こころみにあわせず、悪より救いを求める祈り
主イエスが祈る時にはこう言いなさいとお教えになった“主の祈り”の最後の願いは「われらをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」です。
日々の糧が与えられ(第四祷)、罪赦された平安(第五祷)の中に置かれたとしても、その状態がいつまでも続くわけではありません。むしろ「わたしたちは自分自身あまりに弱く、ほんの一時立っていることさえできません」との現実が、この最後の願いを祈る理由です。
土の器にすぎない人間は、少し具合が悪くなるだけで文字通り「ほんの一時立っていることさえ」できなくなります。のみならず、様々な思い煩いで心が一杯になると、穏やかな精神状態を保つことさえ困難になります(詩編30:7-8)。肉体的にも精神的にも、私たちがあまりに弱い存在であることは紛れもない事実です。
「その上わたしたちの恐ろしい敵である悪魔やこの世、また自分自身の肉が、絶え間なく攻撃をしかけてまいります」。悪魔がいかなる存在なのか、よくわかりません。しかし、私たちを神から離して悪の支配へと引きずり込もうと“誘惑”する(マタイ4:3)力が現実に存在することを聖書は明確に教えています。そのような闇の力の支配下にある世界が「この世」であり(エフェソ6:12)、私たち自身の内側にある罪の法則(ローマ7:23)が「肉」の欲望です。
それらは私たちの日常生活のただ中で、手を変え品を変え、私たちを神の御心から引き離そうと絶え間なく攻撃をしかけてきます。それが、信仰者が直面する誘惑であり“試み”や“試練”と呼ばれるものです。そのような誘惑や試練は、信仰者のみが経験するものです。本来あるべき状態、神の御心がわかっているからこそ悩むのです。初めから神から離れている者をどうして引き離す必要がありましょう。
勝利の日に至るまで、私たちは互いの弱さを思いやり、心が挫けないように祈りつつ励まし合いましょう。
信仰の父アブラハムが試されたのも(創世記22:1以下)、イスラエルの民が40年間も荒れ野を旅したのも、彼らの心が露わにされ、本当に神の戒めに従順であるかを試すためでした(申命記8:2)。それは、誘惑に負けて堕落した人間(創世記3:1以下)が、再び神の愛する子供たちとして回復されるための主の鍛錬です(ヘブライ12:4-11)。
しかし「心は燃えても、肉体は弱い」のです(マタイ26:41)。主イエスが私たちのためにもだえ苦しんでおられるのを目の当たりにしながら、なお眠りこけてしまう弟子たちをいったい誰が責められましょう。
だからこそ私たちは祈ります。「どうかあなたの聖霊の力によって、わたしたちを保ち、強めてくださり、わたしたちがそれらに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全な勝利を収められるようにしてください」と。
このように祈りなさいとお命じになった主イエスは、御自身、公生涯の初めに悪魔の誘惑を受けられた方です(マタイ4:1以下)。私たち人間の弱さや迷い、苦しみを御自身で経験された方だからこそ、試練を受けている人々を助けることがおできになるのです(ヘブライ2:18)。
このように憐み深い私たちの主が御自分の弟子たちのために願われたことは、しかし、私たちがこの世から取り去られることではなく、悪い者から守られることでした(ヨハネ17:15)。そのために神の子らに与えられたのが、聖霊です。聖霊は、どう祈ればよいのかもわからずに戸惑うばかりの私たちのために、御父に執り成してくださる方です(ローマ8:26)。いえ、天の御父の右に坐しておられる主イエス御自身が、私たちのために執り成していてくださいます(問51参照)。誰が、このキリストにある神の愛から私たちを引き離すことができるでしょう(ローマ34-35節)!
主イエスは、ペトロが試みに負けることを承知の上で、彼のために祈られました。立ち直った時には兄弟たちを力づけてやりなさいと(ルカ22:32)。“主の祈り”の第六祷もまた「わたしたち」皆のための祈りです。この世で信仰の試練にあっている人々はたくさんいます(1ペトロ5:9)。勝利の日に至るまで、私たちは互いの弱さを思いやり、心が挫けないように祈りつつ励まし合いましょう(ヘブライ10:25)。