主の祈りの冒頭の言葉
主イエスがお教えになった祈りの手本である“主の祈り”の冒頭の言葉は、原文では日本語の語順と違って「われらの父よ」です。もっと正確に言えば「父よ、われらの」となっていて、「父よ」と言う呼びかけの言葉から祈り始めるのです。信仰問答に教えられているとおり、「わたしたちの祈りのまさに冒頭において、わたしたちの祈りの土台となるべき神に対する子どものような畏れと信頼とを、わたしたちに思い起こさせようと」しているわけです。
乳飲み子が唇を合わせて最初に発声する言葉を――“パパ”であれ“ママ”であれ――親の呼び名にする例は数多くあります。イエスの時代のヘブライ(アラム)語における“アッバ=父”という言葉も同様です。幼子が“アッバ”と父親に呼びかけるように神に呼びかけなさいと、イエスはお教えになるのです。
つまり、イエスが教えられる祈りとは、何か型通りの言葉を呪文のように唱えることではなく「子どものような畏れと信頼」とをもって天の“御父”に語りかける人格的対話なのです。その場合の「畏れ」とは恐怖ではなく“御父”への畏敬の念であり(マラキ1:6)、「信頼」とは小さな私の声にも必ず耳を傾けて裏切ることはないという御父の愛と慈しみの確信です。そのような親子の間にある絶対的信頼関係が私たちの「祈りの土台」であり、それを祈りの冒頭において思い起こさねばならないというのです。
このような親しい神への呼びかけは、他に例を見ないものでした。通常のユダヤ人の祈りでは、長い修飾語の後に“神よ”と続くのが一般的だったからです。ところが、神の御子であられたイエスが御父に対して「アッバ、父よ」と呼びかけられたように(マルコ14:36)、キリスト者もまた「神がキリストを通してわたしたちの父となられ」たが故に“アッバ”“父ちゃん”と呼びかけなさいと勧められているのです(ガラテヤ4:6、ローマ8:15)。
そして、ちょうど「わたしたちの父親たちがわたしたちに地上のものを拒まないように、まして神は、わたしたちが信仰によってこの方に求めるものを拒もうと」なさいません(マタイ7:9-11)。ラテン語版では単純に“親たち”となっているように、父親であろうと母親であろうと(それがたとい悪い者であったとしても)我が子には良い物を与えるものならば、まして私たちが信頼をもって求めるものを天の御父が拒まれるはずがない。キリスト者の祈りとは、徹頭徹尾、そのような神との絶対的な信頼関係に基づくものだからです。
とりわけ、キリスト者の祈りにとって大切なことは、 知恵や賢さではなく、幼子のように御父を慕い信頼する心なのです。
他方で、しかし、地上の親のイメージで神を理解しようとすることには限界があります。キリストにあって私たちの“父”となってくださった方は、同時に“天”におられる父だからです。したがって「天にましますわれらの父よ」と呼びかける時には「神の天上の威厳については何か地上のことを思うことなく、その全能の御性質に対しては体と魂に必要なことすべてを期待する」ことが大切です。
私たちの御父は、天をも地をも満たしている(エレミヤ23:24)、天を王座とする(詩編2:4)、天地の主です(使徒17:24)。この方といったい誰を比べることができましょうか(詩編89:7)。
そのような御方が、御子キリストの故に私たちの神また父でもあることの恵みを、私たちはすでに“父なる神を信ず”という使徒信条の解説で学んだのでした。「わたしはこの方により頼んでいますので、この方が体と魂に必要なものすべてをわたしに備えてくださること、また、たとえこの涙の谷間へいかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを、信じて疑わないのです。なぜなら、この方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでもおられるからです」(問26)。
すなわち、私たちの祈りとは、そのように信じている神への語りかけに他ならないということです。私たちは、信じている方に対して、信じていることを祈るのです。信仰と祈祷とは表裏一体です。とりわけ、キリスト者の祈りにとって大切なことは、知恵や賢さではなく、幼子のように御父を慕い信頼する心なのです(ルカ10:21)。