祈りの生活は、何を願うことから始まる
主イエス・キリストが祈りのモデルとしてお教えになった“主の祈り”には六つの願いがあります。今回は、その第一の願い「み名をあがめさせたまえ」についてです。
神の名とは、十戒の第三戒(あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない)で詳しく学んだように、単なる名前のことだけでなく、神に関わるすべてのことが含まれています(問99)。ですから「み名をあがめさせたまえ」とは、神があがめられますように/神の栄光が現されますように、と祈ることと同じです。
注意したいのは、神の名が知られていないので、もっと知られるように祈りなさいということではないということです。私たちが祈ろうが祈るまいが、神の御名は力強く全地に満ち(詩編8:2)、天は神の栄光を物語っているからです(詩編19:2)。
神の御名も栄光も鮮やかに現されているにもかかわらず、「わたしたち」人間が、あがめていないだけなのです。ですから、第一の願いは、神をあがめることができなくなってしまった私たちが「自らの造り主なる神をただしく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちを神と共に生き、そうして神をほめ歌い賛美する」(問6)という創造の目的にかなって再創造されるための願いと言ってよいでしょう。
実際『信仰問答』は、この願いを次のように言い換えています。「第一に、わたしたちが、あなたを正しく知り、あなたの全能、知恵、善、正義、慈愛、真理を照らし出す、そのすべての御業において、あなたを聖なるお方とし、あがめ、讃美できるようにしてください、ということ」だと。
神を「正しく知る」とは、私たちが自分勝手に神について考えるのではなく、何よりもまず神の自己啓示である聖書によって神を正しく知ることです。そうして、次に、あらゆる御業に照らし出された神の「全能、知恵、善、正義、慈愛、真理」を正しく認識することです。
ちょうど芸術家の才能の発露である作品を人々が愛でて称賛するように、この世界や私たちの周りに現された驚くべき神の御業の数々を私たちが正しく認識したならば、神を賛美せずにはおれないでしょう。聖書には、そのような賛美の歌がたくさんあります(詩編145:1以下、エレミヤ32:16以下、ルカ1:46以下、68以下、等)。
第一の願いは、神をあがめることができなくなってしまった私たちが…
創造の目的にかなって再創造されるための願いと言ってよいでしょう。
宗教改革者のカルヴァンが『ジュネーヴ教会信仰問答』で、人生の主な目的は神を知ることであるが、真の正しい知識とは「神をあがめる目的で神を知る時ときである」と書いているとおりです(問1、6)。つまり、神を知るとは単なる知識ではなく、生ける神を人格的に知ることなのです。
このような神知識は、必ずや私たちを神への賛美と礼拝に導くはずですし、今度は私たち自身が神の栄光を照らし出すためにどうすればよいのかを考えさせずにはおれないことでしょう。それで『信仰問答』は「第二に、わたしたちが自分の生活のすべて、すなわち、その思いと言葉と行いを正して、あなたの御名がわたしたちのゆえに汚されることなく、かえってあがめられ讃美されるようにしてください」と加えているのです。
「父よ」と呼びかける“主の祈り”は、神の子供たちの祈りです。良くも悪しくも子供の言動によって親が評価されるように、私たち神の子供たちの言動によって人々は神を評価するとも限りません。もちろん、罪にまみれている私たちの言動が神の評判を高められるはずもなく、かえってこれを汚してしまう日々の現実を私たちは嘆くばかりです。
にもかかわらず、私たちは願うのです。日々祈るのです。私たちの生活のすべてを通して神があがめられますように(マタイ5:16)。食べるにも飲むにも何をするにも、ただ神の栄光を現すことができますように(1コリント10:31)。そのように私たち自身が変えられて行きますようにと。
神を知ることは、神を愛することです。神を賛美することは、私たちの喜びです。私たちが心を天に上げて祈るたびに、まずこのことを思い起こしましょう。そうして、この祈りを生涯続けて行く時、やがて主の御許へと迎えられる日に、私たちは愛する御父の御前で永遠に神を讃美する者へと変えられていることでありましょう。