恵みの手段としての神の御言葉 

     

               第1部


 


1. 御言葉が恵みの手段であることの意味


 


 恵みの手段である神の御言葉は、書かれた神の御言葉であり、あるいは、聖書である。聖書の書は、神の啓示された御言葉である。それらは人々によって書かれたのであり、彼らは、神の聖霊によって霊感され、その結果、彼らが書いたものはまさに神の御言葉なのである。わたしたちは、すでに神の御言葉の霊感と経典性について考察してきた。わたしたちはまたそれは神学の外的原理(the principium exterunum)であることも考察した。この部分の下において、わたしたちは、御言葉が如何にして、救いの恵みを伝え、また聖徒たちを造り上げる手段として用いられるかを考察している。御言葉は、罪人たちの救いのために必要である。「聖書に啓示された真理が知られないところでは、真の宗教は決して存在しなかったし、また存在できない」(Chales Hodge,Systematic Theology,op.cit.Vol.Ⅲ.p.466)。御言葉は、救いに必要であるだけでなく、その目的の完遂のためにも、神的に効果的なのである。イエスは、大委任において、教会がすべての国民を弟子とし、彼らに「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように」教えることを指示した。換言すれば、教会がこの委任を遂行する手段は、御言葉の説教と教えることなのである。


 チャールズ・ホッジは、恵みの手段としての御言葉に関する教会の歴史と経験の証言として、次のリストを挙げている。


1.「最初に、聖化についての証拠も、また御霊の救拯的影響を示すものも、神の御言葉が知られていないところでは、見い出されない」(Ibid.,p.468)。このことは、神は、御言葉の使用なしでは救うことができないことを言うことではないが、しかし、「聖書が知られていない国々は、闇の中に座しているというすベての目に明白な事実にとどまる。


 


2.「経験の証言の第2の事実は、同等に明白である 真のキリスト教、、まさに聖書が知られている程度に応じて栄えるし、またその真理は、民の間に広まっている」(Ibid.,p.469)。


 


3.「第3に重要な事実が同等に立てられる。すあんわち、真の宗教は、若い人々が聖書の事実において教えられ、聖書の真理において教え込まれている低度に応じて、どの共同体にも広く行き渡っている」(Idem.)。若い人々が聖書の真理を教えられいるとこでは、キリスト教が栄える。他方、彼らが神的真理の無知において育つことが許されているところでは、真の宗教は弱くなる。ホッジは、真の宗教に反対する聖書とその教えを崩すことを求めるものとしての諸力(the forces)についてさらに語る。二つの相克する見解(two conflicting views)についてのホッジの記述は、非常に現代的に響く。


 「宗教に反対するそれらの結果;無関心の支配を望む人々、あるいは、異教の教理と異教の道徳の回帰が、聖書の権威を崩すことに努力することにおいて、彼らの世代においては矛盾がなく、賢明なのである。聖書の発行部数を失わせること。聖書の説教への出席にいい顔をしないこと。そして、特に、聖書が若い人々に効果的に教えられることに反対することである。他方、聖さがなければ、神を見ることができる人はいないこと、また神的真理の光(the light of divine truth )がなければ、聖さは不可能であることを信じる人々は、牧師として、両親として、市民たちとして、聖書は自由な流れ(free course)を持つであろうことを主張し、またそのことがその人々の訓練の下に、あるいいは、その人々の訓練に対して、すべての人に忠実に教えられるであろう」(Idem.)。


 


Ⅱ.恵みの手段としての御言葉の力


 


 わたしたちが御言葉を恵みの手段と呼ぶとき、そのことは、意図された諸結果を生み出す力を持つことが意味されている。如何にして、御言葉への力が伴うのか。


 


A.  律法主義(nomism)


 


「律法主義は、ユダヤ教、ペラギス主義、セミ・ぺラギス主義、アルミニウス主義、新律法主義(Neonimism)、そして、合理主義などのような種々の形態において、御言葉の知的で、道徳的で、美学的影響を、御言葉に帰せられ得る唯一の影響として考える。律法主義は、御言葉を通した聖霊の超自然的な働きを信じない。ペラギウス主義者たちと合理主義者たちは、力は真理それ自身の性質にあると主張する。もっと極端な形態において、贖罪においてさえも必要とされる超自然的な影響はないことが主張される。もっと穏やかな形態において、セミ・ペラギス主義たちとアウミニウス主義者たちのように、御言葉への補足としての聖霊のみわざの必要性の認識がある。


 


B.  律法不要論(Antinomianism)


 


 律法不要論は、外的な御言葉を少しも必要と認めない。律法不要論は、個人への聖霊の直接的な働きからの「内的御言葉」(the inner word)あるいは、「内的光」(the inner light)」を強調して、神秘主義を強調する。神秘主義のこの類は、再洗礼派(Anabaptists)のある者たちの下に最も明白に表現される。


 


 


C.宗教改革者たちの見解


 


 宗教改革者たちは、御言葉だけでは、個人において信仰と回心を生み出すには十分でないと主張した。聖霊は、通常そのようにはしないが、御言葉なしで働くことができる。通常、御霊は、回心をもたらすことにおいて、御言葉を通して、また御言葉と共に働く。当初は、ルター派と改革派の間には、ほとんど違いがなかった。ルター派は、御霊を、御言葉を通して働くものと語り、他方、改革派は御霊の働きが、御言葉を伴うことを語った。


 結果的には、ルター派は、神の御言葉は、神的沈殿物(as a divine deposit)として、聖霊の変革力(the converting power)を含む(contains)ということを発展させた。こうして、ルター派は、教職が洗礼の決まり文句(the baptismal formula)を宣言して水を注ぐとき、御言葉は洗礼において幼児を実際に回心させることを主張する。個人は、結果的には、福音を拒否し、こうして、自分の救いを失うのである。


 改革派の立場は、神の御言葉は、常に力強く、命から命への香りでもあり、また、死への香りでもあるが、しかし、神の御言葉は、罪人たちの心における聖霊の働きなしでは、信仰と回心に導くことにおいて効果的とはなり得ない。「堕落以来、人間の心は、聖書の真理お変容し、救う力(the transforming and saving power)を受ける状態にはいない。そして、それゆえ、神の御言葉を救いの有効な手段とするためには、神の御言葉が聖霊の力によって伴われるべきこと(attended)が必要である」(Hodge,Systematic Theology,op.cit.p.472)。これが聖書の教えであることは、コリント一2:14「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」のような個所において見られよう。イエスも、同じことを不信仰なユダヤ人たちに語ることにおいて教えた「 わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである」(ヨハネ8:43、47)。


 W.G.T.シェッド(W.G.T.Shedd)は、改革派の見解とルター派の見解の違いを次のように区別した。「御言葉の効果は、御言葉に適用する聖霊から来るのである。御霊は、真理において働くのではなく、霊魂において働くのである・・・御言葉を用いることにおいて、神の御霊は、霊魂に直接的に働き、2つの効果を生み出す。(a)理解力が照明され(enlightened)、真理を霊歴に認識できる(percieve)ようにする。(b)意志を更新し、神の言葉に向かわせる。真理への心の嫌悪感(the aversion of the heart)が克服される。あるルター派の神学者たちは、聖霊を真理において働くものと表明し、その結果、真理がこのさらに加えられた資質と力の手段によって効果的となると表明した。改革派神学者たちは、聖霊を、唯一の効果(the sole efficient)として認め、そして、真理を手段としてのみ認めるのである」(W.G.T.Shedd,Dogmatic Theology:Grand Rapids:Zondervan Publihing Company,n.d.Vol.Ⅱ.p.563)。


 


Ⅲ.恵みの手段としての御言葉の説教


 


 恵みの手段は、まさに聖書それ自身によってではなく、特に、手段である御言葉の説教(in particular,it is the preaching of the Word)である。ヘルマン・フクセマ(Herman Hoeksema)は、わたしたちは、御言葉が説教されなければ(preached)を強調しなければならないと言う。このことが失われた者を救いにもたらし、選民を造り上げることにおいて御言葉が恵みの手段となる第一義的な方法である。


 バーフィンクは恵みの手段としての御言葉に強調を置いた。しかしながら、宗教改革は、この関係を逆転させた。宗教改革は、聖書の基礎の上に教会を置き、また、聖書を教会の上に置いた。教会ではなく、聖書、神の御言葉が、特に(par excellence)恵みの手段となった。礼典でさえも、御言葉に従属し、御言葉なしでは意味も力もない。しかし、御言葉は、それゆえ、教会の制度が無くとも、働くことができ、また働く。教会が御言葉によって説明され、説教され、防御されるために、神が御言葉を教会に委ねたことは真実である。しかし、御言葉は、御言葉なしで教会が存在も力も持たないというような方法で、教会に与えられたのではない。反対に、御言葉はすべての人に向けられる。御言葉は、すべての環境において、生活のすべての領域において価値を有する。そして、御言葉は、御言葉が信者たちの集まりにおいて職務的な人たち(an official person)によって説教されている事実からその力と働きを得る。御言葉は、それゆえ、家庭において御言葉が読まれ、研究されるとき、御言葉が両親あるいは教師たちによって物語られるとき、どんな形態においてであれ、御言葉が人々の知識にもたらされるときにも働くのである(フクセマによって引用されたバーフィンク、op.cit.p.635-636)。


 フクセマは、このことについてコメントする。「恵みの手段としての御言葉は、教会に依存していないということは真実であるが、・・・しかし、恵みの手段が教会に与えられているという事実を変えることはない。また、改革派の人、、教会の制度なしに、自分自身の家であるいは信者たちの集まりにおいて、洗礼にも主の晩餐人にも人が礼典にあずかることができると思ったり、教えたりして、教会の制度を軽視する人はいない。・・・しかし、常に、教会は福音を宣教する任務を持つ。そして、常に、神の御言葉の説教は恵みの手段である」(Ibid.,p.636)。


 彼は、それから、説教を次のように定義する。「説教は、教会がキリストを通して、神の御言葉の奉仕における福音の権威ある宣言である」(Ibid.,p.636)。説教の重要性は、ローマ10:14-15において強調されている「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです」。彼らが聞かなかったキリストを如何にして信じるだろうか(直訳)。それゆえ、説教を通して、あなたがたはキリストを聞くのであるが、しかし、あなたがたはキリストを聞く・・・この個所は、もし、あなたがたが彼が語るのを聞かないならば、またもし、あなたがたが、あなたがたに語りかけられる彼の言葉を聞かないならば、あなたがたはキリストを信じることができないことをわたしたちに教えるのである」(Ibid.,p.637)。


 イエスは、同じことを、ヨハネ5:24-25において教えた。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」。再び、ヨハネ10:27において「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」。


 恵みの手段としての御言葉の力は、ヘブライ4:12-13のよって語られている。御言葉は「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」。


 説教者は、キリストについて単に語る人ではなくて、キリストを通して語ることとキリスト御自身の言葉を聞かせることが、キリスト御自身のよしとすることなのである。神の御言葉のみを語ることが真実な説教者の義務である。キリストは、御自分の使徒たちに和解の言葉を与えた(コリント二5:9)。これが、使徒たちから説教者たちを作った方法である。この同じメッセージが聖書において教会に委ねられた。「その内容について説教することは、聖書におけるキリストの御言葉に厳密に限定されている。説教者は、語るべき自分自身のものを何ももっていない。厳密に何もない。・・・それゆえ、説教者は、聖書に含まれている神の御旨全体(the whole council of God)を宣言するのである」(Hoeksema,Reformed Dogmatics,op.cit.p.638-639)。


 説教者が、御言葉を、また御言葉にのみを説教することにおいて忠実であるとき、そのとき、説教者の言葉は、権威を持つ。説教は、福音の権威ある宣言である。説教者は大使(an ambasasador)であり、彼はそのようなものとして説教しなければならない。


 説教者は、遣わされる者である。厳密に言えば、キリストによって説教することを委ねられたのは教会であり、また、説教者を遣わさねばならなのは教会なのである。


 「人はキリストのために証言をするかもしれない。人は、自分にある希望について理由を尋ねる者に答えを持っているかもしれない。しかし、人は遣わされなければ、説教することができない」(Ibid.,p.639)。


 「そして、遣わされないで、如何にして説教するのか」。使徒の権利は、キリストから直接、委ねられたのであり、また説教するために遣わされたのである。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」(ガラテヤ1:1)。今日、教会についてどうか。教会の代表者たちとしての使徒たちに与えられた大委任(the great commssion)は、使徒たちによってまったく実現されていない。イエスは、教会がこの委任を世界の果てまで遂行するとき、教会と共にあることを約束した。教会は、真理の針であり、基いである。すなわち、個人の信者たちでなく、教会が御言葉を委ねられたのである。


 「このことが適切に強調されることもよいことである。個人的な信者ではなく、世界のキリストの教会から離れてでもない。信者たちの集団、社会、諸委員会(boards)、分派(sects)、運動(movements)のどの類も、真理の柱ではないし、また、御言葉を語る任務を持っていない。教会外部のそのようなよき集団に対する影響において、どんなものを持つように見えても、わたしたちは、教会から離れたそれら存在と労力は不従順であることを忘れるべきではないし、また、それらの究極的な仕事の効果は、真理の原因に決定され得るのみである」(Hieksema,op.cit.p.640)。


 R.B.カイパー(R.B.Kuiper)は、伝道を論じることにおいて、同じ立場を肯定しているが、しかし、非日常的な環境下においては、「信者たちの自発的な協会」(the voluntary assosiations of believers)の使用に対してある用意をもっている。


 最初に、組織化された教会は、伝道を行わねばならない(must)。伝道的な活動は、真の教会の標識(a mark)である。それゆえ、組織化された教会は、その任務の達成を個人的な信者たちに任せてはならないし、また、その会員たちの自発的な協会に任せてはならない。


 第2に、信者たちの自発的な協会は、通常の環境の下においては、伝道の行為者としての組織化された教会に取って代わることを考えてはならない。せいぜい、それらは、教会の働きを補足するべきである。教会のコントロールから独立した伝道局(mission boards)と伝道委員会(evangelistic committees)は、組織化された教会が神から課せられた義務を果たすことに失敗したときにのみ、また、その義務を行うように説得するすべての努力が失敗したときにのみ適切である」(R.B.Kuiper,God-Centered Evangelism:Baker Book House)1961,p.162。カイパーは、教室での講義において、アメリカ合衆国長老教会(PCUSA)における外国伝道のための独立長老派委員会(the Independent Presbyterian Board for Foreign Missions)の設立は正当化されるが、しかし、ひとたび適切な方法における伝道の働きを行っている新しい教会がるあるときには、そのとき、この委員会は解消されるべきである、あるいは、教会の働きに合併されるべきであると論じた。このことは、長老派伝道会(the Presbyterian Evangelistic Fellowship:ECOE)の外国伝道との関連で浮上し、それは、アメリカ長老教会(PCA)に引き渡され、そして、PCA(the Presbyterian Church of America)の世界委員会への伝道の基い(the foundation of the Mission to the World Committee)となった。国内伝道とPEFの伝道的な部門はPCAと北アメリカ伝道委員会に引きき渡されずに、準教会組織(a parachurch organization)として継続している)。
 
 説教の任務は、教会によって果たされる。キリストは、教会にある者たちを使徒として、ある者たちを預言者として、ある者たちを伝道者として、ある者たちを牧師として与えた(エフェソ4:11)。これらの人々は、「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき」(エフェソ4:12)与えられた。それゆえ、教会が世界への福音の説教の大委任を遂行するのは、奉仕を通してである。


 「教会が奉仕のために聖別した者たちだけが、福音を説教するためにキリストによって遣わされたと適切に感じることができる。人が、制度化された奉仕の立場に立つように教会によって召されたとき、また、彼が、その立場において、自分が説教するすべてにおいて聖書に啓示された神の御言葉に厳密に固着するとき、彼は正しく自分が説教者であることを主帳することができるのである」(Hoeksema,Reformed Dogmatics,op.cit.p.641)。 


 これが、次の声明を採択したとき、アメリカ長老教会(the Presbyterian Church of America)によって取られた本質的な立場である。「総会は、LC158において表明された歴史的な長老主義的立場を再び肯定する、すなわち、神から召され、賜物を与えられた者たち以外、誰も福音を説教すべきではない。また、それゆえ、適切に任職し、免許を与えられた者たちだけがPCAの講壇において説教してよい。治会長老は、神の民を勧める歴史的な習慣を更新するのである」(M7GA,7-23,4,p.80)。


 それゆえ、この説教は、改革派神学者たちが、御言葉は恵みの手段であると言うとき、


言葉の非常に特別な意味合いにおいて意味されるのである。というのは、御言葉の説教は、キリストへの信仰に不可欠であるからである。このことは、わたしたちが、今日、所有している真理における教えのすべての手段の価値を減じなければならないことを意味しない。とりわけ、わたしたちは、家庭における聖書を読むことと聖書を研究することの大きな意義を過小評価してはならない。わたしたちは、確かに、聖書の明白性を信じる。そして、わたしたちは、すべての信者たちが聖なるお方からの油注ぎを持っていることを信じる。とはいえ、すべてこれらの手段は、制度としての教会を通して、特に神の御言葉の奉仕を通して、キリストのみわざから決して分離できないし、また分離してはならない。・・・そして、それゆえ、教会による公的説教(the official preaching)は、中心的な意義を持つのである。恵みの主要な手段は、御言葉の説教なのである。


 


Ⅳ.神の恵みは、恵みの手段を通して、直接的に(immediately)か、あるいは間接的に(mediately)に与えられるかの疑問


 わたしたちは、恵みの手段としての御言葉の説教を考察してきたので、わたしたちは、神は、常に、間接的に説教を通して再生させるのか、それとも、御言葉なしに直接、行為するのかという疑問に直面する。


 


A.  間接的な働きを支持するのに用いられる個所


 


1. ペトロ一1:23-25


 


 この個所は、しばしば間接的な働きに有利に引用される。それは次のように読む。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。


 1:25 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです」。


 23節における神の言葉は、あなたがたに説教された福音として、25節において、同一視されている。再生は、福音の説教の手段を通してのみ起される。


 この見解についての問題は、文脈の間に区別がないことである。23節の前置詞のεκ:ek:エクとδιά:dia:デアが重要である。


 「選民は、εκ:ek sporas phasartes:エク スポラス パサルテース:朽ちない種から再生されたのであり、同時に、dia:dia logou zontos theou kai menontos:ディア ログ ゾウントス セウウ カイ メノントス:神の変わることのない言葉によって際視されたのである。それゆえ、再生は、種から、εκ:ek sporas:エク スポラスから発展したものとして表明されている。この種は明らかに聖霊によって心に直接働いた原理(the principle wrought immediately in the heart by the Holy Spirit)である。それは、わたしたちの心に、わたしたちの意志なしで、あるいは、努力なしで働いたのであり、わたしたちの意識なしで働いたのである。その種において、栄光化に至るまでの新しい生命の原理があり、新しい生命のすべてがあることが、当然、意味されている。


 フクセマは、神の御言葉は、それは生きていて変わらない御言葉は、書かれた御言葉であり、あるいは、説教された御言葉であることを示している。むしろ、それは、神の創造的な御言葉である。神の力ある効果ある御言葉によって、心が開かれ、リィデアの場合のように、真理の御言葉を聞くのである。再生の種のこの植えつけは、この効果ある生きた変わることのない神の御言葉の影響と同様に、それ自身において、直接的でもあり、また、それゆえ、大人と同様に、最も小さな幼児にも適用され得るのである」(Ibid.,p.648-649)。


 フクセマは、再生においては区別される3つのステージがあることを主張する。最初は、生命の種が聖霊によって心に植えつけられる。差2は、神の御言葉は、生きていて変わらないが、それによって再生の種が新しい生命に発展する。第3に、福音の説教は人間を意識にもたらす。


 


2. エフェソ5:14


 


 この個所は、ときどき間接的な再生に有利なものとして挙げられる。それは次のように読む。「明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」。


 ここに、わたしたちは、死者が起きるようにとの呼びかけを見る。人間がそのように行う責任があるという事実は、人間がそのように行う能力を持つことを意味しない。死があるところに命を与えることの神の働きがあるのみであることが来るのである。


 


3. 種まきのたとえ、マタイ13章とルカ8章


 


 種まきのたとえは、間接的な再生に有利なものとしても引用される。土壌の4つの種類があり、種は、それは神の御言葉を表すが、これらの土壌の各々に蒔かれる。種が、実を結ぶ植物を生み出すのは、よき土壌においてのみである。その土地は、種が蒔かれる前に準備されていた。そのように、福音を受け入れる心に当てはまる。説教は、心を準備しないが、しかし、むしろ、聖霊の超自然的なみわざによってすでに備えられている心を見る。土壌の準備は蒔くことに先立つ、それと同様に、心の準備も御言葉の説教に先立つ。こうして、このたとえは再生が聖霊の直接的なみわざ(the immediate work of the Holy Spirit)であるという理念を確証させる。


 すべての改革派神学者たちは、再生は、人間の意志なしに効力を与えられ、聖霊のみわざであることを主張する。こうして、ある意味で、すべての改革派神学者たちは、御霊の直接的なみわざ(an immediate operation of the Spirit)を主張する。何故なら、再生は、論理的に、罪人の心における他のすべての恵みのみわざに先行するからである。


 再生についての改革派の見解は、ドルト教憲Ⅲ、Ⅳ、第11条に見られるように、それは御霊の直接的なみわざ(the immediate work of the Spirit)である。「しかし、神が、選民において、御自身の御旨のよしとすることを行うとき、あるいは、彼らにおいて真の回心を行うとき、神は、彼らに福音を外的に説教されるようにし、また、聖霊によって力強く彼らの心を照らし、彼らが神の御霊の事柄を正しく理解し、洞察できるようにする。しかし、同じ再生する御霊の効力によって、人間の最も深いところに行き渡る。聖霊は、閉じた心を開き、固い心を柔らかにし、割礼のない心に割礼を施し、意志に新しい資質を注入する。それは、それまで死んでいたが、聖霊は、悪、不従順、頑固さから生かす。聖霊は、善き木のように、意志が善き行為の実を結ぶように、意志を善く、従順に、素直にし、行動を起こさせ、意志を強くするのである」。


 第12条は次のように読む。「また、これがは、聖書において、そのように高くほめたたえられている再生であり、また、新しい創造と名づけられている。神がわたしたちの助力なしに、わたしたちの内に行う死者からのよみがえりであり、生かすことである。しかし、このことは、福音の外的な説教によってのみ効果あるものとされるのではなく、道徳的な説得によって、あるいは、神が御自分の側を果たした後で、再生されるかどうかが人間の力になおとどまっている、あるいは、回心しないでととまっているというようなそのような働きの様式によるのではない。かえって、それは、このみわざの作者によって霊感された聖書のように、明らかに超自然的なみわざであり、最も力強い、また、同時に、最も喜びに満ちた、驚くべき、神秘的な、あまりにも素晴らしいものである。効果において創造に、あるいは、死者からの復活に劣るものではない。その結果、神が、この驚くべき様式で、その者たちの心において働くすべての者たちは、確実に、無謬に、効果的に再生されるのであり、また、実際に信じることができるのである。・・・その後、意志は、こうして新しくされ、神によって生かされ、影響を受けるだけでなく、この影響の結果、それ自身で活動的となる。それゆえ、受けたその恵みによって、人間も自分自身で正しく信じ、悔い改めると正しく言われるのである」。


 


Ⅴ.恵みの手段としての御言葉の説教の効果


 


 手段は意識的な行為を要求する。そのようなものとして、手段は、命のあること(the presence of life)を要求する。手段は、神よっても、わたしたちによっても使用される。こうして、神は、わたしたちに、わたしたちを養うため、食べ物を備えてくださり、そして、今度は、わたしたちが養いのため食べ物を食べる。そのように、聖霊は、わたしたちの信仰を養うため、御言葉の説教を備えてくださる。わたしたちは、今度は、御言葉のわたしたちの使用に責任がある。


 遺棄された者たちにとっては、御言葉の説教は、死から死に至る香りである。彼らは、御言葉を信じようとしない。あるいは、福音の説教において宣言された救い主を受け入れようとしない。彼らの拒否と定罪は、彼らの反逆と福音のよき知らせを受け入れようとしないことに依拠する。他方、選民は、聖霊の再生のみわざの対象であり、また、彼らが福音のよき知らせを聞くとき、彼らは自分たちの罪に対する悔い改めと主イエスへの信仰をもって応答する。彼らの救いの根拠は、まったく神の恵みである。


 フクセマは、子供たちに対する恵みの手段としての御言葉の説教について明白に語る。「契約の領域において、信仰と悔い改めは、小さな子供たちにおいて、御言葉の影響を通して次第に働く。説教の影響が、日曜日の教会と伝道地における公的な奉仕とに限られるということは理にかなっている。それは、神学校の働きのような多くの他の活動を含む。そこでは、若い人々が御言葉の奉仕のために訓練を受けており、そこでは、神の御言葉の真理がさらに展開され、すべての誤りに対して防御され、主張される。そのほかに、聖書の解釈と同様に保持と翻訳の労力がある、・・・本文批評(textual criticism)についての多くの働きにおいてだけその実が示されるのではなく、数百の注解書における働きの労力もある。それから、教会が、神の御言葉の真理を、教会の信仰告白において、確立して、公式化(formulate)することへの召しもある。反対者たちと否定する者たちに対して防御するだけでなく、世々に保持することへの召しもある。しかし、これらのすべての労力において、恵みの手段としての世界におけるキリストの教会による御言葉の公的奉仕(the official ministry of the Word)は、まさに中心であり、心(heart)である。


 神が、御自身の無限の知恵と憐みにおいて、子供たちが生まれるようにすることは、教会の領域においてである。また、最も広い意味において、御言葉の説教の影響下において、子供はそのまさに幼児期から置かれるのである。この影響は教会によって行使される。洗礼の執行におけるとき、洗礼は、彼らが彼らの子供たちを「前記の教理において」(in the aforesaid doctrine)育てることを、あるいは、子供たちがその教理において教えられることを助けあるいはその教理において教えられようにすることを、両親から約束として要求するのである(Ibid.p.652)。


 契約の子供たち、あるいは、その事柄に対して、どの子供も、最も早い幼児期から再生するかもれない。通常、受けれられている分別年齢のかなり前に、神の御言葉の決定的影響が子供にあるかもしれない。再生した子供が成人したとき、彼は次第に意識的な信仰に来て、そして、契約における自分の分を取る。彼は、突然の回心経験する必要がない。「確かに、わたしたちが回心と呼ぶ変化は、確実に生じねばならない」(Ibid.p.654)。彼は、古い性質を殺すこと(to mortify)を望み始めたときを意識していないかもしれないし、また、ますます神に対して生きることを望み始めたときを意識していないかもしれない。重要なことは、いつ、どこで、回心が生じたかではなく、生じたという事実であり、それが仮に徐々の経験であってもである。それが、選民の契約の子供たちの心において育っていくそのような確信の手段であろう神の御言葉の説教なのである。


 わたしたちは、すべての契約の子供たちが選民であり、再生されていると前提すべきでないことが言われねばならない。イスラエルのすべてが、イスラエルではない。肉の子供たちではなく、神の真実な子孫であるという約束の子供たちである。言うのも悲しいが、旧約聖書の期間において、真のイスラエルよりも偽りのイスラエルの方が多かったように思える。このことは、同様、新約聖書における場合でもあるようにさえ思える。


 神の御言葉が真実に、十分説教されるとき、 神の御言葉が選民を悔い改めと信仰に至らせる効果を持つだけである。他方、遺棄された者たちによって真理の憎悪がもたらされるのである。


 「同じ御言葉がすべての人に向けられねばならない。すべての人が、回心を勧められ、そして、塵と灰の中で悔い改めて、自ら回心できる。そして、すべての人が、聖化の道を続けて歩くようにいさめられなければならない。世のただ中において生ける神の側のものとして、世と対立的に生きなければならない。そのような説教は、神が永遠の救いに選んだ者たちにとっては、命の香りであるが、しかし、同時に、他の者たちには死の香りなのである。そのような説教の下においてのみ、教会が建てられるであろう、そして、信者たちが造り上げられていくであろう」(Ibid.,p.655)。


 


 


解説


 


「第44章:恵みの手段としての神の御言葉」についての紹介が終わったので、?点の解説を記す。細かいことは、スミスの本文を読んでいただければと思うので、気がつたことを?点記す。第1点は、御言葉が恵みの手段であることの意味についてである。すると、御言葉とは、神の特別啓示、霊感されて書かれた神の言葉、すなわち、聖書のことであり、神学の外的認識原理のことで、神の救いの恵みを伝え、また聖徒たちを造り上げる手段として用いられる観点からの呼び方であることを、スミスは語る。そして、特に具体的には神の御言葉の説教のことであることを、後にさらに詳しく語る。


第2点は、恵みの手段としての御言葉をどのように見るかについては、教会史的に種々の見解が現れたことを、スミスは語る。御言葉を通した聖霊の超自然的な働きを信じない律法主義としてのユダヤ教、ペラギス主義、セミ・ぺラギス主義、アルミニウス主義、新律法主義がある。外的な御言葉を少しも必要と認めす、聖霊の超然的な直接的働きを主張する再洗礼派に代表される律法不要論がある。ルター派は、神の御言葉それ自体に、御霊の変革力があり、御言葉が使用されないときでも、また、御言葉が合法的に使用されなくとも、御言葉それ自体に力があることを主張するようになった。それにも関わらず聞いた人々の間に、救われたり、救われなかったりの違いがあるのは、聞いた人間の自由意志によると主張した。改革派は、神の御言葉は、ヘブライ4:12で「・・・」とあるように、常に力強いが、しかし、御言葉は、罪人の心における聖霊の働きなしでは、信仰と回心に導くことにおいて効果的とはなり得ず、聖霊の働きを伴うことを主張した。改革派神学者たちは、ルター派のように、聖霊のこの力が御言葉に内在する非人格的は力であることを否定した。改革派は、御言葉と共に、御言葉を通して働く聖霊の直接的みわざを正しく主張した。


第3点は、恵みの手段としての御言葉の説教についてである。スミスは、恵みの手段は、聖書それ自身ではなく、特に、手段である御言葉の説教であることを語る。すなわち、恵みの手段としての御言葉は、特に御言葉の説教を意味する。それゆえ、改革派は、御言葉の説教を強調してきた。礼典でさえも、御言葉に従属し、御言葉なしでは意味も力もないのである。そして、恵みの手段としての御言葉の説教は、教会に与えられ、教会において、正式に任職された牧師によって公的に説教されるのである。パウロも、ローマ10:14-15において「・・・」と語り、神の言葉の説教を強調している。説教者は、御言葉にのみを説教することにおいて忠実であるとき、説教者の言葉は権威を持つ。説教者はキリストから遣わされた大使なのである。スミスは、自分が属しているアメリカ長老教会(PCA)において、治会長老の職務とは異なる牧師の説教の重要性を語っている。教会による公的説教は、恵みの手段の中心的な意義を持ち、恵みの主要な手段は、御言葉の説教であることを、スミスは幾度も言葉を変え、改革派神学者たちを引用して強調する。


 第4点は、神は、常に間接的に説教を通して再生させるのか、それとも、御言葉なしに直接、再させるのかという疑問を、スミスは扱って、再生は、聖霊の直接の超自然的なみわざであることを明らかにする。再生が、手段を通して間接的に起こされることに有利な聖書の個所もある。ペトロ一1:23-25、エフェソ5:14、種まきのたとえのマタイ13章とルカ8章などがそうである。しかし、すべての改革派神学者たちは、再生は、人間の意志なしに効力を与えられ、聖霊のみわざであることを主張してきた。こうして、すべての改革派神学者たちは、御霊の直接的なみわざを主張してきたのである。何故なら、再生は、論理的に、罪人の心における他のすべての恵みのみわざに先行するからである。ドルト教憲(Ⅲ-Ⅳ-11)は、「・・・聖霊は、閉じた心を開き、固い心を柔らかにし、割礼のない心に割礼を施し、意志に新しい資質を注入する。それは、それまで死んでいたが、聖霊は、悪、不従順、頑固さから生かす。聖霊は、善き木のように、意志が善き行為の実を結ぶように、意志を善く、従順に、素直にし、行動を起こさせ、意志を強くするのである」と語って、聖霊の直接的な超自然的みわざであることを力強く断言する。また、ドルト教憲(Ⅲ-Ⅳ-12)は、聖霊の直接的な超自然的みわざによる再生は、「・・・最も喜びに満ちた、驚くべき、神秘的な、あまりにも素晴らしいものである。・・・効果において創造に、あるいは、死者からの復活に劣るものではない」とためらいなしに断言している。わたしは、この再生は創造に劣らないみわざであるという言い方には、思い出がある。若いときに、ドルト教憲(当時はドルト信条と言っていた)を読んで、この言い方に出会ったときびっくりした。また、同時に、再生のみわざの素晴らしさを実感し、心に喜びがあふれたことを、今でも思い起す。


 第5点は、スミスは、恵みの手段としての御言葉の説教の効果について述べる。聖霊は、わたしたちの信仰を効果的に養うため、御言葉の説教を備えてくださるが、御言葉の説教を備えられたわたしたち自身も、今度は、御言葉の積極的な使用に対して責任があり、怠慢であってはならない。また、ここで、特に、スミスは、子供たちに対する恵みの手段の効果について述べる。すなわち、恵みの契約の領域において、子供たちは、説教される御言葉の影響を通して次第に信仰と悔い改めに導かれていくのである。神は信者の子供たちが、恵みの契約の領域において生まれるようにするし、子供たちは、御言葉の説教の影響下で育てられていくのであり、親は幼児洗礼のとき、聖書と改革派の教えによって子供たちを育てていくことを約束するのであり、恵みの契約の中にいない子供たちとは異なる。こうして、子供たちは年齢と共に恵みの手段である御言葉の説教を理解するようになり、信仰が自分の意識下に入って来る。そして、分別年齢に達したとき、主イエス・キリスを自分の口で告白して救われるのである。こうして、選民の契約の子供たちは、救われていく。ただし、信者の子供たちは、自動的にすべて皆必ず救われると思ってはならない。選民の子供たちが救われるのである。こうして、スミスは、恵み手段としての神の御言葉の説教下にあって、子供たちも説教の影響の下に置かれることを語る。恵み手段としての神の御言葉の説教は、命の香りとして、信者を造り上げていくのである。


 第6点は、スミスは、恵みの手段としての御言葉、すなわち、特に、御言葉の説教の重要性について力説しているが、ベルクーワも説教につて、興味深いことを言っている。すなわち、ベルクーワは、聖書は説教されるためにあることを強調している。聖書があると言っても、聖書に口があって、聖書の教えを語るわけではなく、人が聖書の教えを語ることによって、聖書の教えが人々の心と生活と人生に関わり、意味を持つことを強調している。わたしも本当にそう思う。聖書は教会によって任職された牧師によって、その教えが人々に語られるのを待っているのである。そこで、わたしは、若いときから、御言葉の説教、聖書の説教は、牧師の働きの冠と確信して、説教してきた。それゆえ、わたしたち牧師は、牧師にしかできない御言葉の説教、聖書の説教を積極的にしていこう。御言葉を聞けることは大きな恵みであるが、また、御言葉の説教ができることも、これまた大きな恵みである。わたしは、今、75歳になるが、教会から依頼されて、まだなお説教奉仕ができることの大きな恵みを実感し、聖霊の支えを信頼し、喜びをもって説教奉仕をしている。そして、若いときから約50年間、半世紀、一生懸命に勉強してきた神学が、今、説教にどれだけ役に立っているかを感じながら説教している。神学を一生懸命に勉強してきて、本当によかったと思っている。神学は、説教に備えを与える学であることがよくわかる。できる限りのよい準備をして講壇に上がろうといつも思っている。これからもそうしていこう。ベルクーワの聖書と説教の関係については、拙著(G.C.ベルクーワ:教義学研究)の「第13巻 聖書」の「第12章 聖書と説教」を参照のこと。また、わたしの説教観については、拙著「改革派教会の「神学・説教・伝道・教会形成」の「中巻 26.聖書と説教-ベルクーワによる」、「27.説教と教会形成」、「28.説教の日本史的意義」を参照のこと。


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