聖餐式について1
主イエス・キリストが教会にお与えくださったもう一つの礼典である聖餐式について、しばらく学んでいきましょう。プロテスタント教会では、聖餐式・聖晩餐・主の晩餐・主の食卓など様々な呼称が用いられていますが、すべて同じ儀式を指しています(本解説では一般に広く用いられている「聖餐式」または「聖餐」という言い方を用います)。また、儀式の形式も必ずしも統一されていません。教会ごとに様々な形式があります。これは、プロテスタント教会が儀式の形式そのものよりもその意味を重んじているためです。
さて、ちょうどキリスト教会の礼典が洗礼と聖餐でワンセットになっているように、『信仰問答』は洗礼についての問答と同じような流れで聖餐についての問答を進めています。少々長い答えが続きますが、なるべく簡潔に要点だけを解説して行くことにします。
最初の問いは「聖晩餐において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲…を、どのように思い起こしまた確信させられる」のかということです。この問い自身にすでに聖餐式の意味が教えられています。つまり、聖餐式の食事は食べること自体に意味があるというよりは、まずは「思い起こしまた確信」するための食事だということです。それは、キリスト御自身を「記念する」ために定められた食事なのです。
私は、職業柄、通夜(前夜)式の後や火葬場での食事、あるいは記念会などの食事にあずかることがあります。このような食事は、ただお腹を満たすだけの食事とは違います。共に食しながら故人を思い出し語り合うことが大切だからです。聖餐式は、それに似ています。
興味深いことは、そのような食事を守るようにと主イエス御自身がすでに生前からお命じになっていたことです。しかもそうすることが「わたしとすべての信徒」たちのためになるからという理由なのです。
聖餐の品々は…実際に食べ飲むためにあります。それは、御自分の命によって
信徒たちすべてを養おうとなさる主イエスの愛の食卓だからです。
それは、第一に「この方の体が確かにわたしのために十字架上でささげられ…、その血がわたしのために流された、ということ。それは、主のパンがわたしのために裂かれ、杯がわたしのために分け与えられるのを、わたしが目の当たりにしているのと同様に確実である、ということ」を悟るためです。
聖餐のパンと杯を通して思い起こすべき第一のことは、それらが「わたしのため」に備えられた食事だということです。十字架上で成し遂げられたイエス・キリストの救いは、何か遠い昔の物語でもはるか天上にあるのでもなくて、ただ「わたしのために」あるということです。まるで親の形見が子供一人一人に用意されていたように、イエスは御自分の救いを私たち一人一人に用意してくださいました。私たちはまず、それを自分の目でしっかりと見るのです。
第二に、主イエスが備えてくださった聖餐にあずかりながら思い起こすことは「この方御自身が、その十字架につけられた体と流された血とをもって、確かに永遠の命へとわたしの魂を養い、また潤してくださる、ということ。それは、キリストの体と血との確かなしるしとしてわたしに与えられた主のパンと杯とを、わたしが奉仕者の手から受けまた実際に食べるのと同様に確実である、ということ」です。
宗教改革の昔、聖餐の礼典は信徒のあずかり知れない神秘的な食事でした。信徒は謎めいたラテン語の言葉と共に渡されるパンだけを恭しくいただき、杯にはあずからせてもらえませんでした。誤ってそれをこぼす恐れがあったからです。
しかし、改革者たちはそれに強く反対しました。主イエスは決してパンだけでよいとはおっしゃらなかった。パンも杯も、御自分の体も血もすべてを私たちに与えようとおっしゃったからです。聖餐の品々は飾るためでも拝む対象でもなく、実際に食べ飲むためにあります。それは、御自分の命によって信徒たちすべてを養おうとなさる主イエスの愛の食卓だからです。
聖餐式を通して私たちは、私のために十字架におかかりくださった主イエスの過去を思い起こすのみならず、その同じ主が今も生きておられ、私たち一人一人を愛して永遠の命へと養い続けておられるという驚くべき奇跡を味わい知るのです。