ただ一つの慰め"の意味について


 聖書をより正しく豊かに理解するためのガイドブックとして学んできた『ハイデルベルク信仰問答』は、今から450年も昔の文書です。聖書も古い書物ですが、このガイドブックも少し古すぎないかとの疑問も沸くかもしれません。実際、今日では不必要かつ理解困難な説明もありましたし、その場合にはそのように解説しました。

 それにもかかわらず、この『信仰問答』は今日にも十分通用する、否、今日こそ耳を傾けねばならないメッセージを明確に伝えているように私には思えます。それは、時代を超えて私たち人間の現実に与えられているキリストの福音を、この小さな書物が見事に伝えているからです。

 そのような福音の神髄であり、『ハイデルベルク信仰問答』の中心的なメッセージである「ただ一つの慰め」について、最後にもう一度思い巡らしてみましょう。

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 “わたしがキリストのもの"であることがどうして「ただ一つの慰め」(問1)なのかよくわからないと、時折耳にします。“キリストがわたしのもの"ならわかるのだが、と。もちろん、主イエス・キリストは私たちのために御自身を捧げてくださった方ですが、それにもかかわらず、やはり“わたしがキリストのもの"であることに究極的な慰めはあるのだと思います。

 世の中では何ができるか何を持っているかで、人の価値が計られます。それなら、役に立たないどころか罪の負債ばかり膨れ上がった人聞をいったい誰が価値あるものとみなしてくれることでしょう。ところが、そのような私たちをそれでも赦して御自分のものにしようとしてくださるのが、聖書の神です。しかも、その負債を御子が御自分の命によって完全に償ってくださったというのです。

 わたしがもはやわたしのものではなく、キリストの中に自分の価値を見出すようにしてくださった。これが聖書の福音です。もし自分の価値を他人との比較や自分自身の中に探すしかないとすれば、それは何と惨めで虚しいことでしょうか。けれども、こんなわたしに価値があると永遠に変わることのない神が決めておられるとするなら、それは何と確かな慰めでしょうか。

   この小さな書物の学びを通して、皆様がそのような“ただ一つの慰め"を確信し、 …この世の旅路を力強く歩み続けてくださいますように。

 『ハイデルベルク信仰問答』が問答の中でしばしば「わたし」という一人称単数を用いているために、非常に主観的だと言われることがあります。しかし、それは大きな誤解です。問1が明確に語っていることは「わたしがわたし自身のものではない」ことが慰めだということです。「わたし」という存在がキリストに抱かれて見えなくなるほど一つとされる。これが「わたし」の生死を貫く確かな救いであり拠り所だというのが『信仰問答』の主張なのです。

 実は『信仰問答』の中に「慰め」という言葉自体はそれほど多く現れません。むしろ「信頼」「喜び」「希望」という言葉が、しばしば父なる神や聖霊なる神の御業と共に語られます。つまり『信仰問答jが教える「慰め」とは決してセンチメンタルなものでなく、世界や歴史また私たちの全生活と全生涯を貫く神の業に根ざして生きる力だということです。

 したがって、この「慰め」は言葉だけの抽象的な概念なのでもありません。わたしの「体と魂」全体に関わる具体的かつ現実の事柄なのです。『信仰問答』が神の救いをしばしば「体と魂Jという表現で表すのは、そのためです(問11,34,57,76,109,118等)。私たちの救いのためのキリストの苦しみが「体と魂」における現実の苦しみだったからです(問37)。聖書が教える愛は、いつでも具体的なものなのです。

 いつの時代にも「涙の谷間」(問26)を生きる人々の絶えないこの悲惨な世界に、父と子と聖霊なる神は信頼と慰めと喜びを回復してくださいました。そのように大いなる神の救いの中に、こんなにもちっぽけで惨めな「わたし」でさえも、ただ主イエス・キリストを信じる信仰によって入れていただけるのです。これが『信仰問答』が明らかにする聖書の“福音"です。

 この小さな書物の学ぴを通して、皆様がそのような“ただ一つの慰め"を確信し、大きな喜びと希望をもってこの世の旅路を力強く歩み続けてくださいますように、心よりお祈りいたします。


http://www.jesus-web.org/heidelberg/heidel_131.htm