私たちは、言葉をどのように用いれば


 十戒の第九の戒めは、人の名誉または信用に関わる戒めです。これまで学んできたように、人の命や性また生活を守ることは、いずれも聖書が教える隣人愛の大切な要素です。これらに加えて十戒は、一人一人の名誉や信用を守ることもまた人間にとっての大切な尊厳としているのです。

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 「隣人について偽証してはならない」という第九戒は、直接的には、公的・私的に真偽をただす裁判の場面を念頭においています。公的な裁判の場で証言する機会は、滅多にないかもしれません。けれども日常生活の中で“証言”する機会は、今日でも結構あるのではないでしょうか。
 例えば、自分が関わった交通事故の現場で、あるいは家庭や教室や職場や隣近所でトラブルが起こった際に、なぜそうなったのか誰の責任なのかを明らかにしなければならない時です。その時に、隣人について偽証してはならない嘘をついてはならないと、第九戒は戒めているのです。

 これは、思っているほど簡単なことではないと、経験した人ならわかるでしょう。人は皆、自分の利益を守ろうとするからです。たとい悪意は無くとも、自分が不利益を被らぬように、また責任を逃れるために、本当のことを言わなかったり嘘をついたりすることがあるからです。

 嘘をつくこと自体、すべてを御存知の神の前では大きな罪(箴言12:22)です。しかし、とりわけ第九戒が求めていることは「わたしが誰に対しても偽りの証言をせず、誰の言葉をも曲げず、陰口や中傷をする者にならず、誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さないこと」です。
 意図的に相手を陥れようとすることは論外ですが、裁判の場では偽証によって被告が有罪となり死刑になることさえあります。誰かの嘘によって友達を失う、仲間外れになる、職場を追われる、地域で信用を失うということがあります。言葉とは恐ろしいものです。たった一言の嘘によって、ある人の一生を狂わせてしまうということが、現実に起こり得るのです。

  真実を大切にしながらも、他人を中傷することなく、
        かえって人を生かす言葉・・・を用いようではありませんか。

 ですから、そのような「あらゆる嘘やごまかしを、悪魔の業そのものとして神の激しい御怒りのゆえに遠ざけ」なくてはなりません。そのためには、自分が嘘を言わないこともさることながら、他人の言葉を軽率に信じないことも大切です。誰かの陰口や中傷に対しては、特にそうです。人間は自己中心ですから、しばしば自分にとって都合の良いようにしか語りません。それだけに他人に対する非難や中傷を鵜呑みにすることは危険です。少なくとも事柄の全部ではないと考えるべきです。他方で、人をほめる言葉は大抵の場合当たっているものです。自分を差しおいても相手を立てようとしているからです。

 いずれにせよ、私たちは他人を裁くべき立場にはないことをまず心にとめましょう(マタイ7:1、ルカ6:37)。生きた者と死んだ者との審判者は、主イエス・キリストだけだからです(使徒10:42)。私たちは、ただ“然りを然り”“否を否”として「裁判やその他のあらゆる取引においては真理を愛し、正直に語りまた告白すること」を努めましょう(エフェソ4:25)。

 それに勝るとも劣らずに大切な側面が、この戒めにはあります。私たちが「隣人の栄誉と威信とを…力の限り守り促進する」ということです。それは、ただ正直に語るということ以上に、互いに赦し合う“愛をもって”語ることです。「皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。…侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(1ペトロ3:8-9)。
 何一つ罪を犯したことの無い、ただ一人私たち人間の罪を審判できる御方が、死刑に陥れようと企む人々の偽証に、ひたすら沈黙されました(マルコ14:55-61)。そして「父よ、彼らをお赦しください」と、十字架の上からお語りになったのです(ルカ23:34)。

 そうであるならば、私たちもまた、赦すために沈黙することを学びましょう。真実を大切にしながらも、他人を中傷することなく、かえって人を生かす言葉、人の名誉や信用を守る言葉、互いを高め合う言葉を


http://www.jesus-web.org/heidelberg/heidel_112.htm