「聖霊」の神について
聖書が教える信仰の要点を「使徒信条」を通して学んでいます。この使徒信条は、大きく三つの部分に分けることができます。父なる神と私たちの創造・子なる神と私たちの贖い・聖霊なる神と私たちの聖化です(問24)。今回からは、三番目の聖霊なる神について学んでまいりましょう。
さて、聖書を読んでもこの聖霊なる神がよくわからないという方は多いかもしれません。万物を造られた父なる神はわかる。贖い主なる御子イエス・キリストについてはよくわかる。けれども、聖霊なる神は今一つピンとこない、と。
それもそのはずです。聖霊はまさに聖なる「霊」ですから、わからないのも無理はありません。イエス御自身が言われたように、風が思いのままに吹くように霊も思いのままに働かれるからです(ヨハネ3:8/原語では“風”も“霊”も同じ言葉です)。ですから、まず何よりも聖書の教えにしたがって聖霊を理解することが大切です。
聖霊についての教えは聖書全体にわたり実に様々ですが、大きく二つのことが言えます。「第一に、この方が御父や御子と同様に永遠の神であられる」ということです。
復活をした主イエスは、すべての人々を教え弟子とするために「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けるようにとお命じになりました(マタイ28:19)。パウロもまた、コリント教会に宛てた手紙を締めくくるにあたって「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」による祝福を祈りました(2コリント13:13)。聖霊は、単なる神の力や知恵ということ以上に、何よりも御父や御子と同様に真の神であられます。
聖霊なる神は・・・いつかは終わる地上の苦しみを超えて、
永遠の世界へと導いてくださる慰め主なのです。
しかし、クリスマスの夜に御子イエスが降誕されなければ子なる神についてわからなかったように、聖霊なる神もまた五旬祭の日に弟子たちに降臨されなければわかりませんでした(使徒2章)。木の葉がゆれて風に気づくように、聖霊もまたその働きを通して私たちに知られます。それでは、御父や御子とは違う聖霊の特徴とは何でしょうか。
「この方はわたしに与えられたお方」だというのが『信仰問答』の答です。父なる神が私たちを超えた神、子なる神が私たちと共にいる神であるとすれば、聖霊なる神は私たちの内に働かれる神と言えましょう。そして「まことの信仰によってキリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ」てくださいます。ちょうどサンタクロースがプレゼントを抱えて子どもたちの家に訪れるように、聖霊はキリストのすべての恵みを携えて貧しい私の心の家に来てくださいます。
そればかりか、真の神である聖霊が与えられるとは、天国が私のもとに与えられるに等しいことです。私が天国に昇るのでなく、天国が私の内に来てくださる。地上にいながら、未だ罪人でありながら、神の国が私の中に訪れてくださるのです!
さらに、聖霊は、弱くて何度もつまずく「わたしを慰め」てくださる“慰め主“です。主イエスは、私に代わって慰め主を遣わすとおっしゃいました(ヨハネ16:7/新共同訳では「弁護者」)。聖霊は、天へと上げられた主イエスに代わって「永遠にわたしと共にいてくださる」方です。いつかは終わる地上の苦しみを超えて、永遠の世界へと導いてくださる慰め主なのです。
先に、聖霊が「永遠の神」であることを学びましたが、その永遠性とは実に私と共にいてくださるための御性質でもあるということです。そう考えると、私たちの神が永遠であるとは何と言う恵みであろうかと思わずにおれません。
『信仰問答』はこの後、聖霊の御業としての教会・罪のゆるし・体のよみがえり・永遠の命について教えて行きますが、それらが「わたし」に与えられている恵みであることを強調しています。聖霊の恵みは、大皿にのってドーンとふるまわれる料理ではなく、私たち一人一人の状態に合わせて調理され運ばれてくる特別食のようなものだからです。その恵みによって、罪に病んでいた私たちの内に再び生きる力と希望が回復されて行くのです(ローマ15:3)。
聖霊は、何か特別な人だけに与えられるものではありません。神を幼子のように慕い求める人々すべてに、天の父がくださる愛のプレゼントです(ルカ11:13)。