が続くときはである。第2に、その用語は、ある事実の知的な受け入れに言及するであろう。第3に、モーセのしるしの信頼への断言の理念がある。換言すれば、わたしたちは、信仰の3つの理念を見い出すのでありー知識、同意(assent)、信頼であるーすべてが旧約聖書における「信じる」(אמן:aman: アーマン)という言葉との関連にあるのである。


 信頼の理念は、בטח:batach:バータフという言葉によって明らかに断言されている。それは、詩編26:1のような個所において見出される。「【ダビデの詩。】主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません」。ここでは、その理念は、自分自身を主にゆだねた者の信頼である。「よろめいたことはありません」(without wavering)が追加されている。それは、わたしたちが信仰(belief)の理念で考察したところの確固としていること(sreadfastness)の思想を担うのである。この個所においては、主は、信頼の対象である。詩編37:3以下は、信頼と平行するところの幾つかの用語を与える。ここで、詩編の作者は、信頼と共に信仰の生きていること(the living of faith)を語る。よきわざは、信仰に先行するものでなく、信仰の実と見られる。「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ(בטח:bitach:ベタフ)・・・委ねよ(Commit(גול :gol:ゴウル)・・・信頼せよ(ובטח:ubetach:ウウベタフ)・・・主に任せよ(דום:dom:ドウム)」。ここに、わたしたちは、わたしたちの信頼的活動の座としての心(the heart)についての使用法を見る。心は、旧約聖書においては、人間の存在の中心、自我の座を表すために使われている。こうして、箴言の著者は、人が自分自身を主に十分任せるように呼びかけている。包含されているのは、人間のまさに一つだけの局面ではなく、心によって典型的に示されているところの全人(the whole man)を包含しているのである。神の言葉は、詩編119:42においても、信頼の適切な対象として表わされている。「わたしを辱めた者に答えさせてください。わたしは御言葉に依り頼んでいます」。旧約聖書は、一方においては、わたしたちは、偶像(イザヤ42:1、ハバクク2:14)、あるいは人間(ホセア10:13)、あるいは自分人の義(エゼキエル33:13)を信頼しないという事実において、極めて明白である。エレミヤは、このことをまとめている。「主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし/その心が主を離れ去っている人は」(17:5)。


主への信頼と信仰の概念は、岩と砦としての神についての旧約聖書の姿によって例証されている。「主はわたしの岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔」(詩編18:3)。神はそのような岩であり、砦であるのから、わたしたちはわたしたちの救いのために神に安全に信頼することができるのである。


 


b.  新約聖書


 


「信仰」(πίστις:pistis:ピステス)という名詞と「信じる」あるいは「信頼する」(πιτεύω:ピスチュウオウ)は、新約聖書において20回以上も見出され、また、「信仰的な」(faithful)という形容詞は、67回見出される。このことは、新約聖書におけるこの理念の卓越性(prominence)を示している。「そこで、イエスは言われた。『あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう』」(ヨハネ8:24)。ここでは、言及は知的な信仰、事実についての信仰、この事実の真理性への同意にあるが、しかし、信頼すること、救いの信仰への言及ではない。「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています」(ヤコブ2:19)。動詞の「信じる」(πιτεύω:pisteuo:ピスチョオウ)は、そこにおける言及は事実の同意にであるところの与格(the dative)に続く。「・・・(ούκ èπιστεύσατε αυτω:ouk episteusate auto:ウウク エピステチュウサテン アウトウ)・・・・(επίστευσαν αυτω:episteusan auto :エピステユウサン アウトウ)」(マタイ21:32a)。この場合には、救いの信仰は包含されておらず、ヨハネのメッセージの受け入れが包含されている。しかしながら、「信じる」(πιτεύω:pisteuo:ピスチョオウ)プラス与格のこの同じ組み立てが、救うこと、救いの信仰について使われよう。「・・・(πίστευον το πεμπσαντì:pisteuon to pempsanti me:ピステウオウサン トウ ペムプサテ メ)」(ヨハネ5:24)。


救いの信仰を表すためのより一般的な組見立ては、πιτεύω:pisteuo:ピスチョオウ)プラス与格(πιτεύω:είς:eis:を)の組み立てである。文字通りには、これは、~に入って信じること(believe into)を意味する。それは、わたしたち、信者たちは「キリストにある」(believers are in Christ)という新約聖書の教えを、思い起させる。この概念は、真理への単なる知的な同意以上のものを包含する。それは、信頼、委ねること(resting upon)を包含する。「信仰は。敬虔の行為によって、あるいあ、倫理的な善あるは他の何かによって人間が救いへの自分自身への努力へのすべての依存を捨てるところの姿勢である」(Leon Morris、¨Faith¨ in The New Bible Dictionary :Grand Rapids:William B.Eerdmans Publishing company,1962 p.411)。この仕様法の範例は、ヨハネ3:16、使徒現行禄16:30などにおいて見い出される。平行的な使用法は、πιτεύω:pisteuo:ピスチョオウ・プラス:èπι:epi:エピ:~を)である。そのようなケースは、使徒言行禄9:42で「このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた(επίστευσαν πολλοί  èπι τον κύριον:episteusan polloi epi ton kurinn:エピステユサン エピ トン キュリオン)」。


 信仰は、ヘブライ人への手紙の著者によって11章において特別な扱いが与えられている。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(11:1)。これは、信仰に包含されているところのものすべてについての十分で厳密な定義として意図されていないが、とはいえ、それは、信仰の性質のあることを示唆している。これは、信仰に包含されるところのすべてについての十分で厳密な定義として意図されていないが、とはいえ、それは信仰の性質のあるものを示唆している。最初に、信仰の性質についての聖書的な理念は、「闇の中への跳躍」(a leap into darkness)の理念を排除するということが考察されるべきである。真に、信仰は望んでいる事柄と見ていないこと事柄と関係するが、しかし、それは確かさと確信を包含するのである。そのような確信は、人が、自分が実践理性と行為のために必要と感じる現象界に入っていくカントのまさに道徳的な要請ではない。むしろ、聖書は、それを神の権威に基礎づけられたものとして提示しており、また、こうして、わたしたちばまだ見ていないところのものについての十分基礎づけられた確かさと確信なのである。第3節に進んで、著者が、信仰を知識に関係させていることを見ることは興味深い。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。理解する」。創造についてのわたしたちの知識だけが、それについてのわたしたちへの著者の言葉における神の啓示の根拠において来るのである。そのようなものとして、それは真実な知識の適切な源泉であり、また、そうして、わたしたちは、神の御言葉によるものとしての世界の創造についての真実な理解に来るのであり、その結果、神がすべてのものを無から創造したことを、わたしたちは理解するのである。創造のこの事実は、神の権威ある御言葉によって、わたしたちに与えられる。わたしたちは、創造が生じるのを見なかったが、しかし、わたしたちは、御言葉が、まさに教えているように、創造が生じたという確かな知識を持つのである。こうして、わたしたちは、創造についての確かさを持つのである。まだ起こらない頃柄についてもそうである。神の御言葉が予告しているならば、わたしたちは、それらが起こるであろうという確固とした確信を持ってよいのである(ローマ10:17、ヨハネ一5:10)。


 この時点において、わたしたちは、非常に大きな程度において、すべてのわたしたちの行為は、ある信仰の前提に基づくことが考察されよう。たとえば、食物は毒ではなく、養いになるという信仰を持って食べたり、飲んだりする。わたしたちは、わたしたちを目的地にまで運んでくれるという信頼を持って、自動車や飛行機に身を委ねている。わたしたちは、判断の評価によって、その都度、信仰において行動することを納得している。そのような評価は、ある証拠に依拠してなされているし、あるいは、少なくとも、下される判断のための十分な証拠があるという印象がある。証拠が真実であるか、あるいは、想像であっても、しかし、そのような証拠が存在するとひとたび満足すれば、わたしたちはそれに関して信仰へと動くのである。信仰は、信頼性あるいはある出来事、対象、人物の真理についての満足を包含するのである。この評価は、意識的行為か、あるいは、そうではないかもしれない。そのようなものとして、信仰は、より確固でない何かとして知識から区別されないが、しかし、信仰は、関係する真実の証拠がわたしたちの注目にもたらされるその方法においてのみ(only the way)、知識と異なるのである。


 


2.一般的信仰(Fides Generalis)-キリスト教宗教の真理への信仰


 


a.  聖書は神の御言葉であるという信仰


 Fides Generalisという名称によって示唆されているように、これは、人にキリスト教信仰の信頼性について来るところの一般的な信仰である。これh、聖書を神の御言葉としての受け入れを意味する。神がこの信仰の源泉である。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(コリント二4:6)。


 


b.  この信仰の根拠


 


わたしたちが、すでに示唆したように、すべての信仰は、証拠に基づく。真の信仰は、決して暗闇への盲目的な飛躍ではない。わたしたちが、聖書の神的権威の証拠についての疑問に来るとき、わたしたちは、聖書は、神からの啓示についての主張と共に始まるのを、わたしたちは見るのである。もし、神が著者ならば、そのとき、わたしたちは、聖書自身における神的性格の証拠を見い出すことを期待する。これが、まさにわたしたちが見い出すところのものである。換言すれば、聖書は、自己確証的(self-authenticating)である。ウェストミンスター信仰告白は、聖書は、その神的性格を提示しているという多くの証拠を挙げている。


 「わたしたちは教会の証言によって、聖書に対する高く敬けんな評価へ動かされ、導かれることもあろう。また内容の天的性質、教理の有効性、文体の尊厳あらゆる部分の一致、‘神にすべての栄光を帰そうとする)全体の目的、人間の救いの唯一の方法について行っている十分な発表、その他の多くのたぐいない優秀性や、その全体の完全さも、聖書自身がそれによって神のみ言葉であることをおびただしく立証する論証ではある。しかし、それにもかかわらず、聖書の無謬の真理と神的権威に関するわたしたちの完全な納得と確信は、み言葉により、またみ言葉と共に、わたしたちの心の中で証言してくださる聖霊の内的みわざから出るものである」(第1章 聖書について 第5節)。


 次に問われるべき疑問は、生まれつきのままの人間の助けのない精神(the unaided mind)は、この証拠に関して健全な判断をすることができるかどうかである。答えは否定的である。というのは、罪が彼の心と精神を盲目にしたので、彼はすべてこの証拠を受け入れようとしないし、また、受け入れることができない。そのような確信をもたらすために、聖霊のみわざが必要である。


 


c.  聖霊の内的証言


 


罪の認識論的な影響のゆえに、人間は、聖書の自己確証的証言の真の評価を可能にするために、聖霊の照明(the enlightment of the Holy Spirit)を必要とする。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」(コリント一2:14)。ここに、わたしたちは、もし、人間が霊的な真理を洞察することができるために、聖霊の内的みわざの必要性を見るのである。人間は、再生において神の霊によって有効とされる根源的な変化を持たねばならない。その結果、彼は、彼を聖書において直面させるところの証拠を認識し、近づくことができ、また、その傾向を持ち、聖書が神の御言葉であることを洞察することができる。人々を照明に導くところの特別な効果を持つ聖霊のそのようなみわざは、聖書において明らかに教えられている。マタイ11:25、16:17、ヨハネ6:44-045、コリント一12:3のような個所はすべてわたしたちがキリストを救い主と知るようになることは、父がキリストをわたしたちに啓示するみわざであることを教えている。パウロは、そのことをすべてコリント一12:3で要約している。「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」。


 再び、コリント一2:14は、生まれつきのままの人間は、御霊の事柄を洞察することができないことを、わたしたちは注目したが、次の節は御霊のみわざを語ることに進む。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」。御霊の働きを受けたところの人々は霊的であり、また、今度は洞察を受ける。コリント二4:3-6における個所は、この関連で極めて教訓的である。それは次のように読む。「わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」。


 再び、ヨハネ一2:20-27において、ヨハネは、聖霊の「油注ぎ」(an unction of the Holy Spirit)をわつぃたちが受けることを語る。それは、わたしたちに留まり、また、真理についてのわたしたちが持っている知識ゆえにである。これは、疑いもなく、御言葉の真理を洞察することをわたしたちに可能にする聖霊の内的証言(the internal testimony)である。


 この内的証言の性質は、テサロニケ一1:4-5によって示唆されていて、「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです」。わたしたちは、これを聖霊の内的証言と語る。この個所は、証言は、聖霊が御言葉に伴わせる力と証明(in the power and demonstration)にある。これによって、それは不可抗的な確信(irresistible conviction)をもってわたしたちの心に帰ってくる。パウロが語る力と証明は、照明(illumination)という単純な用語では理解され得ない。この力と証明は、御言葉それ自身になる完全さから区別される。聖霊が御言葉を確証し、証印し、強化する(enforce)ところの御霊の働きである。それは、それゆえ、聖書が生み出されたところの霊感する活動(the inspiring activity)にある証言への付加的な証言(a testimony additional)なのである。御霊の霊感する活動は、聖書の経典の閉鎖で終わった。内的証言は、人間の心における、また、人間の心への御霊の継続的な活動なのである。照明と内的証言の精確な性質はわたしたちに神秘なのである。しかしながら、御霊の内的証言は、それ自身では何も新しい真理の内容を啓示しないことを、わたしたちは思い出すのである。内的証言の視野の内に来るところの全真理の内容は、聖書に含まれているのである。内的証言は、聖書は神の神的に権威があるという信仰に終わるところの行為なのである。


 御霊の内的証言は、聖書の神的霊感の必要な補完(the necessary complement)なのである。御霊の霊感は、真理の客観的な内容を保証する。内的証言は、この客観的な御言葉が人間における適切な受け入れを満たすのである。内的証言は、それ自身が啓示ではないことが心に留められねばならない。むしろ、内的証言は、神の御言葉としての聖書への信仰を引き出すのである。それゆえ、内的証言は、信仰の規範ではなにのである。聖書だけが、信仰と実践の唯一の無謬の規範である。さらに、内的証言が、聖書を権威あるものとするのではない。聖霊による聖書の霊感が聖書を権威あるものとするのである。わたしたちは、御霊の内的証言はわたしたちに霊感についての教理を与えるのではないことも考察しよう。これは、聖書自身の内に見いだされるのである。


 わたしたちが、御霊の内的証言を考えるとき、それは聖書が神の御言葉であるという確信を持たらすが、わたしたちは、それを、わたしたちが神の子であることをわたしたちの心への聖霊の内的証言と混同してはならない(ローマ8:16-17)。後者の証言は、わたしたちの救いの結果である。すなわち、わたしたちが神の家族の養子にされたことが趣旨である。他方、内的証言は、わたしたちが、聖書を神の御言葉として受け入れるようになることが趣旨である。わたしたちは、神の御言葉としての明白な信仰と含蓄的な信仰(the explicit and implicit faith in the Bible)を区別すべきである。わたしたちは、救いの信仰以前に、全体としての聖書への明白な信仰があることを主張できない。他方、わたしたちは、キリストへの信仰はキリストに関するある真理の受け入れを包含するということを言わねばならないし、また、こうして、少なくとも聖書の一部を真実として受け入れることを包含するということを言わねばならない。キリストへの信仰は、神の御言葉としての聖書への信仰を含蓄する(implicate)。この含蓄(this implication)は、多くの信者たちにおいてしばらくの間、明白な意識には来ないが・・・。彼が、自分の信仰は書かれた神の御言葉の権威に依拠するという事実を意識するのは、彼がキリスト教信仰の十分な含含蓄についての自分の理解において成長するときだけであり、また、その記録の信頼性の受け入れを包含するときだけである。


 


3. Fides Specialis


 


 特別な信仰(Fides Specialis)、あるいは、救いに至る信仰(saving faith)は、贖い主としてのキリストへの信頼である。それは、人を救うところの神の御言葉としての聖書への信仰ではないが、しかし、それは、救いをもたらすところの贖い主また自分の救い主としてのイエス・キリストへの信仰である。


 


a.特別な信仰(Fides Specialis)の根拠


 福音は、そのような人間に向けられているのではなく、罪深い人間に向けられていることが考察されるべきである。福音は、もし、人間が自分の罪についての何かの認識を持っていないならば、人間に訴えない。こうして、その確信があることが、信仰の不可欠条件である。もし、信仰が、自分の救いのためキリストへの信頼であるならば、わたしたちは、信仰が何の根拠に依拠するかを問わねばならない。


 


(1) 福音の普遍的な招き


 


 わたしたちは、外的召命の見出しの下に、福音はすべての人に提供されていることをすでに考察した。わたしたちは、福音の提供は、信仰の基本的な根拠の一つであることを見てきた。提供の言語は、招きの言語である(イザヤ45:22、エゼキエル33:11、18:23-32、マタイ11:28、黙示録22:17)。


 


(2) 福音の要求


 


福音の約束のまさに性質から、また、提供の祝福から、拒否は最も理に合わない忘恩(most unreasonable ingratitude)である。そのように偉大な救い、信仰の応答を要求する(ヘブライ2:3)。


 


(3) 神の主権


 


 人々が神の御子を信じることを要求することは、主権的な創造者にして世界の所有者としての神の性質の大権(the prerogative)である。福音を受け入れるようにとの招きは、勧めや懇願ではない。それは、神的命令でもある。


 


(4) 神の失敗しない約束


 


 神は不変の神であるから、彼が約束するすべてのことも不変である。こうして、福音の約束は、性質において失敗がないのである。もし、誰かが、キリストのところに来ることができても(if any could come to Christ)、拒否され得るならば、神は神であることを止めるであろう。


 


(5) わたしたちのニーズに対する福音の適合性(the suitability)


 


 わたしたちの信仰の根拠の一つは、罪人としてのわたしたちのすべてのニーズを満たすという福音の卓越した適合性の事実に見い出される。特に、それは、わたしたちの信仰の根拠であるところのキリストの人格の適合性と十分性(all-sufficiency)。わたしたちが、再び、キリストのみわざを預言者、祭司、王として見直すとき、わたしたちは、神は御自身の知恵において、御自身において、完全で十分な救い主を備えてくださった。従順、犠牲、和解、贖罪(redemption)としての贖い(the atonement)は、わたしたちのすべてのニーズを満たすのである。成就されたこの贖いあるいは救いの結果は、それを受けようと願う者すべてに提供される。これは、わたしたちの信仰の主な根拠の一つである。


 


a.救いに至る信仰の最初の行為の性質


 


(1)知識・・・Notitia


 


  誰かが、自分の信頼をキリストに、あるいは、救い主キリストに置くことが期待され得る以前に、彼は、最初に、自分の信仰の対象について知らされねばなない。キリストの人格とみわざが、彼のみわざから流れて来るところの福音の約束と共に、提示されねばならない。教え(instruction)が、教会の、また、福音宣教の最初の任務である(マタイ28:19-20)。良き伝道的な説教が、福音の事実の提供のすべての最初である。信じるためには、人は、知らねばならないし、また、しかし、このことは救いに十分ではない。福音の事実の知的な知識をまさに持つことは、人をキリストとの救いの関係に至らせるものではない。救いに至る信仰は、「知識」(notitia)以上のものを包含する。


 


(2)承認・・・Assensus


 


 福音についての事実が知らされることと共に、信じる人は、これらの事実の信頼性に関して承認することに来なければならない。この承認は自分の性質の2つの局面を包含する。最初に、知的な局面があり、それによって、彼は福音において提示されていることが真実であると評価し、判断する。第2に、感情的な局面があり、そこにおいて彼は、この知識を自分自身のケースに個人的に適用する。このことは、福音がわたしたちの最も究極的なニードを満たすということを認めることを含むのである。それは、福音の自分自身への適切性を認めることである。


 


(3)信頼・・・Fiducia


 


 福音の真理とわたしたち自身へのその適切性の承認でさえも、わたしたちをキリストとの救いの関係に入れはしない。信頼の最後のステップ、自己を委ねること(self-committal)があらねばならない。このことは、罪人の人格をキリストの人格に結びつけること(the engagement)である。それは、キリストに自己を完全に委ねること(the complete self-surrender)である。信仰のこの領域におけるわたしたちの感情的な局面は、最も目立つ。信頼のこのステップがないと救いに至る信仰はない。感情を欠くことは、知的信仰と呼ばれるところのものである。悪霊でさえもこの大きな信仰を持っている。悪霊たちは、福音の事実を知っているし、また、それが罪人に適切であることも承認している。しかしながら、悪霊たちは、救い主としてのキリストを受け入れない。これが、福音主義的な説教が目指すところのゴールである。そこに到達するために、福音の事実が提示されねばならないが、しかし、わたしたちはここで止まらない。かえって、罪人が自分の救いのため、自分の信頼をキリストに、また、キリストのみに置くように呼びかけのである。それがこれである。すなわち、πιτεύω:pisteuo:ピスチュオウ・プラス・πιτεύω:eis:エイス、あるいは、プラス・επι:epi:エピで、信じる(believe in or believe on)なのである。


 


a.救いに至る信仰の客観性


 


 救いに至る信仰は、わたしたちに対して客観的であるところの対象を包含するという事実を強調する。すなわち、人が、何かの対象なしに信仰の姿勢を行使するということは十分ではない。むしろ、救いに至る信仰は、キリストの対象に向けられる。この対象は、聖書において、幾つかの方法で表明されている。たとえば、ヨハネ3:16は、単純にわたしたちが彼を信じることを語る。テモテ二3:15は、聖書は、「キリスト・イエスへの信仰によって」(through faith which in Jesu Christ)、救いのためにわたしたちを賢明にすることを語る。ローマ3:25は、キリストの血はわたしたちの信仰の対象であることを明確に述べる。ローマ10:9は、信仰の対象をキリストの復活にする。それゆえ、わたしたちの信仰の対象は、キリストの人格と十字架上と復活における救いのみわざである。ウォフィールドは言う。「信仰の救う力は、それ自身にあるのではなく、全能の救い主にある。救うのは信仰ではなく、イエス・キリストへの信仰である。救うのはイエス・キリストへの信仰ということさえも厳密な言い方ではなく、信仰を通してキリストが救うのである」(Biblical and Theological Studies,op.cit.pp.424-425)。それゆえ、信仰は、キリストへの信頼として、わたしたちが自分から目をそらし、わたしたちの全関心を対象において、すなわち、わたしたちのためのキリストと彼の救いのみわざにおいて、見い出すことを意味するのである。


 


a.救いに至る信仰の効果


 


(1)義認と神との平和


 


 わたしたちは、次の章において、義認を扱うであろう。そして、こうして、ここではこれ以上の議論には入らない。わたしたちは、救いに至る信仰は、義認と神との平和をもたらすことが、聖書の明らかな教えであることだけに注目する。「それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです」(ローマ5:1)。


 


(2)キリストとの結合


 


 わたしたちがすでに見たように、救いに至る信仰は命題の受け入れ以上のものを包含する。救いに至る信仰は、愛とコミュニケーションの人格と人格の関係性を含む。救いに至る信仰は、キリストとの生きたまじわりにおいてわたしたちを包含する。わたしたちは、キリストを信じると言われるが、あるいは、文字通リキリストに入って信じる(believe in him)のである。聖書は、わたしたちとキリストの関係を彼にある(in him)ものとして語るし、また、今度は、彼がわたしたちに住むということを語る。


 


(3) 信仰の確かさ(assurance of faith)


 


 信仰の確かさは、救いがわたしたちのものとなったという確かさである。信仰の確かさは、信仰の優先的な行為に論理的に結果する。信仰の確かさは、不変であり、もし、芽生えの形態においてのみであっても、救いに至る信仰の必然的な結果である。信仰の確かさは、信仰の優先的な行為の反映の行為(the reflex act)である。衰えていてさえも、真のクリスチャンは絶望を超越している(above despair)。含蓄的な確かさ(implicit assurance)は、不変であるが、明白な確かさは常に明らかとは限らない。このことは、クリスチャンとしての個人の成熟の欠如による。それは、御霊の実の育てることにおける怠慢あるいはひねくれ(perversity)による。もし、確かさがないならば、このことは、救い主としてのキリストに関する確信の確かさが妥当でないことを意味しない。それは、個人の救いに関する何の疑問の必要性があることを意味しない。というのは、救いは、信者の感情に依拠せず、救いに至る信仰によって自分のものとされるキリストのみわざに依拠するからである。


 クリスチャンが確かさを求めることは医務であり、特権である。それは、神が御自身のものを保持するということを教えるところの選びの教理に依拠する。選びの教理は、このことが認められれば、最も慰めとなる教理となる。「だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません」(ペトロ二1:10-11)。確かさの根拠は、神の信頼性であり、わたしたちのではない(ローマ5:2-5、8:15、-16、35-39、コリント二13:5、エフェソ1:13-14、4:30、フィリピ1:6、ヘブライ6:11、17-19)。


 真の確かさは、高ぶりを助長しない、かえって、謙遜、感謝、生活の聖さを増進させる。真の確かさは、神とのより密接なまじわりをもたらす。神との密接なまじわりにある者は、確かさを持つことができ、また、謙遜に神と共に、また、聖さに歩む者は、神との密接なまじわりにいると言われ得る。


 確かさを得る手段は、救いの性質の救いが依拠するところの根拠についての知的な理解を包含する。わたしたちが、福音においてわたしたちに来たところの神的恵みの真の意味を認めるとき、わたしたちは救いの確かさに来ることができる。わたしたちが、キリストにおける神の恵み深い契約の愛と神の契約の約束の不変性を理解するようになると、わたしたちは確かさにおいて成長する。再び、わたしたちのすべてのニーズを満たす、キリストの人格とみわざの適切性を、また、わたしたちの罪と罪責を扱う福音の約束の適切性をわたしたちが考察するとき、わたしたちは、確かさについてのわたしたちの感覚において励まされる。それは、わたしたちが、わたしたちの安全は信仰や経験や感情に依拠しているのではなく、わたしたちが自分の確かさについての確信に来るところのキリストと御言葉の確かな約束に依拠しているからである。神は、わたしたちの確かさを励ますために、わたしたちに わたしたちが神の子であるというわたしたちの霊と共に聖霊の内的緒言の賜物によって直接の助けを与えるのである(ローマ8:15-16、ガラテヤ4:6、エフェソ1:13-14、コリント一2:12、コリント二1:21-22)。「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」(ローマ8:16)。それは、こうして、わつぃたちが福音についての理解において成長するときあり、また、わたしたちが確かにおいて成長するために、神が御言葉、祈り、礼典においてわたしたちに備えてくださったところの恵みの手段を使用するときなのである。


 


d.  信仰と救いの秩序(ordo salutis)の他の諸要素との関係


 


(1) 信仰と再生


 


信仰と再生のどちらが最初に来るかという疑問は、人間が再生される前は、罪ととがの中に死んでいたという事実によって解決される(エフェソ2:1)。わたしたちは、人間への罪の影響は人間が神を喜ばすことができないものにしたことをすでに考察した(ローマ8:7-8)。こうして、もし、彼が救いに至る、信頼する信仰の行為によって神に来るならば、そうすることが彼に与えられねばならない。これが、まさに、聖書の表明である。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エフェソ2:8-9)。しかしながら、わたしたちが、信仰の優先的な行為の性質について研究したように、それは人間の行為であることが記憶されるべきである。こうして、信仰は、神の賜物であり、人間の行為の両方なのである。ラザロが墓からよみがえるようにとのイエスの呼びかけに応答することがまさに与えられたように、また、他方、彼はよみがえり、出てきたように、わたしたちの信仰も同じである。信じることが与えられるのであり、また、とはいえ、わたしたちが実際に信じるのである。信仰は、こうして、再生の結果なのである。再生が神の行為であることは、信仰によって、キリストを受け入れることの義務と特権の使用をわたしたちからいかなる方法においても解放したりはしないのである。どの罪人も、彼がそのようにする能力を持っていようがもっていまいが、聖なる生活を送る責任があるのである。信仰についても同じである。


 


(2)信仰と悔い改め


 


 信仰と悔い改めは、同じコインの2つの面として結合している。その2つは共に、わたしたちが回心と呼ぶものを構成している。一つは、罪からの否定的な方向転換であり、他方、他は、キリストへの積極的な方向転換である。人は、信仰において、キリストへの方向転換なしで、真の悔い改めを持つことはできないし、また、彼は罪からの方向転換なしで救いに至る信仰を持つことはできない(ヤコブ2:14以下)。


 


 


(3)信仰と聖化


 


 再び、わたしたちは、信仰の使用を聖化との結びつきにおいてより十分に考察する機会を持つであろう。しかしながら、わたしたちは、信仰が義認を自分のものとする手段であるように、信仰は聖化の手段の一つでもある。わたしたちは、見えるところによってでなく、信仰によって歩まねばならない。


 


 


解説


 


「第31章:回心:悔い改めと信仰」の紹介が終わったので、6点の解説を記す。細かいことはスミスの本文を読んでいただければと思うので、幾つかのことだけを記す。まず第1点は、流れである。キリストの三職二状態において成就された救いは、聖霊の豊かな働きによって。罪人に適用されることにより、罪人が救われるが、この聖霊の豊かな働きによる適用のみわざには、論理的な順序、種々の局面、段階、ステップがある。この適用の過程が救いの秩序(ordo salutis)と呼ばれる。そして、救いの秩序は神学者によっても異なるが、スミスは、召命と再生、回心:悔い改めと信仰、義認、子とすること、聖化、堅忍、信仰の確かさという順序で扱い、すでに前章で召命と再生を扱ったので、今度は回心:悔い改めと信仰を扱う。なお、救いの適用は、聖霊の働きであるが、この救いの適用の諸段階を丁寧に扱うことが豊かな聖霊論になるので、救いの適用を粗末に扱ってはならない。カルヴァンの「キリスト教綱要」も神、キリスト、聖霊、教会となっていて、聖霊による救いの適用に十分光が当たっていて豊かな聖霊論となっている。救いの適用をおろそかにすると、聖霊論の貧弱の神学体系となってしまう。ちなみに、オランダ改革派のアブラハム・カイパーは、聖書に出てくる聖霊の個所をすべて取り上げて釈義。解説をして、部厚い「聖霊のみわざ」(The Work of the Holy Spirit)を書いた。わたしも必要を感じたところを読んだ。また、ウェストミンスター信仰告白も「第10章:自由意志について」から第18章「恵みと救いの確信について」までも9章も使って、すなわち、全33章の内、約3分の1の分量を使って、聖霊の適用のみわざを十分扱って、豊かな聖霊論となっている。また、岡田稔先生の「教理学教本」も「第五篇 救拯における聖霊の事業」として、8章もの分量を使って、聖霊の適用のみわざを十分使い、豊かな聖霊論を展開している。 


第2点は、スミスは、この章で回心を扱うが、回心には2つの要素があり、それは悔い改めと信仰であるが、どちらが先に来るかを決めることは難しいので、スミスは、マタイ21:32で「・・・後で考え直して(did not repent)彼を信じよう(to believe)としなかった」に従って、先に悔い改めを扱い、その後、信仰を扱う。そして、回心は方向の変化あるいは心の変化包み、悔い改めは古い罪深い生活を意識的に見捨てるという否定的方向転換、信仰はキリストにおける新しい生活への積極的方向転換であることを述べる。


 第3点は、回心について、スミスは幾つかのことを述べる。すなわち、回心には、イスラエル民族やヨナの宣教によるニネベの回心のような民族的回心、さらに、キリストのたとえ話に出てくる石地に落ちた種のような一時的回心、そして、真の回心を挙げる。回心の特徴は、法的変化ではなく、現実の生活や人生の変化である。無意識下における再生と違い、人間の意識的な活動である。回心は聖化のような漸進的な成長ではなく、人生における1回的行為である。また、回心の要素は知的要素、感情的要素、意識的要素を包含する全人的な変化である。


 第4点は、信仰についての聖書の理念についてである。旧約聖書において「信じる」を表すヘブライ語は、もともと「確固としていること」を意味し、そこから、信頼を表すものとなったことを述べる。新約聖書においては、「信じる」は、知的な信仰、事実についての信仰、この事実の真理性への同意も表すが、しかし、救いに至る信仰は、これら以上のものであり、厳密には、「~の中に信じる」(believe in)、あるいは、「中に入っていって信じる」(believe into)という組み立てある。すなわち、キリストの中に入っていて信じるということで、それは、信頼、委ねることを意味することを、スミスは述べる。


 第5点は、一般的信仰と特別信仰の区別についてである。すなわち、教会は、救いの秩序における信仰は、特別信仰として、贖い主としてのイエス・キリストへの信仰、信頼のことであり、キリスト教主教が聖書自身と聖霊の内的証言によって神の真理であると一般的に信仰することとは、一般的信仰として、別の事柄として明らかにしてきたことを、スミスは述べる。


 すなわち、一般的信仰が成り立つ根拠は、聖書自身が自己を神的権威と自己確信的に主張し、また、聖霊も人の心に働き、霊的なことに明るく照明し、照らし、そして、聖書が神の御言葉と証言してくだるので、確信できる。聖書が神の御言葉であることは、生まれつきのままの人は悟り、洞察することができない。


 なお、一般的信仰の対象が聖書に書かれている事柄と一般的に言われることに対して特別信仰、救いに至る信仰は、信仰の対象が、贖い主としてのイエス・キリストである。そして、聖書が教えるキリストを救い主と信仰して、義とされ、罪かr救われるのである。特別信仰、救いに至る信仰が成り立つためには、福音の普遍的提供、福音は信仰を要求すること、神は主権的な創造者にして万物の所有者として御子を信じることを人間に命じていること、キリストを信仰すれば、救われるという約束は失敗がないこと、キリストによる救いの良い知らせである福音は、わたしたち罪人のすべてのニーズに応えることができることが、根拠となる。


 また、特別信仰、救いに至る信仰の性質は、信仰の対象について知らされねばならないので知的であり、福音についての事実の信頼性を承認、同意すること必要であり、さらに、信頼の最後のステップとして、喜んでキリストに自己を完全に委ね、自分の人格をキリストの人格に結びつけることが必要である。喜んでキリストに自己を完全に委ねるという感情的なもの大切であることを、スミスは語る。


 特別信仰、救いに至る信仰の対象はキリストであるが、救いに至る信仰の効果は非常に豊かで、義認と神との平和、キリストの結合、信仰の確かさの実を結ぶ。特別信仰、救いに至る信仰と救いの秩序の他の要素との関係としては、信仰と再生の関係は、無意識下における聖霊による再生が先であり、その後、


人間の意識的活動である信仰が来る。信仰と悔い改めは、どちらが先かとの決定は難しいが、回心の2つの要素であり、悔い改めは、罪からの否定的な方向転換であり、信仰はキリストへの積極的な方向転換である。信仰と聖化の関係は、信仰が義認を自分のものとする手段であるように、信仰は聖化の手段の一つでもある。信仰義認については次章の第32章で、聖化については第34章で詳しく論じられる。


 第6点は、スミスは特に述べていないが、バルとの不信仰の存在論的不可能性の主張についての誤りについてである。わたしは、罪の存在論的不可能性についてのバルトの主張を知ったとき、バルトは聖書にないおかしなことを主張していると思ったが、バルトが、不信仰の存在論的不可能性も主張していることを知ったとき、再び、バルトは聖書にはないおかしなことを主張していると思った。すなわち、バルトは、キリストが選民の救いのために十字架で死んだことを認めず、キリストはすべての人の救いのために死んだと主張する。そして、キリストがすべての人の救いのために死んだことは、神の恵み深い決断で誰もこの決断を覆すことができないと言う。それゆえ、すべての人はキリストを信仰することだけが必要不可欠で、客観的に真に存在論的に存在すると考える。換言すれば、すべての人には、キリストを信仰するか、信仰しないかの選択肢はなく、信仰することだけがある。すなわち、神の決定において、不信仰はもうすでに消し去られ。不信仰の根が滅ばされているのである。その結果、不信仰は、客観的に真に存在論的に不可能となったと主張する。


 しかし、バルとの不信仰の存在論的不可能性の主張はおかしい。なぜなら、聖書は絶えず不信仰を重大な言葉で繰り返し警告しているからである。ヨハネ20:27で、キリスト自ら「・・・」と信仰を求め、トマスの不信仰を戒めた。ヘブライ1215では「・・・」、ヘブライ12:25では「・・」、ヘブライ4:4で「・・・」、ヘブライ10:29で「・・・」と、不信仰の戒め、重大な警告、不信仰ゆえの裁きと滅びが明白に語られているが、これは全聖書を通して響いている。それゆえ、バルトの不信仰の存在論的不可能性の主張は、聖書の明白な教えから完全にずれていて、信頼できない。オランダの世界的改革派神学者のベルクーワは、「聖書が、不信仰の重大性と危険(the seriousness and danger)についてそのように明らかに語っているところの誤解され得ない性格を、正当に扱っていないのである」と、バルトの不信仰の存在論的不可能性の主張を批判している。バルトの不信仰の存在論的不可能性については、拙著「G.C.ベルクーワ:カール・バルト神学における恩恵の勝利」の「第10章 勝利の普遍性」を参照のこと。


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