聖餐式について3


 聖餐式は「わたしの記念としてこのように行いなさい」(1コリント11:24)と、主イエスがお命じになった儀式です。しかし、それをどのように理解するかは、必ずしも一様ではありません。この問78では、様々に生じた誤解の一つを扱っています。「それでは、パンとブドウ酒がキリストの体と血そのものになるのですか」。イエスがおっしゃった言葉を文字通り取るという誤りです。

 キリスト教が急速に広まった古代ローマ帝国では、キリスト教をよく思わない人々が“彼らは隠れて人肉を食べている”と噂したと言われます。キリストの肉と血を飲み食いすると言っていたからです。また、同じキリスト教でもローマ・カトリック教会には、ミサの中でパンとブドウ酒がキリストの体と血に“変化”するという教えがあります。これは“実体変化”という非常に高度な神学上の教義で、パンとブドウ酒の目に見える変化ではなく“実体”が変化するという教えです。

 これに対してプロテスタント教会では、そのような理解しがたいことを言う必要はなく、聖書が言っていることを単純に理解すればよいと主張しました。「洗礼の水は、キリストの血に変わるのでも罪の洗い清めそのものになるのでもなく、ただその神聖なしるしまた保証にすぎません。そのように、晩餐の聖なるパンもまたキリストの体そのものになるわけではなく、ただ礼典の性格と方法に従ってキリストの体と呼ばれているのです」。

     聖餐式で私たち一人一人に差し出されるパンと杯は、
                   キリストの御生涯のすべてに他なりません。

 聖餐式で使うのはごく普通のパンであり普通のブドウ酒(またはブドウジュース)です。しかし、たとい同じ食物でも、道端で飲み食いするのと特別な器で特別な食事の席で食べるのとでは意味が異なるように、主イエスの命にあずかるという「礼典の性格と方法に従って」それらはキリストの体また血と呼ばれるのです。

 しかし、そんな何の変哲もないものを、なぜわざわざ御自分の体や血とおっしゃる必要があったのか。それが次の問いです。それにはちゃんと理由があると信仰問答は答えます。第一に「ちょうどパンとブドウ酒がわたしたちのこの世の命を支えるように、十字架につけられたその体と流された血とが、永遠の命のために、わたしたちの魂のまことの食べ物また飲み物になるということを、この方はわたしたちに教えようとしておられる」からです。パンとブドウ酒は、当時の人々の日々の命を支える基本要素でした。つまり、聖餐式は、私たちの魂をキリストという“糧”によって永遠の命へと養う食事だということです。

 第二に、聖餐式を通して、私たちが確信させられるのは「わたしたちが、これらの聖なるしるしをこの方の記念として肉の口をもって受けるのと同様に現実に、聖霊のお働きによって、そのまことの体と血とにあずかっているということ」です。
 子どもたちが草や石でママゴトをする時には食べるマネをするだけで、本当には食べません。ところが、聖餐式では礼拝の中で本当に飲食します(傍から見れば不思議な光景でしょう)。それはキリストの養いが「現実」であることを教えるためです。キリストと結び合わされた者がその命にあずかっているということは、霊的な仕方ではありますが、ウソではなく現実なのです。

 最後に、聖餐式が確証することは、キリストの命に私たちが養われることによって「あたかもわたしたちが自分自身ですべてを苦しみまた十分成し遂げたかのように、この方のあらゆる苦難と従順とが確かにわたしたち自身のものとされているということ」です。
 キリストの御生涯のすべてが私のものになるなどとんでもないと、私たちは思うかもしれません。しかし、そもそもキリストは私たちのために生きそして死なれたのでした。聖餐式で私たち一人一人に差し出されるパンと杯は、キリストの御生涯のすべてに他なりません。そして、それを畏れと喜びをもって受け取るようにと、私たちは招かれているのです。

 こうしてキリストが私のものとなり、私がキリストのものとなる。それは、私もまたキリストにならって生きるためであり、生きるにも死ぬにも主イエスが私の唯一の慰めとなるためです(問1参照)。


http://www.jesus-web.org/heidelberg/heidel_078-079.htm