神の僕
ー ローマ書6:15ー23 -
[インマヌエル 下巻.8-16]
[ローマ書6:22-23] 「22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
1. 罪の奴隷からの解放
(1) 罪の奴隷から解放された理由
「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」(ローマ書6:16)
① 従順の奴隷となって義に至るため
(2) 罪の奴隷から義の奴隷へと移された目的
「17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」 (ローマ書6:17-18)
①すべての栄光を神に帰し、神に感謝するため
②義の奴隷となり、伝えられた教えの模範を心から従順に守るため
2. 律法から解放されたキリスト者
◎霊的な事柄を理解するのに鈍感な人々へ、当時よく知られた奴隷制度を例に説明する。(ローマ書6:19)
(1) キリスト者には自由が加えられる。
① すべてのものから完全に自由になったわけではない。
② 仕える主人が変わっただけである。神の僕として生きる。
(2) キリスト者とは、使徒的教えの模範に従う者である。
(3) キリスト者は、義の僕として生きる者となった。
(4) キリスト者の以前と今は比較される。
① 以前は不法(罪)の奴隷であった。
② 今は義の奴隷である。-神中心の生活、自己否定的生活へと向かう。
3. 罪の奴隷の生活と神の奴隷の生活
(1) 罪の奴隷(しもべ)の生活は、
「20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。」(ローマ書6:20-21)
① 義の要求に対する無関心、無感覚の生活である。
② その結末は死である。
③ この死は、神からの完全な見捨てを含む永遠の死を意味する。
この地上の生涯を終える死をもって、すべてが終わるわけではない。
(2) 神のしもべの生活は、
「今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」(ローマ書6:22)
① これからは、恥ずべき実の代わりに、聖なるものに至る実を結ぶ。
② その結末は永遠の命である。
4. 私たちの前に立つ二人の主人
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ書6:23)
(1) 罪の主人に仕える時、どのような報酬を受けるか?
① それは死という報酬だけである。
(2) 神という新しい主人に仕える時、何を得るか?
① 神の賜物である主イエス・キリストにある永遠の命が与えられる。
*** 罪は死の罰を当然のものとして受ける。神の賜物は、神が一方的に与える贈り物である永遠の命、すなわち不滅の命である。
私たちはただ神に仕えることによって、神の賜物であるキリストにある永遠のいのちを得なければならない。
◈ 罪の結果
神はアダムに善悪の知識の木の実を取って食べてはならないと命じられた。「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。(創世記2:17)」という御言葉も共に告げられた。
アダムが善悪の知識の木の実を取って食べた時、彼は罪を犯した。その結果、彼はエデンの園から追放され、時が経って肉体的に死に、彼の子孫たちも肉体的に死ぬことになった。さらに重要な事実は、アダムが罪を犯し、神から離れる時、霊的な死を経験したということである。例えば、ローマ書6:23には「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」と記されている。
