説教と礼典の目的について
クラナッハという人が描いた、宗教改革者マルティン・ルターが説教をしている絵があります。説教壇に立つルターと会衆の真ん中には十字架のキリストが描かれて、ルターはこのキリストを指さしながら説教をしているのです。
プロテスタント教会の礼拝堂で十字架のキリスト像を見ることは、まずありません。この絵は、聖書の説教とはすなわち十字架のキリストを指し示すことなのだ、ということを表現したいわけです。
信仰問答は「御言葉と礼典というこれら二つのことは、わたしたちの救いの唯一の土台である十字架上のイエス・キリストの犠牲へと、わたしたちの信仰を向けるためにあるのですか」と、先に問65で学んだことを念を押すようにして確認しています。「御言葉」とは「福音の説教」と言い換えることもできます。
答えの文章も、興味深いことに問いを別の言い方でそのまま繰り返すような内容になっています。「そのとおりです。なぜなら、聖霊が福音において教え聖礼典を通して確証しておられることは、わたしたちのために十字架上でなされたキリストの唯一の犠牲に、わたしたちの救い全体がかかっている、ということだからです」。この少々くどいほどの繰り返しは、当時の教会にとって根本的に重要な事柄を扱っているということを意味しています。
説教と礼典による生きた礼拝に与ることによって、私たちは・・・
十字架の主を信仰の目をもって仰ぐ者となることでしょう。
キリスト教信仰へのアプローチには様々な方法があるでしょうが、主日(日曜日)の礼拝に出席することにまさって大切なことはありません。礼拝には、キリスト教会が何世紀にもわたって継承し築き上げてきた伝統のすべてが生きた形であらわされているからです。
その礼拝の中心が御言葉であり礼典なのです。たとい難しいことは何もわからなくとも、信徒たちは毎週の礼拝の中で説教と礼典には接していました。だからこそ、これら二つの目的を正しく理解することが、彼らのキリスト教信仰理解にとって決定的に重要だったわけです。
礼拝における説教はいわゆる“お説教”とは違います。たんなる講話や教訓、まして牧師の体験談ではありません。それらはどんなに格調高い礼拝の中で雄弁に語られたとしても「説教」ではないと信仰問答は言うのです。真の説教とは、何よりもまず福音を伝えることであり、それはとりもなおさず(クラナッハが描いたように)十字架のキリストを指さすものなのです。
礼典もまた同じです。何をしているのかさっぱりわからない礼典は無意味ですし、与っても意味がありません。礼典も説教と同じく十字架のキリストを指し示し、この御方の犠牲に「わたしたちの信仰を向け」るものでなければならないからです。
さて、神の恵みの目に見える“しるし”は、聖書の中にいくつもあります。神がお定めになった旧約聖書の様々な儀式も、広い意味では礼典と言えるでしょう。しかし、それらはいずれも「やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストに」ありました(コロサイ2:17)。
そのキリストがすでに来られた今、守るべき礼典も当然のことながら旧約時代とは異なります。それでは、「新約において」キリストの福音の約束を鮮やかに示す礼典とはどれなのでしょうか。
キリスト教会でも様々な儀式が執り行われます。例えば結婚式や葬式、信仰告白式や任職式などです。カトリックではそれらを含む七つの儀式を礼典と呼びますが、プロテスタントでは「聖なる洗礼と聖晩餐」の二つだけを礼典と呼んで他の儀式とは区別します。新約聖書でキリストが明らかに「制定」なさったのはこれら二つだけだと理解しているからです(マタイ28:19-20、1コリント11:23-26)。
大切なことは、福音の説教にせよ二つの礼典にせよ、十字架のキリストへと私たちの信仰をしっかりと向けさせることです。当然のことなのかもしれませんが、福音の説教を通して明らかにされる主イエスの十字架の恵みは、必ずと言ってよいほど洗礼や聖餐が表す真理と結びつくのです。
このような説教と礼典による生きた礼拝に与ることによって、私たちは礼拝に溢れる主の恵みを感じ、十字架の主を信仰の目をもって仰ぐ者となることでしょう。