祈りについての教え
『ハイデルベルク信仰問答』という、この小さい書物の学びも最後の部分になりました。あらゆる罪と「悲惨」からわたしを一方的な恵みによって救ってくださった、その神の「救い」に対して全生活を通して表す私たちの「感謝」のガイドブックが十戒でした。そして、その「感謝」の生活で最も重要な部分と言われるのが“祈り”についての教えです。
『信仰問答』は「なぜキリスト者には祈りが必要なのですか」という問いから始めます。“祈りとは何か”ではなく祈りの必要性を問う。これは大変ユニークな問いだと思います。実際、信徒の方から「神様がすべてを御存知なら、なぜ祈らなければならないのですか」と尋ねられることがあります。ひょっとすると『信仰問答』の著者たちも、同じような質問を教会で受けていたのかもしれません。
当時のヨーロッパで、信徒が自分の言葉で自由に祈ることはまずありませんでした。礼拝での祈りはラテン語の祈祷文で、信徒が自分で祈るとしても「アヴェ・マリヤ」や「主の祈り」を同じくラテン語で(呪文のように)唱えるだけだったことでしょう。ですから、自分の口で自由に祈ることなど思いもよらなかったに違いありません。
それだけに「祈りは、神がわたしたちにお求めになる感謝の最も重要な部分」だという答えには驚かされます。祈りの必要性や効用については、別の説明の仕方もあるでしょう。けれども『信仰問答』は、祈りを何よりもまず「神がわたしたちにお求めになる」ことだと言い、しかも「感謝の最も重要な部分」だと述べるのです。つまり、神に対する私たちの感謝の生活は、祈りを抜きにして考えることができないと言うわけです。
私たちは先に、神への感謝の生活で大切なことは十戒を完全に守ることができるかどうかよりも感謝の“心”だと学びましたが、実は祈りも同じことです。
神の救いは一方的かつ無条件の恵みですから、救われるために私たちがしなければならないことは、何一つありません。その代わり、神が私たちからお求めになることは感謝の言葉、すなわち“ありがとう”の一言(=祈り)だということです。“ただ恵みのみ”の救いに対する最もふさわしい応答は“ただ感謝のみ”なのです。
新約聖書の中には祈りを勧める言葉が満ちています。
主イエス・キリストを通して、今や神が私たちの父となってくださったからです。
『信仰問答』はさらに「神が御自分の恵みと聖霊とを与えようとなさるのは、心からの呻きをもって絶えずそれらをこの方に請い求め、それらに対してこの方に感謝する人々に対してだけ」だとも述べています。「心からの呻き」とは“涸れた谷に鹿が水を求めるように”と詩人が表現したような、神に対する渇いた魂の切なる求めのことです(詩編42:2、ローマ8:26も参照)。
子供が必死に叫び求めている願いを、親が無視することはありません。親には親の事情がありますから、その時すぐに応えられるかどうかはわかりません。また、すぐに応えない方が良いこともあるでしょう。けれども、無視することはありえません。まして親からのプレゼントにいつも大喜びをする子なら、なおさらその子を喜ばせてあげようと考えることでしょう。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と主イエスは強く勧めておられます(マタイ7:7)。「得られないのは、願い求めないから」(ヤコブ4:2)。「絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(1テサロニケ5:17-18)等々、とりわけ新約聖書には祈りを勧める言葉が満ちています。なぜなら、主イエス・キリストによって、今や神が私たちの父となってくださったからです(ガラテヤ4:6-7)。
この天の父は、子供たちからの願いを心待ちにしておられる方です。その富は無尽蔵です。私たちの救いのために御子イエスをくださったばかりでなく、御自身の聖霊さえもくださろうと言うのですから(ローマ8:32、ルカ11:13)。
それ故「時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4:16)。そのような祈りの生活を通して、いっそう深い神の恵みを味わい、感謝と喜びの生活を歩んでまいりましょう。