神の御計画(御心)
- エレミヤ書29:10-13 -
シャローム宣教会
[エレミヤ書29:10-13]「10. まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。11.わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ。―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。12.あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。13.もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」
序言
[イザヤ書55:8-9]「8.わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。9.天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」
[ルカ福音書22:41-42]「41. そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。42.父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
1。本文には、バビロン捕囚の民に対する神のご計画(御心)が記されています。
本文の「バビロンに七十年の満ちるころ」とは、神の計画的時点からすればヨシヤ王が死んだ年から数えるとちょうど七十年なのです。バビロンでのユダの民に対する神のご計画は自分の代だけでは終わらない、世代を越えた取り組みなのです。
(1) 第一の神のご計画はエレミヤ書29章5節に記されています。
[エレミヤ書29:5]「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。」
+ バビロンの繁栄のために祈り、そこで、腰を据えて生活すること [本文、10節]
この第一の計画が必ずしも捕囚の人々に受け入れられたわけではありません。決して前途は絶望的ではないとしても、「そんな長い期間?」と驚く者たちもいたに違いありません。しかし七十年の辛抱が必要なのです。そのことを信じて辛抱強く、期待して待つことが求められました。5節に記されている日常的な行為はすべて神の視点から見るなら、重要な霊的啓示が隠されています。積極的な動詞に注目しましょう。
本文、10節には「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。」とあります。
「幸いな約束」は原文では「良いことば」です。それは「わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」と主は言われました。
試験の日は恵みの日でもあるのです。危機は転機でもあるのです。失敗は新しい段階へのスタートなのです。それゆえ彼らはそのことを受け入れて、さらにバビロンの繁栄(シャローム)のために祈り、そこで日常的な生活を勤勉に続けることが求められました。
+「将来と希望」について:
10節の「七十年の満ちるころ」というその期間、捕囚とされた民が何に取り組むべきかが、主の言われる「将来と希望」につながります。エレミヤ31章17節にも「あなたの将来には望みがある。―主の御告げ。― あなたの子らは自分の国に帰って来る。」とあります。
「将来」と訳されたヘブル語は名詞の「アハリート」(אַחֲרִית)です。「終わり、後に、~の末、最期」と訳されます。エレミヤ書では10回使われていますが、「将来」と訳されるのは「希望」という言葉と一体となっている場合のみです(2回ー29:11/31:17)。
(2) 第二の神のご計画はエレミヤ書29章12-13節に記されています。
+ 心を尽くして、主を尋ね求めること [本文、12-13節]
[エレミヤ書29:12-13]「12.あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。13.もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」
= もし、あなたが、「~するなら」、「~なる」とい定式で語られています。
- 12節「呼び求めて歩き、祈るなら」-「わたしはあなたがたに聞こう」
- 13節「心を尽くして、・・捜し求めるなら」-「わたしは見つけられる」
2。聖書には、教会の聖徒に対する神のご計画(御心)が記されています。
+ ヨハネ福音書に記されている「神の御心」とは、
[ヨハネ福音書4:34]「イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」
[ヨハネ福音書5:30]「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。」
[ヨハネ福音書6:38]「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。」
[ヨハネ福音書6:39]「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。」
[ヨハネ福音書6:40]「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」
[ヨハネ福音書6:65]「そしてイエスは言われた。それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」
[ヨハネ福音書7:17]「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」
[ヨハネ福音書8:29]「わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」
[ヨハネ福音書9:31]「神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。」
結言
[ルカ福音書2:13-14]「13.すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。14.いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
[ヨハネの第一5:14]「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」