イエス・キリストの死と葬り
人間にはただ一度死ぬことと、死後裁きを受けることが定まっています(ヘブライ9:27)。ですから、人間イエスが死なれたこと自体には何の不思議もありません。問題は、なぜ「キリスト」が、「神の御子」である御方が死を苦しまねばならなかったのかという点です。
キリスト教の初期の時代、神の御子が苦しむはずはないと考える人々がいました。イエスの体は真の肉体ではなく、それ故、苦しむことも死ぬこともなかったと。御子の神性を重んじるばかり、死を否定する人たちがいたのです。しかし、聖書ははっきりと「死んだ」と告げています(ヘブライ2:9)。そればかりか「神の御子の死による以外には、わたしたちの罪を償うことができなかった」のです。
神に対する完全な罪の償いを成し遂げるためにはどうしても「まことの神であると同時にまことの人間でもある」方の犠牲が必要でした(問18)。決して悪を許さない神の義と、どこまでも罪人を赦して救おうとする神の愛の真実が貫かれねばならない。そのような「神の義と真実」が交差する所、それが十字架なのでした。
この十字架上で息絶えたイエスのわき腹をローマの兵士が槍で刺したと、福音書は記しています(ヨハネ19:34)。これで死を確証したわけです。それと同様のことが、“葬り”にもあてはまります。イエスが葬られたのは「それによって、この方が本当に死なれたということを証しするため」だからです(問41)。
しかし、イエスの葬りにはそのような面ばかりでなく、もう少し積極的な意味もあるように思います。これまで学んできたように、イエスの御生涯はそのすべてが私たちのためであったからです。苦しみ死んだ救い主は、私たちの苦しみと死を死なれました。そうであれば葬りもまた同様です。
このことはキリスト教の葬儀によく表れます。昔から死や葬りは穢(けが)れとされましたから、神に仕える者にとって死や葬りはしばしばタブーでした。しかし、教会の牧師は闘病にも臨終にも葬りにもすべて関わります。単にそれが仕事だからなのではなく、イエスが私たちのすべてに寄り添ってくださる救い主だからです。「陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます」(詩編139:8)。
キリスト者にとっての死は、悲しみでは終わりません。
それは、罪との訣別であり、天国への凱旋の時です。
しかし「キリストがわたしたちのために死んでくださったのなら、どうしてわたしたちも死ななければならない」のでしょう。
イエス・キリストの受難と死と葬りが私たちの“身代わり”であるならば、なぜ私たちも同じことを味わわねばならないのか。
問42は素朴ですが実に深い問いを投げかけます。
答えは『ハイデルベルク信仰問答』の中でも最も有名な答えの一つです。「わたしたちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、むしろ罪の死滅であり、永遠の命への入口なのです」。私たちの罪の償いは、すでにイエスの確かな死が成し遂げてくださいました。それなら、私たちの死に何の意味があるのでしょうか。
それは第一に「罪の死滅」だということです。キリスト者の死は、もはや罪の刑罰としての死ではありません。むしろ罪との戦いの終焉です。死の瞬間に、一切の罪から私たちは解放されるのです(ローマ6:7)。
第二に、それは「永遠の命への入り口」です。死んで初めて、イエス・キリストとの命を味わうということではありません。私が主イエスのものとされた時から、永遠の命はもうすでに私の内に脈打っています(ヨハネ5:24)。ただ罪との戦いが残っているために、それを実感できないだけです。けれども、死の瞬間に罪から解放される時、私たちは永遠の命の輝きを鮮やかに見て取ることでしょう。私が確かに主イエスと結ばれていたという事実をはっきりと目にすることでしょう。それが「入口」ということの意味です。
ですから、キリスト者にとっての死は、悲しみでは終わりません。それは、罪との訣別であり、天国への凱旋の時です。今や一切の苦しみから解放され、主イエスの愛に包まれて、先に召された聖徒たちと共に永遠に憩うのです。それは行方も知れずに漂うような死とは根本的に異なる、確かな喜びの瞬間なのです!