神の御心がなるようにという祈り
“主の祈り”の三つ目の願いは「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。第一の願いは、神の御名が私たちを通して崇められますように。第二の願いは、私たちの生活の場やこの世界に神の御支配が実現しますように、ということでした。第三の願いは、言わば、第一と第二の結論とも言うべきものです。
信仰者らしく形だけ御名を崇めるとか、神が一方的に力によって支配するというのではなく「わたしたちやすべての人々が、自分自身の思いを捨て去り、唯一正しいあなたの御心に、何一つ言い逆らうことなく聞き従えるように」なること。すなわち、私たちが自分の思いではなく、心の底から神の御心に聞き従えるようにしてください、という願いです。
神の御心に従うことは、形だけの礼拝にまさります。それは、旧約の預言者たちが繰り返し語った聖書の大切な教えです(1サムエル15:22、ホセア6:6)。イエス御自身も、御父の御心を行う者だけが天の国に入るとおっしゃいました(マタイ7:24)。実に、御心を行う人々こそ神の家族なのです(マルコ3:35)。
では、私たちが聞き従うべき神の御心とは何でしょうか。「唯一正しい」と言われると何か独善的で権威主義的に思えるかもしれません。しかし、御言葉と主イエス・キリストを通して現された神の御心とは、驚くべきことに、神に従うどころか自分のことしか考えられない罪深い人間すべてが、キリストによってことごとく救われて永遠の命を得ることなのです(ヨハネ3:16、6:40、1テモテ2:4参照)。
したがって、第三の願いは、ちょうど放蕩息子が父のもとへと立ち返ったように、神に背き続ける私たちの頑なな心が柔らかにされ(問123参照)、私たちを愛してやまない御父への信頼が回復されることを願う祈りと言えましょう。
ですから、それは、神のロボットになることではありません。かつて人が自分の意志で神から離れて堕落したように、今度は自分の意志で神に従う道を選び取るようになることです。嫌々でも強制されてでもなく、自ら進んで喜んでです。それは、あたかも「天の御使い」のようになることです(詩編103:20)。
“御心のままに”。これこそは、愛する者たちのために万事を益としてくださる御父に対する神の子たちの絶対的信頼の告白です。
“御心の天になるごとく”とは、御使いたちが天上で御心に従っているように、ということです。そのように、地上を生きる私たち「一人一人が自分の務めと召命とを、天の御使いのように喜んで忠実に果たせるようにしてください」と願うのです。
そのような私たちに、もし御使いたちにまさる点があるとすれば、それは神の愛を知っているということでしょう。私たちのような者さえ見捨てることなく御自分の子どもとしてくださる天の御父の愛です。キリスト者は、この愛の御心に対して同じく愛の心をもって応える者たちです。
それは、聖霊によって新たに造り変えていただく心です(問86)。父の御心を推し量る子どもの心と言ってもよいでしょう。それによって、何が神の御心か、何が善いことで、神に喜ばれることかを自分でわきまえるのです(ローマ12:2)。
ですから、皆が同じことをする必要も、優劣を競い合う必要もありません。たとい拙くとも自分に与えられた賜物を用いて、できる限りのことを喜んで果たすことです(1コリント7:17、ローマ12:6-8)。
神は私たち一人一人をユニークなものとしてお造りくださいました。それは、各々が神に心を合わせ、互いに配慮し合うことによって、美しいハーモニーを奏でるためです。天の御父は、神の子たちの多様性と調和をお喜びになる方なのです(エフェソ4:16)。
しかし、この世の旅路において、時に神の御心がわからなくなる時もあるでしょう。“神様なぜ”と叫ばずにはおれない時があるかもしれません。主イエスもまた、御心に従うために、祈りの戦いをされました。その戦いの末に“御心のままに”と祈られたのです(ルカ22:42)。
“御心のままに”。これこそは、愛する者たちのために万事を益としてくださる御父(ローマ8:28)に対する絶対的信頼の告白です。私たちもまた、この祈りに生きる者となりたいものです。