聖餐式について2
聖餐式は、この礼典をお定めになった主イエスの制定の御言葉を読んで始まります。その言葉は、福音書に記されている有名な最後の晩餐席上でのイエスの言葉ですが、使徒パウロはそれを「コリントの信徒への手紙一」の中でも繰り返しています(11:23-26)。つまり、晩餐において主イエスがなさった約束は、ただ一度限りの言葉ではなく、聖餐式の度に心に刻むべき言葉であるということです。
“最後の晩餐”と呼ばれるイエスと弟子たちとの食事自体はユダヤの過越祭の食事であり、弟子たちにしてもまさかお別れの食事になるとは思ってもみませんでした。ですから、イエスがパンを「わたしの肉」杯を「わたしの血」とお呼びになった真意をほとんど理解できなかったことでしょう。やがてイエスが十字架におかかりになり、復活や昇天という出来事が起こった後に、弟子たちに聖霊が与えられて初めてあの時の食事の意味を悟るに至ったのです。
キリスト者にとってこの食卓は決して“最後の晩餐”ではなく・・・、
神の国の完成の日を待ち望みながら味わう天国の祝宴の前味なのです。
「十字架につけられたキリストの体を食べ、その流された血を飲む」(問76)という少々グロテスクな表現が表そうとしている意味は三つです。
第一に「キリストのすべての苦難と死とを、信仰の心をもって受け入れ、それによって罪の赦しと永遠の命とをいただく、ということ」。ちょうど小羊の犠牲による過越祭の食事が神の民イスラエルにとって苦難からの解放と救いを意味していたように、聖餐式はキリスト者にとって神の小羊イエス・キリストの犠牲による完全な「罪の赦しと永遠の命」にあずかることを意味します。
そのイエスの救いを受け取る手が「信仰の心」です。聖餐式には信者のみがあずかりますが、それは他の方に対して意地悪をしているわけではありませんし、たとい未信者の方が口にしたところで毒にも薬にもなりません。小さなパンと杯を飲み食いしたところで何になりましょう。ところが、十字架の主イエスを慕いまつる心を持つ人にとっては、あの小さな食事こそが感謝に満ちた救いの食卓なのです。ですから、聖餐式にはどうしてもこの「信仰の心」が求められます。
第二に、聖餐式は「キリストのうちにもわたしたちのうちにも住んでおられる聖霊によって、その祝福された御体といよいよ一つにされてゆく」ことを意味します。主イエスの体と血を受けることによって、霊的な意味でキリストと一つになってゆくということです。主イエスは今「祝福された御体(=復活の体)」においては天におられますが、霊においては片時も私たちから離れておられません(問47参照)。聖餐式はそのことを確かめる場です。目の前のパンと杯をいただくことを通して、私たちが霊的には主イエスといつも一つだということを確信するのです。
それは「この方が天におられわたしたちは地にいるにもかかわらず、わたしたちがこの方の肉の肉、骨の骨となり…、わたしたちが一つの御霊によって永遠に生かされまた支配されるため」です。
その昔、神が男のために女を造られた時、男は“これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉”と叫びました(創世記2:23)。これ以上の連れ合いはいないという歓喜の叫びです。パウロはキリストと教会との関係を夫と花嫁になぞらえましたが、両者の関係はまさにそのような“骨肉”の関係、否、それ以上です。キリストを信じる者の内に働くこの方の霊が私たちの体を言わば御自分の体としておられるほどに、キリストと私たちは一心同体だからです。それ故、聖餐式はたんに私たち一人一人と主イエスとの一体性を表すだけでなく、キリストの霊に生かされる教会の一体性をも表しています(1コリント10:16-17)。
天におられた方が肉体をとって地にお降りになり、この方の体にあずかる私たちが天のものとされる。聖餐式は、まさに天と地とをつなぐ食事とも言えましょう。聖餐式を通して私たちは、今も生きておられる主イエスの命に育まれつつ“新しい人”へと造り変えられて行きます。
ですから、キリスト者にとってこの食卓は決して“最後の晩餐”ではなく、やがてキリストと完全に一つとなる神の国の完成の日を待ち望みながら味わう天国の祝宴の前味なのです。
http://www.jesus-web.org/heidelberg/heidel_076-077.htm