聖書が教える性や愛とは
「姦淫してはならない」という第七戒は、直接的には結婚関係を前提としている戒めですが、それに最もよく表される“性”の問題全体に関わる戒めと理解してよろしいでしょう。第六戒が人間の存在の根底にある“命”に関わる戒めだとすれば、その命を包むようにして神から与えられている性について、この戒めは扱っているのです。
性についての聖書の教えを考える時に最も大切なテキストは、創世記の人間創造の記事です。そこには、人が神にかたどって「男と女」に創造されたこと(1:27)、また人が孤独ではなく共に助け合いながら生きるための異性の創造(2:18、22)。さらに、そのようにして造られた者たちが全人格的に一体となる結婚の祝福と、夫婦における健康な性の関係が描かれています(2:25)。ですから、聖書は決して性的関係そのものを汚れたものとは考えてはいないのです(箴言5:18-19や雅歌を参照)。
その一方で、聖書は結婚以外の性的な関係を厳しく禁じています(レビ18章参照)。そればかりか、主イエスは「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」と言われたように、実際に事に及ぶかどうかということだけでなく、心の中でのみだらな思いそのものが罪であることを指摘されたのです(マタイ5:28)。
それ故、第七戒が禁じているのは「すべてみだらなことは神に呪われるということ。それゆえ、わたしたちはそれを心から憎み、神聖な結婚生活においてもそれ以外の場合においても、純潔で慎み深く生きるべきである、ということ」です。
禁断の木の実が「いかにもおいしそうで、目を引き付け」唆したように、
性的誘惑もまた時に私たちの心を強力に引き寄せるかもしれません。
しかし、結婚関係における性は良いものであるのに、なぜ姦淫やその他の性関係は禁じられるのでしょうか。また、性や肉欲に対して寛容な多くの宗教文化があるにもかかわらず、なぜ聖書はそこまでの純潔を求めるのでしょうか。
一つには、聖書が私たち人間の心や理性を重んじているからです。繰り返しますが、聖書は決して体の欲望を否定していません。ただ、それをキチンとコントロールできることが大切なのです。人は「神のかたち」すなわち神の心を持つ理性的存在として造られたからです。それ故、夫婦でさえも互いに尊敬をもって接するように勧められる(1テサロニケ4:4)一方、自己中心的な欲望がいかに相手の尊厳を傷つけるかを聖書は描きます(サムエル下13章)。
第二に「わたしたちの体と魂とは共に聖霊の宮」だからです。主イエス・キリストに救っていただいた私たちの体と魂は、単なる神のかたちという以上に「聖霊の宮」すなわちキリストの御霊が宿る宮とされました。「ですから、この方はわたしたちがそれら二つを、清く聖なるものとして保つことを望んでおられ」るのです(1コリント6:19-20)。
私たちの体も魂ももはや自分のものではなくキリストのものです(問1)。それ故、自分自身を丸ごと神に喜ばれるいけにえとして捧げて生きることが、キリストの救いの恵みに応える生き方です(ロマ12:1)。そして、そのようなふさわしいいけにえとなるために「あらゆるみだらな行い、態度、言葉、思い、欲望、またおよそ人をそれらに誘うおそれのある事柄を」避けねばならないのです(エフェソ5:3-4他)。
第三に、とりわけ「姦淫」の罪は、結婚関係における愛の誠実さを破ることだからです。最も親密かつ全人格的な関係における背信行為は、あらゆる人格関係の誠実さに影を落とします。神に背いたイスラエルの罪が姦淫に喩えられるのはそのためです(ホセア2:4以下を参照)。
禁断の木の実が「いかにもおいしそうで、目を引き付け」唆したように(創世記3:6)、性的誘惑もまた時に私たちの心を強力に引き寄せるかもしれません。が、一瞬の快楽がもたらす代償はあまりにも大きく、取り返しのつかない傷を残します。
それにもかかわらず、キリストの十字架によって赦されない罪はありません。主は十字架の犠牲を通して、真の愛とは何かをお示しくださいました。それは奪うことではなく、与えることです。罪赦されてキリストの“花嫁”とされた私たちは、そのような愛を誠実に生きるようにと招かれているのです(黙示19:8)。