神の名とは
キリスト者の感謝の生活のガイドラインである十戒の第三戒は「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めです。神の名ということが、この戒めの中心です。
昔、エジプトで苦しい生活を送っていたイスラエル人を救うため神がモーセをお遣わしになった時、「お前を遣わした神の名は何か」と問われたら何と答えましょうと、モーセは神に尋ねました。エジプトには、無数の神々の名があったからです。
すると神は「わたしはある。わたしはあるという者だ」とお答えになりました(出エジプト3:14)。これは、神が“存在の根拠・在らしめる者・生きている者”であるという、いずれにも理解できる名です。いずれにせよ、おそらくはこの「わたしはある」という言葉が元になって、ヘブライ語のYHWH(日本語では「主」)という神の名が用いられるようになったのではないかと思われます。
ところが、その後の歴史の中で、人々が神の名を冒涜することを恐れてこの単語を発音しなくなったために、読み方がわからなくなってしまったという経緯があります(今日では“ヤーウェ”と発音するのではないかと言われています)。
しかし、神が御自分の名前をお知らせになったのは、私たちが口にしないためではありません。もしそうなら、初めから知らせること自体を拒んだはずです。そうではなく、むしろ私たちが神の名を用いるためにこそ知らせてくださったのです。
ですから、第三戒が禁じているのは、神の名を用いること自体でなく「みだりに」唱えること、すなわち「わたしたちが、呪いや偽りの誓いによってのみならず、不必要な誓約によっても、神の御名を冒涜または乱用する」ようなことです。
『信仰問答』の十戒の解説は、時に詳しすぎるところがありますが、この第三戒もその一つです。これは当時のヨーロッパがキリスト教社会であったために、日常生活のすべてが神と切り離せない関係にあったからです。しかも罪深い人間社会ゆえ、悪口や汚い言葉を吐く時に神の名が引き合いに出されるなど、神の名が誤用・乱用される機会が実際に多かったのです。
こうした悪い習慣は容易に日常生活に入り込んで定着し、そのうち人々は何も感じなくなって慣れてしまいます。「黙認や傍観によってもそのような恐るべき罪に関与しない」とわざわざ警告されているのはそのためです。
第三戒が問題にしているのは、神の名の乱用に表れる、
見えない神に対する私たちの心の姿勢なのです。
しかし、そもそも、なぜ神の名の乱用がそんなにも重い罪なのでしょう(問100)。
それは、ちょうど第二戒が真の神を偶像に変えてしまうことの愚かさと過ちを戒めたように、神の名の冒涜は神御自身をないがしろにする行為に他ならないからです。
本人がその場にいようがいまいが、その人に対する敬意があるならば、その名前をいい加減に用いることはしないでしょう。逆に、その人がいないのをいいことに名前を出して悪口を言うことは、単に名前だけの問題ではなく、その人に対する敬意がないことの証しです。つまり、第三戒が問題にしているのは、神の名の乱用に表れる、見えない神に対する私たちの心の姿勢なのです。
すでに述べたように、神の名前についてのこの戒めは、私たちの日常生活に極めて深く関わる戒めです。逆に言えば、神の名とは、それほど身近なものとして私たちの生活に関係すべきものなのです。大切なのは、その名前を私たちが正しく喜ばしく感謝をもって用いることです。
「要するに、わたしたちが畏れと敬虔によらないでは神の聖なる御名を用いない、ということです。それは、この方がわたしたちによって正しく告白され、呼びかけられ、わたしたちのすべての言葉と行いとによって讃えられるためです」。
私たちの生活のどの場面にも神はおられます。神はいつでもどこでも“在る”御方だからです。苦難の日には主の御名を呼び求め(詩編50:14-15)、何を話すにせよ行うにせよ、すべてを主イエスの名によって感謝する(コロサイ3:17)。
その意味で、この戒めは、全生活を感謝の生活として捧げるために不可欠な戒めと言えるでしょう。