「神の右」にとはどんな意味
イエスが天に昇られてからまもなく、弟子たちに聖霊が降りました。ペンテコステの出来事です。あの臆病者だったペトロが11人の弟子たちと共に立ち上がり、大声でイエスのことを次のように説教しました。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました」(使徒2:32-33)。興味深いのは、なぜペトロはイエスが神の“右”に上げられたと言っているのかという点です。
実は、この場合の“右”とは、文字通り神の“右側”ということではありません。霊であられる神に右も左もないからです。「右に座したまえり」とは、王の代わりに全権を委任されて采配をふるう代理者となられたということです(詩編110:1-2参照)。天に昇るだけなら、旧約聖書のエリヤの例もあるでしょう。しかし、神の右に着座されたのはキリストだけです。この方が今や天地の全権を持って万物を御支配しておられる。「この方によって御父は万物を統治」しておられる(エフェソ1:20-21)。これが聖書の信仰です。
見ず知らずの神の支配によってたまたま運が良かったとか悪かったとかいうのではない。私を愛してやまないキリストが全能の支配者また私たち「キリスト教会の頭」であられるのだから、たとい何が起ころうとも万事は益となる。この信仰が、イエスの弟子たちにこの世を超えて生きる力を与えました。
実際、教会はこのお方が満ち満ちている所です(エフェソ1:23)。頭である方が「御自身の聖霊を通して、御自身の部分であるわたしたちのうちに天からの諸々の賜物を注ぎ込んでくださる」からです。単に天から恵みをポンと投げ落すのではなく、ちょうど温かな命が全身の節々を生かしているように、キリストの諸々の恵みがカラカラに乾いた私たち一人一人の魂や生活を潤してくださるというのです。
この恵みを私たちは様々なかたちで実感することもあるでしょう(ヘブライ2:4)。しかし、何よりも私たち罪人が主イエスを信じるようになり・愛するようになり・希望をもって生きるようになること、そのこと自体が奇跡であり、主イエス・キリストから注がれた恵みの証に他なりません。
イースターからペンテコステに至る出来事は、
クリスマスにまさる喜びを与えるものなのです。
教会の頭として御自身の体の諸部分に恵みを注いでくださるキリストは、同時に、「その御力によってすべての敵から守り支えて」もくださいます(問31参照)。万物の主権を持っておられる方は、御自分の羊たちをあらゆる敵から守ることがおできになります(ヨハネ10:28-29)。このことは、苦難が無くなるということではありません。しかし、私たちの羊飼いは、既に世に勝っておられる方なのです(ヨハネ16:33)。
時に主は、私たちを守るために地上から取り去ることさえあります。キリスト者の死は、御自身の御元へと召してくださる神の愛のしるしでもあるからです。キリスト教最初の殉教者となったステファノは死の直前、神の右に立っているイエスを目にしました(使徒7:55-56)。キリストはあぐらをかいて座っている方ではありません。私たちが苦しむ時には身を乗り出してまで守り支えようとなさる方です。そのような全能の統治者こそが、私たちの主イエスです。
ヨーロッパなどにある古い教会堂の天井に大きなキリスト像が描かれているのを御覧になったことがあるでしょうか。これはパントクラトール(全能者キリスト)と呼ばれる図像で、キリストが全宇宙を支配しておられることを表しています。キリスト教がかつてローマ帝国によって迫害されていた時、キリスト者たちはこの世の為政者の背後に自分たちの主が君臨しておられることを知っていました。どんなに苦しみが深くとも、なお全能のキリストがこの世界と宇宙を支配したもう「王の王、主の主」(黙示19:11-16)であると信じて疑わなかった、その信仰の表出と言えましょう。
キリストが私たちのために弱く貧しくなられたことは、深い慰めです。けれども、同じキリストが今や天上の支配者となっておられるとの確信は、何と力強い希望の力をもたらすことでしょう。イースターからペンテコステに至る出来事は、クリスマスにまさる喜びを与えるものなのです。