キリストの教会について1


 今日「教会」と言えば、ほぼ間違いなくキリスト教会を指すほど一般的になった言葉ですが、元のギリシャ語「エクレシア」には“教える”会という意味はありません。“呼び出された人々/召集された人々”というのが本来の意味です。「神の御子」が「全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れ」、それが教会です(エフェソ1:3-14)。

 けれどもそれは、特別に優れている人々の集まりなのではありません。教会とは、むしろ「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と言う御声に応えた罪人の群れです(マタイ11:28)。私たちを救うために御自分の命さえも犠牲にされた良い羊飼い・キリストの御声に導かれる羊の群れなのです(ヨハネ10:1-18)。

 教会が「聖」と言われるのは、主イエスが「御自分の御霊と御言葉」によって働いておられる場所だからです。また「公同の(カトリック)」と言われるのは、主がこの群れをあらゆる人々・時代・場所からお集めになるからです。キリストの教会は、あらゆるボーダーを超えて広がり行く神の国の見える姿なのです(黙示録5:9)。

 主イエスの霊と言葉によって集められた群れは、同じく主の霊と言葉によって成長させられます(1ペトロ2:2)。たんに気が合うからとか趣味が合うからなのではなく、教会の中心におられる生けるキリストに対する「まことの信仰の一致において」集められ・守られ・保たれる群れです。

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 このようなキリストの教会は「世の初めから終わりまで」集められ・守られ・保たれると言われます。アダムとエバが創造された時から、アブラハム・イサク・ヤコブの時代、イスラエルの民の歴史を通して、キリストの教会は存在し続けてきました。

 よく誤解されるように、ペンテコステの日を境にキリスト教会が誕生したのではありません。旧約の民たちもまたキリストの教会です。ただ彼らはキリストという御方がどのような御方であるかを具体的に知らなかったために、はるかにそれを望み見て喜びにあふれた民なのでした(ヨハネ8:56、ヘブライ11:13)。それに対して新約の民は、今や救いを実現された信仰の創始者であり完成者であるイエスをしっかりと見つめながら、言葉に尽くせない喜びに生きる民なのです(ヘブライ12:2、1ペトロ1:8)。

 私たちを愛してやまない主イエスが、今日もなお御自分の教会を集め・守り・保ってくださる。

 『信仰問答』は、教会について解説しただけで終わっていません。キリストの教会がどんなにすばらしい所であるかを理解したところで、それが私にとって益になるわけではないからです。大切なことは、この罪深い「わたしがその群れの生きた部分」とされ、しかも「永遠にそうあり続ける」という事実を信じることです。

 主イエス・キリストは、御自分をぶどうの木にたとえられて、こう言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:5)。教会につながるとは、こういうことです。洗礼を受け・告白をし・教会のメンバーになるというのは、単に末席を汚す者となったということではなく、キリストの命に与る者になる。私の内にもキリストの命が通い、しかも永遠にその命に留まる者とされたということです。

 パウロが「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」と感極まって叫んでいるのは、実にこのつながりのことです(ロマ8:39)。私たちが強いからではなくキリストが強いからです。私が自分の力でつながっているからではなく、神の御子が私をつかんでおられるからこそ引き離されないのです。

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 「聖なる公同の教会」を信ずる信仰は、父・子・聖霊を信ずる信仰とは違います。罪人の集まりである地上の教会を神と同じように信頼することは、残念ながらできません。牧師や教会の言動が常に正しいとも限りません。それにもかかわらず、私たちは教会を信じます。キリストの教会の内にキリスト御自身が働いておられるからです。私たちを愛してやまない主イエスが、今日もなお御自分の教会を集め・守り・保ってくださる。このキリストの御業を、私たちは信ずるのです(問31・51も参照)。


http://www.jesus-web.org/heidelberg/heidel_054.htm