「永遠の命」とは
罪と悲惨の状態に転落してしまった人間が再び救われるために信ずべきこと、それは三位一体の神が私たちのために成し遂げてくださった御業の数々でした。それらの信仰箇条の最後にあるのが「永遠の命」という箇条です。聖書が約束している神の救いのゴールと言ってもよいでしょう。
ところが、聖書の言う「永遠の命」は、私たちが普通に抱くイメージとはずいぶん違っているようです。十字架にかかる前の晩に捧げられた祈りの冒頭で、主イエスは自らの死によって今や多くの人々に永遠の命を与える時が来たことを告げています。そして、天の御父に向かってこう祈られるのです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)。
聖書が告げる永遠の命とは、ただ永遠に生き続ける命ということではありません。時間の長さではなく「命」の質が問題なのです。何も考えずにただダラダラと生きて行くのと余命の限界を知りつつ生きる日々とでは、時間の濃密さが違うことでしょう。大切な人や愛する人と共に過ごす一日が、その人無しで過ごす何年分にも優るということがあるのではないでしょうか。聖書が教える「永遠」とは、そのような命の質に関わることなのです。
罪と悲惨の中を何千年生きたとしても、それはひたすら生き地獄でありましょう。しかし、たとい短い生涯でも本当に自分を愛して止まない方と共に生きることができたとしたら、それは永遠の価値を持つ年月だったと言えないでしょうか。
事実、聖書は、こんなちっぽけな私たちを愛して救いの御計画を立ててくださった神と、それを命がけで実現してくださった独り子なる神が共にいてくださると証言しています。だからこそ主イエスは、この方を知ること、この方によって自分が愛されていることを知ることが永遠の命なのだとおっしゃるのです。永遠の神の愛の内を、文字通り永遠に生きて行くことです。
したがって聖書は、イエスを信じて神の救いに与る者は「今」すでに永遠の命を受けていると断言します(ヨハネ3:36)。やがて天国に行ってからというのではない、苦しみの尽きない地上の歩みのただ中で、すでに永遠の命を生きていると言うのです。
たとい目には見えなくとも、キリストを愛する人々の中では本当に麗しいキリストとの交わりが始まっています。そこに喜びがあふれます(1ペトロ1:8)。愛する者との交わりだからです。「永遠の喜びの始まり」というのはそういうことです。
聖書が告げる永遠の命とは、ただ永遠に生き続ける命ということではありません。時間の長さではなく「命」の質が問題なのです。
興味深いことにラテン語版『信仰問答』では「喜び」が「命」となっています。ドイツ語原文は逆に命を喜びと表現しているわけです。なるほど、聖書における命とは喜びを伴うものです。逆に言えば、喜びのない命を命とは呼ばない。それは死に他なりません。聖書が約束する命は喜びを伴います。それは、愛される喜びであり愛する喜びです。人の命は真に愛され真に愛することによって輝くからです。
この「永遠の喜びの始まり」は、やがて終りの日に「目が見もせず耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福」に至ります。これが、私たちの救いの完成です。
イエス・キリストに結び合わされて生きる者となっただけでも嬉しいことです。罪深く惨めな今までの人生ではなく、神に赦され愛されて、救われている人生を生きることは何と大きな慰めであり喜びであろうかと思います。しかし、それで終わりなのではない。今見ていない方をやがてこの目ではっきりと見るようになる。想像を絶する神との完全な交わり・祝福・喜びの中に憩う日が来ると、聖書は約束しています。
そのような「完全な祝福」を人間に与えること、それが神の救いの御計画のゴールであり人間創造の目的なのでした(問6参照)。この祝福のために歴史と宇宙は導かれ、そのために神は御自分の独り子をさえ惜しまずに与えられたのです。
その日、私たちはこの驚くべき神を「永遠にほめたたえる」者となります。その日に至るまで、私たちはその喜びの始まりを心に感じつつ「永遠の命の相続人」としてこの世を生きて行くのです。