伝道の内容と方法
コリント第一 2章
[1-2節] 1 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。
福音は"神のあかし"である。それは罪の赦しと永生に関して神が自らあかし(証)した真理である。神様のあかしは真実で確実だ。それは人間のことばに頼らない。したがって使徒パウロは福音を伝える時"すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて"しなかった。福音の真理性は、神が証したという事実であって、人間の達弁ではない。したがって、キリスト教の福音は、その伝道の方法よりも内容が重要だ。キリスト教の福音の価値はその内容にある。キリスト教の福音の中心内容は、イエス·キリストと彼の十字架につけられた事実だ。したがって、使徒パウロは伝道するとき、イエス·キリストの十字架だけを伝えると決心した。 人間が福音をすぐれた言葉で宣べ伝えたからといって、福音がより力を持つわけではない。福音の力は人間のすぐれた言葉ではなく、その内容そのものにある。イエスキリストは罪人のために十字架で死んだという事実が罪人を救う力になる。
[3-5節] 3 あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。 5 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
キリスト教の福音の内容が力であるため、使徒パウロは福音を伝えるためにコリンドに留まった時に人間的には弱く、恐れて震えた。神様はパウロが伝える福音を救いの力として使っていたが、福音を伝えるパウロ自身は弱かった。しかし、このような事実はむしろ福音の力が人になく、その内容になったイエス·キリストにあることを実に表した。したがって、今日も福音を伝える我々が自ら弱いと感じる時、落胆せず、神のみを頼りにイエス·キリストの福音のあかしを忠実に伝えなければならない。
使徒パウロは宣教する時、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。ここに伝道者の正しい姿がある。福音の伝道者は、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われなければならない。 彼は単に福音を伝えなければならない。その単純な福音の伝播に聖霊の御力が共にあらわれる。その御力は、過去に外的に現われた奇跡だけでなく、いかなる時代も内面的な変化の力、すなわち罪人を悔い改め、信じさせる救いの力を指す。
福音の性格がそうであるように、聖徒の信仰も人の知恵に基づかず、神の御力による。その御力はイエス·キリストの十字架の福音で、働く神の御力、聖霊の御力だ。このように、聖徒の信仰は人に頼らなく、神に頼る。神様はイエス·キリストの福音を通じて私たちを信じさせてくださった。
神の福音を伝える伝道は、説得力のある知恵のことばではなく、単純に主イエス·キリストの十字架の贖いの事実を伝えることである。そこに神の御霊、聖霊の働きがある。今日も神様は主イエス·キリストの十字架の福音を通じて罪人を救ってくださる。それが神様の御業でる。どの時代でも、主イエス·キリストの十字架の福音は罪人を救う御力であって、今日もそうだ。