聖化

 


序論


 


 キリスト教生活についての見解を展開するそのように多くの企てが、キリスト教の歴史の世紀を通してあるので、聖書の教理を展開する以前に、これらの見解の幾つかを簡潔に概観することは適切である。このことは、聖化についてのわたしたちの理解として仕えるであろう。これらの見解は、しばしば完全主義の理念を含み、また、こうして、この概観は完全主義の見解の概観となる。


 


1. 完全主義(perfectionism)


 


A.  ペラギウス主義


 


 ペラギウスは、生来的な堕落(inherent depravity)のようなものはないと主張した。どの人も罪なくして生まれ、また、こうして、神的律法の要求を満たすことが完全に可能である。それゆえ、この見解は、人間の側におけう原初の完全(an original perfection)を包含し、また、律法を人間に適用しない。人間は、アダム的な完全さを所有しているものとして見られ、また、それゆえ、律法のすべての要求を行うことができる能力を与えられている。


 罪は、知られている律法の自発的な違反(the voluntary transgression)として見られる。それは、こうして、意志の行為であり、性格の傾向ではない。このことは、完全主義の多くの見解に基本的である。結果として生じる完全主義は、絶え間のない一連の聖なる意志(in a constant series of holy volitions)にある。


 


B.  ローマ・カトリック主義


 


 ローマは、洗礼において、罪深い人間の性質のことごとくは人間の霊魂から除かれる。しかしながら、情欲(concupiscence)が残る。これは、真には罪ではないし、また洗礼によって獲得されたものとしての完全と矛盾するものでもない。洗礼後、人間によってなされる行いは、罪の何の汚れもない。ローマは、神の律法を堕落した状態における人間に適用されるものと見る。適用された律法は、すべての死に至る罪からの自由である。洗礼によって、人間は、この種の従順が可能とされている。完全は、それゆえ、慈善(charity)にある。それは、霊魂を神に結びつけ、また、霊魂から、この結びつきに反するところのものすべてを取り除く。慈善の完全(the perfection of charity)は、反抗的な感情とささいな罪と矛盾しない。この完全は、そのとき、忠誠とすべての死に至る罪からの自由である。わたしたちは、ここに、二重の誤りを見る。一方においては、人間は洗礼後、完全な生活を送ることが可能と前提されている。他方においては、彼が送ることが可能である完全な生活は、適用される律法に一致している完全な生活なのである。


 


 


C.  アルミニウス主義(Arminianism)


 


アルミニウス主義は、プロテスタント教会における完全主義を表明しようとした最初の企てであった。罪は、知られた律法の自発的な違反として定義された。罪を判断する基準である律法は、原初の完全であるアダム的律法ではなく、人間の堕落した状態に合わされた律法なのである。この律法を守ることが愛なのである。どの信者もこの愛を持ち、行使すべきなのである。判断の誤りあるいは人間の弱さの誤りが続くし、そして、こうして、赦しが必要であるが、しかし、至高の愛の違反ではなく、また、こうして、真に罪ではないのである。完全は、それゆえ、不完全と類似点がある。人間におけるひねくれた行為の特徴的な傾向は、信仰によって取り除かれる。残っている弱さは、人間の生来である弱さから生じる。


 


D.ウェスレイ主義(Wesleyanism)


 


プロテスタント主義における最も影響を与える形態の一つが、ウェスレイ主義の完全主義である。ジョン・ウェスレイ(John Wesley)は、自分自身が完全に到達したことを主張した。完全は、神と人への純粋な愛にある。この愛は、すべての聖くない気質、誇り、怒り、身勝手、思想、言葉のすべてを消し去るのである。心は、神への愛に燃え、また、それゆえ、どの思いも行いも神に献げられる。完全な人間は、神のように聖いのであり、また、心を尽くして神を愛するのである。彼は、力を尽くして仕える。完全の基準は、神的な聖さのその十分な要求を持っている神の適用しない律法(the unaccommodated law)である。聖さのこの完全は、その目的のために向けられる信仰によって瞬間的に得られるのである。完全な信仰は、完全な愛を生む。ウェスレイは、この完全は、わたしたちをすべての不完全から救い出しはしないことを認めた。クリスチャンは、知識において完全ではないし、また、こうして、誤りから自由でもない。自発的な違反があり、それは、キリストと彼の贖いによって赦さることが必要である。しかし、これら


は罪と呼ばれない。何故なら、それらは、神の完全な愛と矛盾しないからである。それらは、神あるいは人への憎しみの傾向からは来ないし、また、真に罪ではない。人間は、完全の所有に向けられた信仰の行使によって、この完全に達するのである。彼は、完全な状態において生活を送れるであろう。他方、彼はこの完全を失うかもしれないし、また、最後的に捨てられるかもしれない。


 


D.  オバーリン完全主義(Oberlin perfectionism)


 


 オハイオのオバーリン大学(Oberlin College in Ohio)において、完全主義の明白な焼き印(a distinctive brand)が、アサ・マーハン(Asa Mahan)とチャールズ・フィニィ(Charles Finney)の下に展開された。一時、非常に流行したが、完全主義のこのタイプは、今日ではそのようには影響を与えていない。人間が服従する律法は、原初の完全のアダム的律法であると主張された。この律法の要求は、私心のない親切心と一般的な利己的でない愛である。罪の影響のゆえに、それは、この律法を守ることを不可能にするが、律法の義務は各個人の状態と状況に比例して累進的にされる。個人のすべての責任性は、各個人の意志にある。彼の性格は、それゆえ、一連の意志(by a series of volitions)によって決定される。人の道徳的な身分あるいは状況は、意志の究極的選択によって決定される。道徳的に善い行いは、単純に、意志が善に向けられたときになされるところのものである。こうして、意志が善に向けられる限りは、その人は完全と言われる。意志の方向は、一般的な目的(the generic purpose)と呼ばれる。2つの一般的な目的は人間に存在しないので、各人は全体的に善かあるいは全体的に悪かである。こうして、従順あるいは完全な不従順は唯一の可能な選択肢なのである。従順な人は、彼の能力の量りにおいてのみ従順なのである。彼の能力は、こうして、彼の義務を限定するのである。自分の能力の十分な程度までに従順な人が完全なのである。他方、罪は、律法の自発的な違反なのである。


 


F.ハイヤー・ライフ運動(Higher Life Movement)


 


 ウィリアム・E・ボードマン(William E.Boardman)は、この主題についての彼の見解を表明した「ハイヤー・クリスチャン・ライフ」(Higher Christian Life:「より高いクリスチャン生活」)と名づけられた著作を1859年に出版した。パーサル・スミス(Pearsal Smith)、ハンナ・スミス(Hanna Smith)、セオドール・イェリングハウス(Theodore Jellinghous)が、彼に従う者たちの中にいた。彼は、救いは、分割できない救いであるが、しかし、救いは幾つかの異なったに部分に分割できる。義認と聖化は、それゆえ、不可分であるが、しかし、信仰の別個の行為によって受けれられる分離できる祝福である。こうして、多くの人が義認を受けるが、しかし、聖化を受けない。ボードマンの主な趣旨は、「十分な信頼」(full trust)を通して「十分な救い」(full salvation)である。聖化は、第2の祝福である。聖化は、信仰の瞬間的な行為による聖さにおける完全をもたらすのである。


 ハンナ・スミス夫人(Mrs. Hanna Smith)は、The Christian’s Secret of a


Happy Life「幸福な人生のクリスチャンの秘密」において、より高いクリスチャンの生活を次のように定義する。「その主な特徴は、主への全体的な献身、そして、彼への完全な信頼であり、それは、罪への勝利と霊魂の内側の休息から結果する」(Hanna Smith in The Christian’s Secret of a Happy Life、p.37、ウォーフィールドの「完全主義」において引用されている:New York:Oxford University Press,1932、Vol.Ⅱ.p.535)。彼女は、聖化には2つの部分があることを教えた。それは神側と人間の側である。


 「聖化のために自分自身を神の御腕に置くことは人間の側である。そして、人間を聖化するのは神の側である。・・・『神的秩序において、神が働くことはわたしたちの協力に依存している。わたしたちの主について、あるところにおいて、彼は彼らの不信仰ゆえに力強いみわざを行うことができなかった。それは、彼がしようとしなかったのではなく、できなかったのである。わたしは、神ができないことが真の真実であるとき、わたしたちは、神がしようとしないことをしばしば神について考えるのである。しかしながら、まさに巧みな陶器師のように、自分の手に決して置かれていない土の塊から美しい器を作ることができないように、もし、わたしが自分自身を神の御手に委ねないならば、神もわたしから神の栄光の器を作ることができないのである』」(Ibid,p.538)。


ウォーフィールドはコメントする。「もちろん、ここで考察するべき第一のことは、人間の意志についての全過程の一時停止(the suspension)である。わたしたちは言う。『全過程が、それゆえに、もし、わたしたちが、その目的のために、わたしたち自身を神の御手に真に置かないのであれば、また、置くまでは、わたしたちの上にまたわたしたちにおいて、神が働くことが無力だけでないことが明らかになるが、しかし、ひとたび神が御自身に委ねられたことを、わたしたちの上にまたわたしたちにおいてみわざを始めたとき、神は等しく、わたしたちを御自身の御手に保つことに無力なのである。わたしたちは、わたしたち自身を神に献げなければならないだけでなく、わたしたちは神のうちに留まらねばならない(must abide in him)からである』」(Ibid,p.539)。彼女は、わたしたちの側を本質的に、献げることあるいは信頼する意志の行為として見ている。信頼すると、神が御自身の側のことをしてくださる、すなわち、聖化してくださるのである。神は、わたしたちの意志を取り(take wiils)、それを働かせる(works them)。彼は、わたしたちの意志を取るのであって、わたしたちの心や性質を取るのではない。「それゆえ、結果となる完全は、諸行為の完全であり、心の完全や性質の完全ではない」(Ibid,p.545)。ここに、より高い生活運動(the higher life movement)は、ウェスレイ主義とは違う。ウェスレイ主義は、性格が変化させられたことを主張する。他方、こちらはまさに行為の完全なのである。ここで教えられる完全主義は、知られた罪を犯さないことの完全主義ではない。それは、腐敗した性質の除去を包含しない。腐敗した性質は残るが、クリスチャンは、罪におけるすべての放縦を避けるであろう。


完全主義についてのこの見解は、近代のケズウィック運動(the Keswick movement)において見い出され、そして、今日の多くの福音主義者たち(evangelicals)に非常に影響を与えている。それは神についての低い見解を示す。それは、人間が聖化の最後的な決定者であるという前提を持って、聖化のみわざについてのアルミニウス主義的見解なのである。それは、さらに、救いの全体的な統一性についての聖書の理念を正当に扱うことをしない。


 


G.勝利の生活あるいはケズウィック運動(the victorious life or Keswick Movement)


 


 より高い生活運動(the higher life movement)は、勝利の生活の教え(the victorious life teaching)に組み入れられた。勝利の生活運動に基本的なものは、義認と聖化は、信仰の2つの別個の行為によって達せられる2つの分離できる行為であるという原則である。この見解によって、知られた罪に対する勝利は、信頼の一つの行為によって直接的に、完全に可能であることが主張される。この教えの申し立ては、そえゆえ、そのような勝利への到達のためであり、また、こうして、すべての知られた罪からの自由なキリスト教なのである(ジョージ・マールスデン(George Marsdenh)は、この運動の近代の長老主義への影響を語る。「プリンストン(Princeton)


は、知的に野心のある根本主義のための避難所になってしまった。教授会における戦闘的な保守主義者たちは、幾つかの保留にもかかわらず、契約期分割主義者(dispensationalists)と、また、ケズウィックの聖さの教理(Keswick’s holiness doctrine)についての密接な関係にある擁護者たちとの心からの関係を発展させたのである。ケズウィックの教えは、19世紀における英国のリヴァイヴァリストたちのカルヴァン主義の間において、知られた罪の抑圧についての『勝利の生活』(the victorious life)を強調したのである」(Reforming Fundamentalism;Grand Rapid:William.B.Erdmans Publishing Company,1987,p.32)。


 罪に対する勝利は、わたしたちが、『行きましょう、そして、神に』(¨let go and let God¨ take charge of our lives)わたしたちの生活を引き受けてもらうとき、達成される。勝利の生活は、クリスチャンたちによって生きられるのではなく、クリスチャンにおいて、また、クリスチャンを通して生きられる。その概念は、わたしたち自身のため、明らかにわたしたち自身の行動であるところの代理人(a agent)として、わたしたちの内のキリストが真実な代理人(a true substitute)という概念である。それは、それゆえ、わたしたちの側における完全な静寂主義(a complete quietism)であり、わたしたちが善き行いの事柄におけるすべての努力を止めなければならないこと以上に、何ものも強く要求されないのである」(Warfield、Perfectionism,op.cit.p.587)。


 勝利の生活に先立つ2つの疑問がある。すなわち、献身と信仰である。献身は、「わたしたちが持っているものすべてとわたしたちがイエスに対する支配のすべてを最大限に放棄することである」と定義される」(Idem.)。他のところで、それは、キリストを救い主としてだけでなく、わたしたちの主として受け入れることと呼ばれる。「それは、わたしたち自身をまったく彼の意のままにすることである。キリストは、このことがなされるまでは、わたしたちに対して何もできないと言われる。しかし、『わたしたちが、この完全で無条件の献身をするや否や』、『キリストは、わたしたちの内に住む全責任を彼の充満さにおいて即座に取るのである』(Idem.)。わたしたちの内におけるキリストのみわざは、すべての知られた罪の力に対して『奇跡の力』(the miracle-power)に結果し、わたしたちの内に御霊のすべての実を産み出すのである」(Ibid.p.588)。このことは、ほとんど完全それ自身なのである。


 単純な事実は、救い主としてのキリストに信頼する生活は、主人としてのキリスト完全に献身するときはいつでも、そのとき、キリストは、その生活を完全に支配し、その生活を彼御自身で満たすのである・・・わたしたちが、献身し、完全に信頼するとき、わたしたちは自分に死に、そして、キリストが、文字通りに、わたしたち自身と入れ替わるのである。こうして、最早、わたしたちが生きるのではなく、キリストが御自身の人格においてわたしたちの内に生きるのである、文字通リに、現実の人格的な臨在において、わたしたちの全存在を御自身で満たすのである。そして、彼はこれを言葉の比喩(the figure of speech)として行うのではなく、わたしたちが自分を衣服で覆うように、まさに文字通リに行うのである。もし、このことが事実であるならば、もちろん、何故、わたしたちは罪を犯すことも、罪への衝動を感じることができないのである。キリストは、わたしたちをわたしたちのすべての行為における俳優として取って代わったのである。実際、『わたしたちは残されていないのである』」。わたしたちの場所はキリストに取られたのである・・・」(Ibid,p.602)。


 ウォーフィールドは、それゆえ、如何にして、わたしたちがキリストを信頼できないで、わたしたちの完全な献身から身を引くことが、可能であるかを指摘していて、それは、トラムブル(Trumbull)が教えるところのことが、わたしたちの勝利の生活を取り去ってしまうのである。


 この関連において、キリストの内住についての適切な聖書の教えの優れたウォーフィールドの扱いに注目すべきである。「キリストは、わたしたちの存在を御自身の存在に沈めてしまう目的のため、わたしたちに内住するのではないし、また、わたしたちの活動における代理として、わたしたちのために、御自身を代理にしもしない。まして、わたしたちの意志をつかまえて、わたしたち自身の内在的な意志に反して、わたしたちの意志を操作したりはしない。かえって、わたしたちの行いが、わたしたちによって自由に行われ、彼の継続的な導きの下で善となるように、わたしたちが善を行うように直接わたしたちに働くのである」(Ibid,p.602)。


 聖化についてのこの扱いをアップデートするために、彼らの人格的な影響と生活が今、生きている多くの人にとって貴重であるところの現在、生きているか、あるいは、最近、栄光に満たされたかの何人かの個人と幾つかのグープについて語ることが必要である。この議論に入る前に、幾つかの例が適切である。最初に、著者(the author)はクリスチャンたちとしてのこれらの個人たち対する、また、主のための彼らの労苦に対する彼の人格的な感謝を表す。神は、彼らの奉仕を通して多くの人々を祝福することをよしとしたことは、神の恵み深いみわざとして、感謝をもって承認される。


 このことを言ったので、それにもかかわらず、彼らは、この教理の改革派の理解と違うところの聖化についての見解を持っていたことが宣べられねばならない。わたしたちは、彼らの見解を、改革派神学の見解と対照させて吟味し、そして、それから、何がこの教理についての最善の理解かを決定するために、聖化についての聖書の教えを吟味するであろう。というのは、そのように多くのクリスチャンたちが、聖化にいてのこれらの見解を無批判に受け入れるので、そのような立場の弱さが指摘されることが重要なのである。


 この著者の希望は、わたしたちが、敵意と憎しみなしに、仲間のクリスチャンたちと異なることができることである。むしろ、愛において、真理を提示することがわたしたちの願いである。わたしたちの恵み深い神が、すべての人をもっとオープンに聖書に直面させて、それがどのようなものであれ、わたしたちの精神がその教えの前に頭を下げるようにしてくださるために、そのような違いを用いてくださるように。


 ロバート・マッククイルキン(Robert McQuilkin)は、彼は勝利の生活の概念を教えたが、ウォーフィールドによって批判され、彼の死後出版された「神の律法と神の恵み」(God’s Law and Giod’s Grace)という著作において、ある修正をしたように思われる。この著作において、彼はクリスチャンについて言う。「わたしたちの罪はキリストに置かれた。彼は、わたしたちの罪を除くため、死んで葬られた。わたしたちは生けるキリストに結合されたのである。これが、救われたとき、どのクリスチャンにも起こったところのころである。わたしたちは、わたしたちの無知を除かれtのであり、そして、それを知ったのである。わたしたちはそれを考慮する。わたしたちは、わたしたちの生活をキリストの支配に委ねるのである。


 それは、わたしたちがすべきことはもう何もないことを意味するのか。


 わたしたちは罪から解放された。わたしたちは、律法から解放された。わたしたちは、わたしたちが留め置かれていたところで死んだのである。このことは、わたしたちが罪なしになったことを意味するのか。このことは、わたしたちが、最早、律法と関係がないことを意味するのか。ローマの信徒への手紙の7章が答えである。クリスチャンの贖いは、それはキリストにおいて確保されるものであるが、わたしたちがキリストのような体になるまで、完成しない。キリストとの結合が完全になるまで、完成しないであろう。そのとき、ことごとくの思いにおいて、言葉において、行為において、聖霊によって支配されるであろう。しかし、今は、わたしたちは、死に服している体において生きていて、この体は罪が住む体である。わたしたちは、なお堕落した性質を持つであろう・・・神の高い要求のすべてを満たすのに、わたしたちの罪とわたしたちの堕落についての認識は、絶望をもらしはしないのである。それは、恵みから分離した絶望というものを持たらすであろう・・・クリスチャンのための勝利の生活が伴う-罪のない生活ではないが、しかし、勝利の生活である。何故なら、わたしたち自身のものではない、聖霊の力によって生きる生活である。これが、恵みによって生きることによって意味されるところのことなのである。 


 贖いは、わたしたちが彼の体のようになるとき、キリストの来臨までは完成しない。とはいえ、わたしたちは、栄光化されていないのである。


 こうして、2つの選択肢を持つのである・・・肉に従って生きるか、あるいは、御霊に従って生きるかである。もちろん、人が肉に従って生きるならば、彼は救われない。彼は肉にある。しかし、わたしたちは、肉にあるのではない。わたしたちは御霊にあり、もしそうならば、神の御霊がわたしたちに内住するのである。しかし、神の律法からの逸脱は、そのその度合いに応じて肉の中を歩くことなのである。何を、わたしたちはすべきか。わたしたちは体の行うことを死に至らすべきである。これが勝利の生活である。しかし、わたしたちは体の行うことを死に至らすことができない。御言葉は言う。「もし、『御霊によるならば(if ye by the Spirit)、体の行うことを死に至らせることができるのであり、あなたは生きるであろう』」。


 これはより高いクリスチャンの生活はない。これは、特別な第二の段階(not some second degree)のキリスト教ではない。これは、通常のクリスチャンの生活のための神の備えなのである。しかし、クリスチャンがこの驚きを見る目を開くとき、それは、多くの人々にとって第二の回心のように来るのである。それは本当に恵みの第二のみわざと見える。それは、単に、わたしたちがわたしたちの目を開き、そして、わたしたちの無知を振り払って、これがクリスチャンの生活を送るための神の御計画であることを見ることなのである」(R.McQuilkin,pp.88-90)。


 マッククイルキンの聖化についての見解は、勝利の生活についての彼の以前の叙述から少し変わったように見える。彼は、ここで、漸進的な聖化(a progressive sancyification)について語っている。彼は、肉を殺すこと(the mortification of flesh)を語るとき、「勝利」(victory)という言葉を使い続けている。彼は、特に、全的完全主義(a total perfectionism)を否定する。概して言えば、勝利の生活を教えるところの人々の多くは、この立場に同意し、そして、全的完全主義に教える意図を否定する。


 思想のこの学派の他の代表たちは、この事柄に関してさらにもっと十分に意味を押し進めるが、彼らについてウォーフィールドは批判的である。たとえば、ウォッチマン・ニー(Watchman Nee)は、「通常のクリスチャンの生活」(The Normal Christian Life)という書名の彼の著作において、聖化についての第二の祝福を教えている。「啓示は聖さの最初のステップであり、また、聖別(consecration)は第二のステップである。わたしたちが、わたしたち自身に属するすべての権利を放棄して、イエス・キリストの絶対性に服従するとき、わたしたちの回心の日として明確なものとして、日がわたしたちの生涯において来なければならない。わたしたち自身とわたしたちが持っているものすべては、キリストのものとなり、今後は、まったくキリストの意のままになる。その日から、わたしたちが、最早、主人ではなく、仕え人にすぎない。キリストの主性がわたしたちの心において定着したことになるまでは、御霊はわたしたちの内において十分効果的に働くことはできない。御霊は、わたしたちの生活のすべての支配が御霊に委ねられるまでは、わたしたちの生活を導くことができない・もし、わたしたちが、御霊に絶対的権威をそこで与えなくても、御霊は臨在するが、しかし、御霊は力を振るうことができない。御霊の力は、留まったままである。


 そのような叙述は、著者が神についての低い見解を持っていることを示す。人間が神よりも力強い(more powerful)のである。神の律法についてのウォッチマン・ニー(Watchman Nee)の見解も疑問である。それは、律法を与えることにおいて不正直なもの(dishonest)としての神を表している。


 「わたしたちが、律法を守ろうとすればするほど、わたしたちの弱さが明白であり、わたしたちは絶望的に弱いことをわたしたちに示すまで、わたしたちはより深くローマ7章に入っていくのである。神はそのことをすべて知っているが、しかし、わたしたちは知らないし、また、そうして、神はわたしたちを痛い経験を通してその事実の認識に連れて行くのである。わたしたちは、議論の余地なく、わたしたち自身に証明されているわたしたちの弱さを持つのである。これは、神がわたしたちに律法を与えた理由である。


 そこで、わたしたちは言う。うやうやしく、神は、律法を守るために、わたしたちに与えたのではない。神は、わたしたちが破るために、与えたのである!神は、わたしたちが律法を守れないことを知っている。わたしたちは、それほど悪いので、神は行為も求めないし、要求もしない。どの人も、律法によっては、自分自身を神に近づけることに成功しないのである」(Nee,Watchman,The Normal Christian,:Fort Washington:Christian Literature Crusade,1969 pp.106-107)。


 再び、聖化についてのウォッチマン・ニーの見解を吟味するとき、わたしたちは、わたしたちが勝利の生活の他の反対者たちにおいて見たところの同じ類の疑問を見い出すのである。律法から解放されることは、日々の生活において何を意味するのか。少しばかり大げさに言えば、わたしは次のように答える:それは、わたしは、今後、神のために何事もしないことを意味する。わたしは、神を喜ばせることを決して試みない。『何という教理だ』!とあなたは叫ぶ。『何という恐ろしい異端だ!』。あなたは、おそらくそれを意味することはできない」。


 しかし、思い出しなさい。もし、わたしが、『肉において』(in the flesh)神を喜ばせようとするならば、そのとき、直ちに、わたしは自分自身を律法の下に置くのである・・・『あなたたちの内に働くのは神である』(It is God which works in you)。律法からの解放は、わたしたちが神の意志を行うことから自由になることを意味しない。それは、確かに、律法なしなることを意味しない・まさのその反対である!。しかしながら、それが意味するのは、わたしたちが、自分自身で、その意志を行うことから自由であることである(we are free from doing that will as of ourselves)。わたしたちが律法を行うことができないことを十分納得したので、わたしたちは、『古い人の根拠から』(from the ground of the old man)神を喜ばそうとすることを止める。ついに自分自身に完全な絶望の点に到達したので、わたしたちは、そうすることを止め、わたしたちの内に復活の命を現わすために、わたしたちは信頼を主に置くのである・・・神の要求は変わらないが、しかし、わたしたちはそれらの要求お満たす者たちではないのである。神を喜ばせよ、神は御座にいます律法付与者であり、また、神はわたしたちの心における律法順守者(the Lawkeeper)なのである。律法を与えたお方が、律法を守るのである。神は要求するが、しかし、満たしもするのである」(Ibid,pp.110-112)。


 ウォッチマン・ニーは、多くの福音主義者たちの間に広い影響を及ぼした。彼の著作は広範囲に売れた。彼はいろいろなグループに語ったので、近代のキリスト教世界に広範囲の影響を与えた。たとえば、彼の「通常のクリスチャンの生活」(The Normal Christian Life)は、「クリスチャンの円熟に向かう10の基本的ステップ」(the Ten Basic Steps Toward Christian Maturity)のための教師たちのマニュアルにおいて、ウィリアム・ブライト(William Bright)による承認をもって引用さている。これは、「国際キリスト・キャンパス・クルセード」(the Campus Crusade for Christ International)のための教師のマニュアルである。その個所は言う。「聖化の一般的な概念は、生活のどの条項も聖くあるべきであるが、しかし、それは聖さではなく、聖さの実なのである。聖さはキリストである。それは主イエスがわたしたちの内になされることである」(「通常のクリスチャンの生活」:「教師たちのマニュアル」における引用として)。この「教師たちのマニュアル」(Teachers’ Manual)においてなされているこの引用と他の引用から、キャムパス・クルセード(the Campus Crusade)によって作用されている聖化についての見解は、勝利の生活の見解と同じである。たとえば、アンドリュウ・マーレー(Andrew Murray)が、次のように引用されている。「彼は、わたしを執り成すために天国に住んでいるのではない。否!。「キリストはわたしの内に生きている」(Christ lives in me)(Ibid,p.73)。


チャールズ・トラムブル(Charles Trumbull)が言うこととして引用されている。「わたしは、人は単に罪と罪を犯すことからから救われることを意味していない。わたしは、その勝利よりも以上のよりよいことを意味しているのである・・・(イエス・キリスト)彼は、わたしたちを通して、わたしたちが彼のみわざをなさせるように望んでいて、わたしたちをわたしたちが書くための鉛筆を使うようにわたしたちを使うのである・・・さらによりよく、わたしたちを彼の手の指の一本として使うのである。わたしたちの生活がキリストだけのものでなく、キリストであるとき、わたしたちの生活は勝利の生活になるのである。というのは、彼は失敗することがあり得ないからである」(Ibid,p.71)。叙述のこのタイプは、確かに全的完全主義(a total pefectionism)を意味している。


 多くの近代的な福音主義的クリスチャンたちによって主張されているこの見解の一部は、クリスチャンは、最初にキリストを救い主として受け入れ、そして、その後、主として受け入れるのである。ビル・ブライト(Bill Bright)は、トラムブル(Trumbull)をこの趣旨で引用している。「こうして、生活の充満としてキリストをこのように受け入れることの条件は、単純に2つである―当然、わたしたちの救い主としてのキリストの人格的な受け入れの後で―わたしたちの罪責(guilt)と諸結果から―彼が流し血と死を通して、わたしたちの身代わりと罪の担い手として受け入れるのである。


 


1.わたしたち自身とわたしたちが持っているすべてのものの支配者として、絶対的に無条件でキリストに献げよ。そして、わたしたちは、どのような犠牲を払っても、どの点においても、今や、神のすべての御意志がわたしたちの全生活において行われる準備ができていると神に告げよ。


 


2.神は、わたしたちを、罪の律法から完全に解放したことを信じよ(ローマ8:2)―これを望んだのではなくて、これを行ってくださった(not Will do this,but Has done it)。


 


 この第二ステップにおいて、信仰の静かな行為に、今や、すべてがかかっている。信仰は、何の感情や証拠の完全な不在において神を信じるのである(Ibid,p.80)。


 


 ここに、わたしたちは、キリストを主として受け入れることなくして、救い主として受け入れ、そして、それから、信仰の第二の行為によって、わたしたちはわたしたち自身を主に服従させるのである。この見解の基本的な問題の一つは、聖化は再生と共に始まり、そして、生涯を通して進展してくものであるという事実を考慮することに失敗していることである。この見解は、聖化を人間の信仰の第二の行為(a second act of man’s faith)の結果とすることを求めている。再生と救いのみわざにおける神の主権的な恩恵についての理念を拒否する多くの人々が、今や、聖化を人間の活動に何の関係なしにまったく神のみわざとしようとしていることは興味深い。人がなすように召されいることは、神にさせる(¨let go and let God¨ do it)ことである。わたしたちの内に生きるのはキリストであり、わたしたちが彼の力によって生きるのではないのである。


 聖化についてのこの見解は、クリスチャンの生活を2つの構成要素に分割する、すなわち、肉的なクリスチャンの生活(the carnal Christian life)と霊的クリスチャンの生活(the spiritual Christian life)である。ブライト(Bright)のハンドブックに見いだされる肉的なクリスチャンの生活についての記述は、最も不安にさせる。彼は、肉的なクリスチャンについてのルース・パックスソン(Ruth Paxson)の定義を承認して次のように引用する。


 「肉的な人は、キリストを救い主として受け入れたが。しかし、完全な献身の生活について少ししか、あるいは、まったく理解していない、また、自分の主であり自分の命としてのイエス・キリストへの十分な理解もない。キリストは、彼の心に場所(a place)を持つが、しかし、主権と至高の場所(the place)を持っていない・・・彼は2つの領域で生きることを企てる、すなわち、天上的な領域と地上的な領域である―そして、彼は両方において失敗する」(Ibid,p.114)。


 ブライト(Bright)はさらに言う。「ガラテヤ5:19-20は、イエス・キリストの代わりに、わたしたちの古い罪深い性質に支配させることから結果する習慣を挙げている」(Idem.)。


 彼は、含まれるいろいろな罪を挙げている。それらを、彼は肉のクリスチャンが犯すところのものと主張している。それらは、性の領域において、姦淫、わいせつ、好色、宗教の領域においては、偶像礼拝、魔術、人格的な領域においては、憎悪、憎しみ、争い、怒り、不和、仲間争い、ねたみ、セルフ・コントロールの領域においては、泥酔、酒宴である。これが肉的なクリスチャンの記述であると主張することは、パウロが、そのようなことをする人々について『ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません』と言っていることを認めることに失敗している」(ガラテヤ5:21)。パウロは、確かに、クリスチャンたちを描いていない。彼は、御霊において歩んでいない人々について語っているので、それゆえ、彼らはクリスチャンたちではないのである。


 そのような教えは危険である。というのは、彼がどのように生きようとも、人がキリストに対して決断したから、彼は、それによって、天国に入れることが保証されたと考えることに導くからである。それは、聖化なくしては、「だれも主を見ることはできません」(ヘブライ12:14b)という御言葉の明白な教えを考慮することに失敗している。ブライト(Bright)は、この肉性(this carnality)に解決を与えるため、霊性(spirituality)に3つのステップを与えるのである、すなわち、告白、献身、信仰である。ここに、わたしたちは、聖化は、信仰の行為によって本質的に到達されるという理念を再び見るのである。


 ブライト(Bright)とキャンパス・クルセード運動(the Campus Crusade Movement)に公平に言うならば、聖化についてのその見解においては、あたかも彼らは全的完全主義を主張するかのように、健全な要素もあるが、でも彼らはそのようなものへの信仰を否定する。「地上におけるクリスチャンの生活は、勝利の生活であるが、わたしたちは完全ではない」(Ibid,p.175)。ブライト(Bright)は、完全のこの欠如は、わたしたちの生活において支配する古い罪の性質についてのわたしたちの許容によるという事実を語ることをさらに求める。こうして、わたしたちは敗北を経験する。しかながら、彼は、わたしたちは、そのような失敗から自分自身をきよめることができ、そして、全的勝利に動くことができると主張しているように思える。彼が、神の武具について語るとき、そこで、パウロは、わたしたちの格闘とわたしたちの立場について語っているが、ブライト(Bright)は、格闘しているのはわたしたち自身ではなく、キリストであるという見解をそれに課している。「わたしたちは、もし、わたしたちが、キリストがわたしたちのために戦うことを許するのでなければ、戦いに勝利を期待できない。良い兵士になるために必用なものはすべて揃っている。イエス・キリストである。勝利の秘密は自己に死んで、キリストに生きることなのである」(Ibid.p.181)。これが、使徒が信者たちにクリスチャンの武具で守って、邪悪な力に神の力によって、キリストの力によって、対抗するように勧めている個所について、聖化についての勝利の見解に課せられたことであるが、しかし、それにもかかわらず、それはわたしたちの人格的な活動なのである。勝利の生活の見解は、わたしたちが、わたしたちの聖化において、静寂的でなく(not just quiet)人格的に活動的であることを考慮することに失敗している。


  わたしたちは、マッククイルキン(McQuilkin)とブライト(Bright)のような人々のこれらの引用から、聖化についての改革派の見解とは違うことを見る。そのような批判は、彼らの教理的な見解についての分析において必要であるが、これらの人々がクリスチャンたちではないことを示唆する意図ではないことを言わせてもらおう。また、彼らの方法、彼らに従う人々の多くにおいて、真に敬虔に生きることを促進しないことを示唆する意図でもない。疑問は、方法が作用するかしないかでなくて、それが聖書に一致するかしないかである。この著者(スミス)の確信は、「より高い生活」(Higher Life)、「勝利の生活」(Victorious Life)、キャンパス・クルセード(Campus Crusade)のような運動に見い出されるより近代版(the more modern version)は、聖化についての聖書的な教えの最善の解釈ではない。わたしたちは、この章の今後の部分において、この教理についての積極的な聖書の教えを考察するであろう。しかしながら、これを行う前に、わたしたちは、これまでに表明された完全主義についての諸見解のすべてについての一般的な批判を提示しよう。


 


H. 全主義についての種々の見解についての批判


 


1.ペラギウス主義以来、全主義についてのすべての見解は、反律法主義的偏向(an antinomian bias)を持っている。それらのすべてが、神の律法の十分な要求を割引する。律法は、神の聖さの表れである。完全主義の枠組みのほとんどは、堕落した人間に律法を合わせている。罪は、知られた罪によって定義されている。


 これらの見解は、律法の霊的性格を考察することに失敗している。イエスが、山上の説教において明らかに律法を示したように、神の律法は人間の意志的な活動と同様に人間の心の最も内奥の欲望も考慮に入れている。神の審判は、外側の行為のように、人間の心の内面的な状態にまで十分依拠している。もし、律法の要求が外面的なことに限定されるならば、完全を要求することはた易い。これがファリサイ派の罪である。


 


2.これらの見解においては罪についての欠陥的な見解もある。罪は、知られた律法の意志的な違反として定義される。この見解によれば、もし、意識的に故意に罪を犯すことがなければ、真の罪はあり得ないのである。わたしたちが今、注目したように、これはわたしたちの心と精神の状態を考察にいれていない。それは、わたしたちの罪深さの霊的性質を考慮することに失敗している。


 


3.これらの見解のすべてに自己満足(a self-complacency)がある。もし、わたしたちが、わたしたち自身の良心を罪の測りとするならば、わたしたちが罪として考えたくないものを、罪として認めることを拒否することは、た易くなる。その傾向は、人々が、わたしがしたことは正しい、何故なら、わたしがしたからであると考えるとき、より極端になる。こうして、わたしたちは、完全を主張する人々は、彼らは最もしばしば無礼な自負心、自己義認、見勝手の罪があり、それは主の目に忌み嫌われるものであることを見い出す。彼らは彼らの行為を彼ら自身の根拠において罪と考えないので、彼らは何事も正しいとすることができるのである。神の聖さと誉れに熱心な信者は、キリストのかたちに完全に達していないことに安らぐことをしない。この一致に達していないことは、真に謙遜なクリスチャンを満足させないのである。


 


4.ウェスレイ派(Wesleyan)、高い生活(Higher Life)と勝利の生活(Victorious Life)の見解は、今日、より影響的である。彼らはすべて義認と聖化を分離し、それらは2つの別個の信仰の行為によって実現される。救いのこれらの2つの局面は、鋭く区別されるべきであるが、しかし、それらを分離できると見なすことは聖書的ではない。信者は、救いのためにキリストを受け入れる。救いは、まさに義認の行為ではないが、しかし、罪の罪責から解放すると同様に罪の力からの解放を包含する。パウロは、キリストにある者は、誰でもキリストと共に死んだのであり、また、もし、死んだなら、罪の力に対しても死んだことを、教えている。もちろん、異なったクリスチャンにおける聖化の程度は変わるが、しかし、わたしたちがキリストに結びついたとき、 聖化の過程はどのクリスチャンにおいても始まっている。聖化は第二の祝福ではなく、救いに伴う分けられない祝福の一つなのである。


 


5.これらの見解の3つのすべては、聖化を、わたしたちが罪を犯すところからの自由にされることに到達する行為と見なす。この自由は、信仰によって達成される。とはいえ、これらの3つすべてにおいて、性質の腐敗が残る。それは根絶されない。キリストの福音は、わたしたちの行為と同様にわたしたちの性質を包含して、キリストのかたちへのわたしたちの完全な一致を保証する。もし、彼がこのことを過程によって(by process)達成することを選んだとしても、キリストへの不名誉ではない。世界のための彼の救いの究極的目的は、最終的には時間の終わりにのみ達成されるのである。何故、個人の達成が、過程のこの同じ類の再生産であるべきではないのか。


 


6.これらの見解の3つのすべては、聖化は信仰のみによってもたらされると教える。聖書は、恵みのことごとくの種類は、聖化の過程における奉仕にもたらされるのである。


 


7.勝利の生活の見解は、知られた罪を前提している。それは、腐敗した性質は根絶されないし、また、人格は知られた罪から自由である。すなわち、心がまだ完全には聖化されていないが、しかし、知られた罪からは自由なのである。疑問は、如何にして、このことが可能かである。腐敗した性質はあるが、しかし、人格はそれがあることを意志していないことが示唆されている。このことは、信者は自分に罪があることを意味するが、しかし、意識していないことを意味する。他方、人格は自分の腐敗した性質を意識しているが、しかし、すべての意志的な罪から自由であると主張することが示唆されていよう。そのような人格は偽善者かあるいは自己欺瞞かである。


 ここで、2つの誤りがある。最初に、罪についての意志的な行為の夢中(the preoccupation)がある。第2に、意志を性格と分離する誤った心理学がある。そのような見解は、聖化についての聖書的な教えを考慮することに失敗している。すなわち、すべての罪について完全な根絶があるということを考慮することに失敗している。すべての行為がそこから流れてくるところの、、また、そこにおいてすべての悪が住むところの心の聖化があらねばならない。木は善ければよき実を結ぶ、あるいは、木が腐っていれば、腐った実を結ぶ。聖化の主な問題は、わたしたちの諸行為の源泉である心の清め(the cleansing of the heart)である。これが、レビ記5:17の明白な教えである。「過ちを犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破った場合、それを知らなくても、責めを負い、罰を負う」。それが、罪人の意識的で意図的な行為でないからという根拠における罪の言い訳はない。聖化におけるそれらの進展は、外面的な行為についてよりも以上に心の悪についてより関心があるのである。ウォーフィールドは言う。「罪自体の救出が―わたしたちを罪人とする心の腐敗であるが―視野から外れることを許容することに関して、罪の罰からと罪の継続的な行為からの救出に焦点を当てることは、致命的に不適切な概念である。罪の行為からの救出に一面的な強調を置くことは―特に罪のこれらの行為が知られた『律法の意図的な違反』(deliberate transgression of known law)への定義によって―どのクリスチャンの心も満足させない余りにも貧困に打たれた概念なのである。クリスチャンたちは、彼らの主が自分たちをすべての局面における罪、その罰、その腐敗、その力から救うためにこの世に来られたことを知っている。彼らは、この完全な救いのためにキリストを信頼する、そして、彼らは、それを彼から充満において受けることを知っている・・・実際に罪を犯すことことから自由にされて、罪人を罪人のまま保持することは、貧弱な救いであろう。そして、それは、魂を救うことにおいて、聖霊が働く方法でないという事実の点においてである。聖霊は、わたしたちの意志の所有をして働くのではない・・・こうして、わたしたちの罪深い心にもかかわらずである。わたしたち命の現われとして一連の善き行いを産み出させ、また、それによって、わたしたちの真の性質をその現われにおいて偽るのである。聖霊は、わたしたちの罪深い性質をまさにいやすことによって、わたしたちが罪を犯すことをいやすのである。聖霊は、実が善い実であるように木を善くするのである。換言すれば、聖霊はわたしたちが罪を犯すことから救出するのは、わたしたちの罪深さ―「わたしたちの心の腐敗」(the corruption of our heart)―をまさに根絶することによってなのである(Op.cit.pp.57-580)。


 完全主義についての種々の見解のこの批判を去る前に、ここにおいて表明された反対は、聖さに対する反対ではないことが考察されるべきである。むしろ、それは、真の聖さへの関心から生じ、そして、見せかけでなく、あるいは、見せかけの聖さではない。わたしたちは、神の吟味の純粋な光を立てるであろう聖さに関心があるのであって、それ以外ではないのである。


 


Ⅱ.聖化についての聖書的な教理


 


A.  聖書の用語


 


「聖さ」(holiness)と「聖化」(sanctification)という言葉は、わたしたちの英語の聖書においては、同じヘブイライ語のקדש:quodesh:コーデシュとギリシャ語のáγιασμός:hgiasumosu:ハギアスモスを訳すために用いられる。これらの言葉を理解するために、それたについての聖書の使用を吟味することが必要である。


 


1.  何かの道徳的な力が必然的に意味されることなしに、取って置くこと(to set apart,without any moral force necessarily implied)


 


  わたしたちは、取って置かれることという(to be the setting apart)それらについての一般的な使用法を見い出す。たとえば、安息日は、他の日々から取って置かれた。幕屋と神殿を備えたこともそうである。イエスは、、御自身との慣例において「取って置くこと」setting apart)のこの意味において、それを使った。「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」ヨハネ17:19)。それゆえ、そのありのままの形態においては(to set  apart)は、聖化についての何かの道徳的な力が必然的に意味されることなしに、「取って置くこと」を意味する。


 


2.  道徳的な力の場合


 


 他方、その言葉が、単なる取って置くこと以上を意味する明らかの個所がある。ここには、聖化の道徳的な力と清めが含まれている。たとえば、民数記6:8は、ナジル人たちが言っていることに関して語っている。「ナジル人である期間中、その人は主にささげられた聖なる者である」。「聖い」(holy)という言葉は、単なる分離(just separation)以上のことを意味しているに違いないことは明らかである。その理念は、「ナジル人である期間中」(all the days of his separation)という前半の句に含まれている。わたしたちは、新約聖書に、同様の使用法を見い出す。そこでは、ヘブライ7:26において、わたしたちは、「このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです」というイエスについての記述がある。ここでは、「聖さ」は、特に、後に一覧表で挙げられる「分離」(separation)以上のものを伝えているに違いない。その用語の道徳的な力は、律法の描写におけるその使用にもたらされている。「こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです」(ローマ7:12)。「聖い」という用語は、再び、テトス1:8における道徳的な資質の一覧表のいて見い出される。「かえって、客を親切にもてなし、善を愛し、分別があり、正しく、清く、自分を制し」。「聖い」あるいは「聖化」という用語によって伝えられる道徳的な資質は、汚れと正反対において見られる。「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい」(ローマ6:19)。


 より特別に清め(cleansing)についての理念は、聖化についての理念に包含されている。「主はモーセに言われた。『民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ』」(出エジプト19:10)。「だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです」(テモテ二2:21)。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。


 5:26 キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした」(エフェソ5:25-27)。「なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」(ヘブライ9:13-14)。


  特に興味深いのは、レビ記8章において描かれている祭司の聖別(the consecration)せある。というのは、ここに、わたしたちは、聖化が幾つかの異なったなった意味で使われているのを見るからである。最初に、水の洗いによる祭司たちの聖化がある(6節)。これは、再生の洗いの型である(テトス3:5)。第2に、血の適用が、この同じ用語によって言及される(30節)。これは義認の型である(ローマ5:9)。それから、この用語の下に包含されもする油注ぎ(the anointing of oil)がある。これは、もちろん、聖霊の注ぎに言及する(ヨハネ一2:20、27)。


 再び、クリスチャンたちの場合において、その用語は、聖なるものとしてクリスチャンたちが神に取って置かれることに適用されている(ヘブライ13:12、テサロニケ二2:13)。第2は、聖いことの状態と状況は、その用語によって聖なる者であることが示される(コリント一1:2、エフェソ4:24)。第3に、個人的な聖さ(the personal sanctity)と信者の聖なる生活がこの用語で呼ばれる(ルカ1:75.ペトロ一1:15)。


 ジョン・オーエン(John Owen)は、聖化という用語についてのよき総括をしている。「清め(purification)は、内面的な真の聖化(internal real sanctification)の適切な概念である。汚れていることと聖いことは絶対的に、普遍的に反する。罪から清められていないことは、聖くない人についての表現であり、清くされていることは、聖い人についての表現である。この清めは(this purification)は、聖化(sanctification)のすべての原因であり、手段である。聖化が、まったくそこにあるというのではないが、しかし、最初に、そして、必然的にそれは、そのために要求されるのである。『わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める』(エゼキエル36:25)。清い水がわたしたちに注がれることは、わたしが前に明らかにしめしたように、意図された目的のために、わたしたちへの御霊のまじわり(the communication of the Spirit)なのである。それは、それゆえ、彼は『水』(water)あるいはそれに例えられることが明らかにされている。次の節は、意図されているのは神の御霊であることを明らかに示している。「わたしがわたしの霊をあなたたちの内に置いて、あなたたちをわたしの定めの中を歩ませる」。そして、こうして、彼が最初に約束されたものが、罪の腐敗からわたしたちを清めるのであり、それが自然の順序で、約束されているのである」(A.W.Pinkの「聖化の教理」The Doctrine of Sanctification: Grand Rapids:Baker Book House,


1955 p.21)において引用されている)。


  K.F,W.プリオールは、彼の優れた小さな本の「聖さへの道」(The Way of Holiness)において、聖化という用語の意味に関する彼の発見を次のように要約している。「今や、キリウト教神学は、これらの言葉(『聖さ』(holiness と『聖化』(聖化)をクリ


スチャン生活を土台となる基本的教理の一つと常に見なしてきた。聖化は、クリスチャン生活が置かれる種々の局面の下に見出しとなってきたのである。恵みにおける成長、罪に対する勝利、信者の心における聖霊の現在の内的みわざ、クリスチャンの性質の変容がそれらの見出しにある。その個所がこれらの言葉を含んでいなくてさえも、聖書における多くの言及がこの関連において引用される。もし、わたしたちが、聖化に含まれる一連の真理の明白な要約を望むならば、その教理の叙述は長老教会によって公的に主張された教理であるウェストミンスター教理問答において与えられている定義よりも上回るものは難しいであろう。聖化は、『神の自由な恵みのみわざであり、それによって、わたしたちは神のかたちに従って全人において更新されていくのであり、また、ますます罪に死に、義に生きるようにされるのである』」(K.F.W.Prior,The Way of Holiness:Chichago:Interversity Press,1967 pp.8-9)。


 パウロは、クリスチャン生活に対する指示をテサロニケ一5章において「平和の神御自身があなたがたを全く聖ななる者としてくださいますように」という言葉をもって要約している(テサロニケ一5:23)。ジョン・オーエン(John Owen)は、この説について、このようにコメントしている。「その理由は、クリスチャンたちが享受したきたすべての恵みと義務は、彼らの聖化の属していた」(John Owen,Works of Owen:Lomdon :Banner of Truth Trust,1955、Vol.Ⅲ,On the Holy Spirit.p。220)。ペトロも、どのクリスチャンに対しても聖さを求めている。「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」(ペトロ一1:15)。


 それゆえ、聖さは、クリスチャンの特徴的なしるしである。それは、神の選びの主な目的の一つなのである。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(エフェソ1:4)。あるいは、パウロがローマの信徒たちに書いているとき、「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです」(ローマ8:29)と言っているようにである。さらに、それは、どのクリスチャンに対する区別のない命令である。その命令は、教会のどの人々にも(to rank and file)に対するものであり、使徒たちが書いているある特別な宗教的秩序のメンバーに対してではないのである。神の御心は、「あなたがたが聖なる者となることです」(テサロニケ一4:3)。


 


B.聖化についての聖書的教理


 


1. 聖化は、救いの必然的な部分


 


 聖書は、聖化は義認から分離できるという理念に保証を与えていない。むしろ、聖書は、聖化は救いの不可欠な必要な部分であることを教える。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」(ヘブライ12:14)。


 


2. 聖化は、召命と再生と共に始まる


 


 聖化は救いの不可欠の部分であることを強調するが、聖書は、救いの過程には種々のステップがあり、また、聖化はこれらのステップの最初ではことを教えている。聖化は、召命、再生、義認、子とすることなどの「救いの秩序」(ordo salutis)の他のステップを前提している。これらのステップの二つは、特に聖化に関係している。というのは、そっらは、すべて神の行為であり、あるいは、わたしたちの内におけるみわざである。それらは、再生と召命である。再生は、罪人を更新する神のみわざである。それらは、再生と召命である。再生は、人間の無意識下のレベルのでの神のみわざである。召命は、意識的なレベルへの語りかけであり、それは有効であるとき、召命は悔い改めと信仰の応答を引き出すのである。「わたしたちがキリストに結びつけられるのは、召命によってであり、召命は、神の民をそれによって彼らが聖化される効果と徳に結びつけるキリストとのこの結合なのである。再生は聖霊によってなされる(ヨハネ3:5、6、8)。また、神の民のこの行為によって、聖霊によって内住される(become indwelt)。彼らは、新約聖書の用語である「霊的」(Spiritrual)になるのである。聖化は、特に聖霊のこの内住と方向づけ(this indwelling and directing)のみわざである」(Murray,Redemtion,op.cit.p.141)。


 


3. 決定的な聖化(definitive sanctification)


 


 こうして再生され、召命されたどの信者も、聖書においては、キリストと彼の死、葬り、復活において結びつけられたものとして表明されている(ローマ6:3-4)。わたしたちすべてが、罪に対する勝利を受けたものとして宣言されている「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」(ローマ6:14)。そのようなものとして、わたしたちは、わたしたちを罪に死んで、キリスト・イエスに生きる者であることに見なされている(ローマ6:11)。どの信者も、事実として、彼の死と彼の復活の力によって、キリストに結ばれていて、この事実を認めねばならない。どの信者も罪に対して勝利を持っている。もし、彼が勝利を持っていないならば、そのとき、彼は信者ではない。もし、罪の力が人において破壊されていないならば、そのとき、彼は真の信者ではない。罪からのこの自由は、救い主としてのキリストのわたしたちの受け入れにおいて受け入れられている。ヨハネは、「御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です。罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません」(ヨハネ一3:6-9)と同じことを教えている(Murray,Collected Writings.op.cit.Vol.Ⅱ.p.283)。マーレー教授は、ヨハネは完全主義を置いていないし、また、罪からの習慣的な自由も置いていないが、しかし、イエス・がキリストであることを告白した信者は、決して背教し得ないことを論じている。


 これらの結果は、単純に、イエスが肉において来たことを告白する信者は、イエスがキリストであり、また、彼が神の子であることを信じ、そして、この信仰から背教し得ないことである。世に勝った確保した勝利を持つ信者は、悪い者(the evil one)の支配に動じないのであり、また、世のものに最早、特徴づけられないのである。「なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです」(ヨハネ一2:16)(Idem.)。


 マーレーは、クリスチャンが持つ勝利の性質についてコメントしている。「聖霊が、どの再生したクリスチャンにおける支配的で、方向づける行為者(agent)である。それゆえ、どの再生した根本的な原理、支配的な傾向、勝利の性格は、聖さである―彼は『霊的であり』(Spiritual)内なる人の人によって神の律法を喜ぶのである(コリント一2:14、15、ローマ7:22)。神によって有効に召命され、御霊によって再生された者は誰でも、ローマ6:14、ヨハネ一3:9、5:18によって諸入りを確保したのである。そして、この勝利は実際のものである、そうでなければ意味がない。


 それは、キリストとの結合と聖霊の再生の恵みによってただ一度達成される。完全主義者たちは、この勝利がわたしたちによって達成されたのでもなく、また、わたしたちの働きや努力や労苦によって達成されたものではないことを主張するとき、正しい。彼らは、それが信仰によって瞬間的な行為において実現されることを主張していることにおいて、正しい・・・しかしながら、(1)この勝利が再び生まれ、有効に召命された各人の所有であることを認めることに失敗している。(2)彼らは、その勝利を義認の状態と分離できる祝福として解釈する。(3)彼らは、それを聖書が表しているものから非常に違って表明している・・・彼らはそれを、罪を犯すことからの自由あるいは意識的な罪からの自由として描いているのである」(Ibid,pp.pp.142-143)。


 


4. 前進的聖化と聖化への関心(Progressive Sanctification and the Concern of Sanctification)


 


 どの信者にも属している罪の支配に対する勝利にもかかわらず、彼がこの生涯に留まる限りは、内住の罪が残る(ローマ6:20、7:14-25、ヨハネ一1:8、2:1)。この罪が根絶されるまで、また、信者がキリストのかたちに完全に一致するまで、信者の内に罪と義の葛藤があるに違いない。パウロが、ローマ7:14-25において描くのは、義と罪のこの戦いである。クリスチャンがこの生涯において、この戦いを経験するのは、正常なことである。もし、戦いがなければ、そのとき、救いの恵みもないのである。聖化されればされるほど、信者は、自分の内に残っている罪で、ますます平安を失うのである。聖徒の最大の者も使徒と共に叫ぶのである。「我悩める人なるかな・・・・」。


 「実際、人が聖化されればされるほど、彼は救い主のかたちに一致し、ますます彼は、神の聖さの一致のことごとくの欠如に対してしりごみするのである。神の尊厳を深く理解すればするほど、神への愛はますます大きくなり、ますますキリスト・イエスにおける召命の高い召しについての褒美に達成することに憧れることに粘り強くなるのであるし、ますます、残っている罪の大きさを意識し、ますます罪への憎しみに鋭くなるのである(Ibid,p.181)。


 真に聖化された人には、自己満足はあり得ない。信者の内に残るどの罪も、神が植えた聖さに矛盾する・彼はキリストにあって新しく造られた者である。彼に対する司法的な罰はない(ローマ8:1)。彼は神の家の養子にされたのであり、神が父であり、彼は、キリストとの共同相続人であり、神の子なのである。彼は、自分の心に内住の聖霊を持つのである。「しかし、信者の内に住む罪、また、信者が犯す罪は、神の怒りに値する性格であり、神の父としての不興が彼の罪によって引き起こされる。それゆえ内住して残っておる罪は、再生させられた人として、また、神の子としての彼のすべての矛盾する(Ibid,p.181)。 


 わたしたちがみてきたように、有効召命において、キリストに結ばれた各人にとって、福音は罪に対する勝利を包含している。信者は、この事実を認めねばならないし、また、自分自身を罪に対して死んで、神の生きる者と見なさねばならない。罪は、最早、わたしたちに対して支配権を持たないということは、それゆえ、あなたがたの「死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。


 6:13 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」(ローマ6:12、13)という勧めの実現の根拠であり、励みになるものである(Ibid.p.182)。それゆえ、聖化の関心は、キリストのかたちへの一致が実現するまで、罪を殺すこと(the mortification of sin)であり、聖さの育成である。


 ヨハネ一2:1が語るのは、それに対してである。「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」。使徒は絶対的な聖さは、クリスチャンのゴールなのである。この生涯において、わたしたちは、このゴールに到達できないことを知っているが、彼はその基準を少しも低くしないのである。わたしたちの弱さについて知っていることは、その節の後半に表明されている。「もし誰かがたとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」。第三人称から第一人称への変化に注意せよ。ヨハネは、ここで、キリスト・イエスにある弁護者であるお方として御自身を含めている。罪がわたしたちの再び新たに生まれた性質との矛盾についてさらに語るのは、この同じ手紙においてである。「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません」(ヨハネ一3:9)。もし、わたしたちが、この節を完全主義を教えるもとして取るならば、そのとき、再生されたどの人も罪がなく完全であることを意味しなければならない。完全主義者たちでさえもこれを主張しない。彼らは罪を犯すことからの自由を教えるが、しあkし、十分に罪のない性格ではない。さらに、彼らは、罪を犯すことからのこの自由は、再生されたどの人もの所有ではなく、ある者たちの所有と教える。もし、この節が完全主義を教えるならば、そのとき、それは、どの信者も神の子のかたちに完全に一致していることを意味する。新訳聖書にそのような教えを保証するものはない。では、その節の意味は何か。ヒントが、その動詞が現在の継続的行為である事実に見い出される。すなわち、その節は、神から生まれた者は誰も、継続的に罪を習慣的に犯さないことを言う。それをパウロの用語法に置けば、彼らは罪の支配下にいないことである。キリストとの結合ゆえに、彼らは罪に対して死んで、そして、罪はその用語の十分な意味において、彼らに対して再び勝利を得ることは決してないのである。彼らは、自分自身を罪の生涯に再び身を任せることをしないのである。


 再び復習すると、聖化の関心は、信者にとってキリストのかたちへの完全な一致に達することである。わたしたちの内の罪の残存は、わたしたちを、神の律法をわたしたちが喜ぶことと残っている罪との葛藤と緊張に絶えず直面させる。わたしたちは御言葉の確かさを持つ。キリストにおいて、わたしたちは罪の罪責(the guilt of sin)に対する勝利だけでなく、わたしたちの生活におけるその力に対しても勝利を持っているのである。罪はわたしたちを支配しないし、また、こうして、わたしたちは、自分自身を罪に対して死に、神に対して生きていると思うことが勧められているのである。わたしたちが恵みにおいて成長するとき、わたしたちは、次第に、わたしたちの内の罪の残存を知るのである。こうして、ますますの聖化が、自己満足あるいは満足を起こさないのであり、むしろ、恵みにおいえさらに成長することをわたしたちが望むことを新たにするのである。


 


5. 聖化の行為者(the agent of sanctification)


 


  聖書において見い出される聖なる生活への種々の勧めににもかかわらず、最後に、聖化は、神の御霊のみわざである。パウロは祈る。「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」(テサロニケ一5:23)。このことは、コリント一6:11においても再び教えられている。「あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」。再び、ペトロも同じことをペトロ一1:2において教えている「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」。ここでは、聖化は、神的聖定を趣旨とする手段として見られる。聖化についてのこれらの節の両方において、わたしたちの罪の赦しのために血を流されたことにおける十字架のキリストのみわざとの密接な関連に注目せよ。


 これらの個所から、わたしたちは、聖化は神の御霊のみわざであることを見る。わたしたちは自分自身を聖化しない。わたしたちの内において、御心にかなうよきわざをなさせてくださるのは神である(フィリピ2:13)。わたしたちの内にいて、起こる御霊のみわざであるのは、彼の働きの厳密な様態(the exact mode of his operation)は神秘である。救いの不可欠の部分として、御霊の内的みわざは、再生で始まり、クリスチャン生活を通して継続する。聖化は個人のクリスチャンの継続的な行使である。「この恒常的な妨げられない行為者の諸効果は、理解力、感情、意志におけるわたしたちの意識の視野の内に入って来るのである。しかし、わたしたちは、わたしたちの理解力の測りあるいは経験は、御霊のみわざの測りなのである」(Ibid,p.183)。  


 聖化は、わたしたちをますますキリストのかたちの一致に変容していく御霊のみわざなのである。「ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(コリント二3:17-18)。ここに、わたしたちは、変容する過程は人を栄光から栄光へとというこうして、進展(a progression)であることの差し指しを持つのである。それは、主のみわざであり、御霊のみわざである。


 


6. 聖化の手段


 


 わたしたちは、わたしたちの内の聖霊の神秘的な内的な働きは、わたしたちを栄光から栄光へと変えるものであることにすでに注目した。しかしながら、わたしたちは、聖化は、御霊によってなされる意識下の変化以上のものを包含することを考察すべきである。「聖化された者は、この過程において受け身的でなく、あるいは、静寂的でもない」(Ibid,p.184)。このことは、フィリピ2:12-13において明らかに見られる。「・・・・」。


 「わたしたちの内において、神が働くことは、わたしたちが働くかゆえに、停止しないし、また、わたしたちが働くことは、神が働くゆえに、停止しない。あたかも、神が自分の側の働きをし、また、わたしたちが自分の側の働きをして、その結果、両方の結合あるいは協力が結果を産み出したかのように、その関係が厳密に協力の一でもないのである。神は、わたしたちの内に働くし、また、わたしたちも働くのである。しかし、その関係は、「神が働くから」(because God works)、わたしたちも働くのである。わたしたちの側における救いのからのすべての働きは、わたしたちの内における神の働きであり、行うことの排除を意志することではなく、また、意志することを行うことの排除ではなく、意志することと行うことの両方なのである」(Ibid,p.184-185)。    


 聖化のみわざにおける御霊は、無意識下に同様にわたしたちの意識的生活の全体を引き入れる。わたしたちの道徳的で霊的な存在のことごとくの行為と事実が、聖霊のこの働きにもたらされる。聖霊は、人間の意識、理解力、感情、意志、良心、おして、わつぃたちの人格性のことごとくの局面を参画させるのである。彼は、これを真理(the Truth)、すなわち、御言葉の真理(the Truth of the Word)を通して行うのである。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です」(ヨハネ17:17)。彼が、わたしたちを恵みにおいて成長させ得るために、また、こうして、キリストのかたちに進展的に一致し得るために使う手段は、単純に、律法と福音のわたしたちへの適用である。神の御言葉が、聖化の手段である。信者が御言葉についての知識において成長し、また御霊がわたしたちをますます御言葉をわたしたちの生活に適用できるようにして、そして、わたしたちを恵みにおいて成長させるのである。


 「聖化は、神がその目標の到達のために制定したそれらの手段をもって、キリスト・イエスにおける神の高き召しの賞与とわたしたちの全存在の参画に、思いの、関心の、心、精神、意志、目的の集中を包含するのである。・・・それが提供することを探すことは、わたしたちが知られているように、また、神が聖いようにわたしたちが聖いことを知ることである。神にこの希望を持つどの人も、神が聖いように自分自身を清めるのである(ヨハネ一3:3)。


 


 


解説


 


 「第34章:聖化」の紹介が終わったので、7点の解説をする。細かいことは、スミスの本文を読んでいただければと思うので、気がついたことを記す。第1点は、スミスは、この聖化論にかなりの分量を割いていることである。前章の「子とすること」については、独立した1章を設けないで義認の中で、「子とすること」の議論をする仕方と「子とすること」を独立した教理として1章を設けるという2つの仕方があったが、聖化については、救いの秩序において、義認と聖化という独立した教理として伝統的に扱われてきた。そして、スミスは、この聖化論に20頁も使っているが、これは多い分量である。どうして、これだけ多くの分量を使ったのか。すると、アメリカの教会の状況がある。すなわち、アメリカにおいては、多少の違いはあっても、完全聖化論、完全な聖化、完全な清め、完全主義の立場が幾つもあるので、それらを一つづづ丁寧に誤解がないように注意深く扱うためである。かなり細かいことまでスミスは述べている。 


 第2点は、歴史に現れた完全主義についてである。スミスは、ペラギウス主義、ローマ・カトリック、アルミニウス主義、ウェスレイ主義、オバーリン完全主義、「より高い生活運動」(the higher Life Movement)、「勝利の生活あるいはケジィック運動」(the Victorious Life Movement or Keswick Movement)について述べる。ペラギウス(360?-420)は、人間は各自がアダムと同じように自由に創造されているので、人間の意志は、聖さに達するのに、神に自由に協力できると主張した。ローマ・カトリックは、洗礼を受けることによって、それまでの罪はすべて赦されて、完全を獲得し、罪を犯さなくなる。もし洗礼後、罪を犯した場合には、懺悔室で司祭に罪を告白、懺悔すれば、司祭は神の名によって罪を赦すと主張する。アルミニウス(1560-1609)は、プロテスタントにおける最初の完全主義を主張した。罪は自分が知っている罪の違反なので、知っている罪を犯さなければ完全であると主張した。人間は、神の恵みと自分の自由意志の協力で救いを得られると考えた。ウェスレイ(1703-1798)は、自分自身が完全に到達したと主張した。わたしは、若いとき、ウェスレイの「キリスト者の完全」を読んだが、人間は、神と人への愛の動機において、完全になれるということが書いてあったように思う。すなわち、あらゆる意味で完全無欠というのではなく、何事も愛の動機から行動できるようになるという意味で完全主義を唱えた。ウェスレイ主義の完全主義は、プロテスタントおいて大きな影響を与えた。日本でも、メソジスト、ホーリネス、きよめ派の立場は、このウェスレイ主義の完全主義、完全聖化論である。オバーリン完全主義は、アメリカのオハイオ州のオバーリン大学で、アサ・マーハン(1799-1889)とチャールズ・フィニイ(1792-1875)によって展開された完全主義である。わたしは、アメリカにオバーリン大学があることは知っていた。また、チャールズ・フィニィという名前は知っていたが、両方が完全主義の立場にあることを初めて知った。彼らは、意志が善に向けられる限りは、その人は完全と言われると主張した。


「より高い生活運動」(the higher Life Movement)の指導者のウィリアム・E・ボードマン(1810-1886)は、聖化は、第2の祝福とした。すなわち、人はキリストを救い主として信じることにより、義認の祝福は受けるが、しかし、聖化の祝福は受けない。聖化の祝福は、入信後の神への十分な信頼により、瞬間的に第2の祝福としての聖化を受けると主張した。「より高い生活運動」は、ウェスレイ主義の完全とは違う。ウェスレイ主義の完全は、人間の性格が変えられて愛の動機から言動することを意味するが、「より高い生活運動」は、人間の意志の代わりに神の意志がわたしたちを支配して、神の意志にかなう行動がわたしたちを通して行われることを表す。人間の意志は停止し、神の意志のみが働くのである。


 「より高い生活運動」は勝利の生活に組み込まれ、「勝利の生活」運動となったし、また、ケズウィック運動は、19世紀初頭の英国のリヴァイヴァリストの間で生じた運動である。その主張は、わたしたちクリスチャンが、キリストに完全な献身をして、すべてをキリストに委ねたとき、わたしたちは自分が完全に死んで、キリストがわたしたちと入れ替わり、キリストがわたしたちの内に文字通リ生きて、罪に対する勝利の生活を導くのである。こうして、クリスチャンの意志はなくなり、キリストの意志がすべてを支配する、これがクリスチャンの完全と考えるのである。わたしは、日本でも、ケズウィックの聖会が行われるのを知っていたが、このような完全主義に立っていたとは知らなかった。初めて知った。こうして、スミスは、歴史において、いろいろな形態において完全主義が生じたことを概観する。


 第3点は、歴史において、いろいろな形態において完全主義が生じたが、完全主義には共通点があるので、スミスは、完全主義が聖書の教えではないことをまとめて一般的に批判する。たとえば、彼らが罪を犯さなくなる、すなわち、完全になるという場合の罪は、自分が知っている罪を意志的に、あるいは、意識的に犯さなくなるという意味で、罪観が非常に低い。また、神の律法違反の罪を外面的にとらえていて、律法は人間の中心の心の中の思いまでも、内面までも罪としていることを洞察しておらず、律法観が非常に低い。彼らは、聖化はキリストを信じて救われたときから始まっているのに、信仰生活の第二の祝福として、救いと聖化を分離する誤りをしている。拙著「G.C.ベルクーワ:教義学研究-その紹介と解説-」の「第3巻 信仰と聖化」を読むと、完全聖化論者の誤りは、聖化された信者と聖化されていない信者の2種類の信者がいることになるが、聖書はそのような教えはないことを、ベルクーワは語って、完全聖化論者の誤りを指摘しているが、わたしも本当にそう思う。聖化の程度は違っても、2種類の信者はいない。  


 第4点は、聖化についての聖書の教えの大切さについである。スミスは、必要に応じて、具体的に旧約聖書の個所と新約聖書の個所を挙げるが、わたしが思っていた以上に多く聖化に関する個所があることを気づかされ、聖化の教理の大切さを改めて教えられた。聖化の原語は、取って置く、取り分けておくという意味であるが、それ以上の意味があり、聖化の道徳的な力と清めが包含されていることを、スミスは語る。聖化、すなわち、聖さは、クリスチャンの特徴的なしるしであり、神の選びの主な目的の一つともされるほどの重要性を持つ。パウロは、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(エフェソ1:4)と力強く語っている。


 また、聖化は、義認と分離できない祝福である。義認は、神との関係を正しくされる法的概念であるが、聖化は召命と再生と共に始まる信者の罪の性質の聖霊による清めであり、罪の力からの解放であり、罪からの自由であり、信者を神のかたち、キリストのかたちとの一致に導く御霊の恵みのみわざである。キリストとの結合と聖霊の再生の恵みによって、信者において罪の力が破壊される決定的な勝利であるが、聖化は地上生涯においては完成されず、聖化は前進的に、漸進的に生涯にわたって継続的になされていく御霊のみわざである。義認は1回的みわざであるが、聖化は継続的みわざである。聖化の行為者は聖霊である。また、聖化の手段は、神の御言葉である。信者が御言葉についての知識において成長し、また御霊がわたしたちをますます御言葉をわたしたちの生活に適用できるようにして、わたしたちを罪から清めて、恵みにおいて成長させるのである。


 なお、義認と聖化の違いは、ウェストミンスター大教理問答77問で明確に述べられていて非常に有益であるので記しておく。「問77 義とすることと聖とすることとは、どこが違っているか。答 聖とすることは義とすることと、分かつことのできないほどに結合しているが、それでも次の点で違っている。義とすることにおいては、神はキリストの義を転嫁するのであるが、聖とするすることにおいては、みたまが恵みを注いで、それを用いることができるようにする。前者では、罪がゆるされるのであるが、後者では、罪が征服される。一方は、すべての信者を神の報復的怒りから一様に解放するのであり、しかもこの世でそれを完全になし、決して彼らが罪に定められないようにする。ところが他方は、すべての人に同様にでなく、まただれの場合でも、この世で完成しないで、ただ完成へと成長するのである」とあり、両者の違いを明確に述べて、両者がどのようなものであるかがとてもよくかる優れた叙述である。


なお、さらに、聖化については、拙著「G.C.ベルクーワ:教義学研究-その紹介と解説-」の「第3巻 信仰と聖化」において、ベルクーワは、聖化を抽象的理念とするのではなくて、神と人を愛し、日常生活が神の御心にかなうように、信者は常日頃から努力していくべきことを強く勧めている。聖化は信者の善き生活となって実践されることを強調している。


 第5点は、聖化については、わたしは思い出がある。わたしが若い教師であったとき、ウォーフィールドの「完全主義」(Perfectionism)を読んだ。ウォーフィールドは2巻の「完全主義」を書いたが、わたしは、そのある部分を読んだ。すると、宗教改革期に、また、宗教改革後に、何故、完全主義者たち、完全聖化論者たちが出現したかと言えば、宗教改革が人間の全的堕落を主張したことに対して、人間は罪人であるがそれほど悪くはなく、完全になれると考えたところから来ていると述べて、完全主義は宗教改革の反動であると言っていたことを思い出す。すなわち、ウォーフィールドは、完全主義者たちは、人間の罪を非常に軽く弱く見たところから、信者は罪を犯さなくなることができると考えたところから完全主義が生じたことを語っている。わたしは、なるほどと思ったことを記憶している。


 第6点は、聖書には、信者が一見、完全になれるかのような書き方をしているところがあり、それが、完全主義者たち、完全聖化論者たちの聖書的な根拠にされていることである。たとえば、聖書は信者に完全になるように呼びかけている(マタイ5:48、ペトロ一1:16、ヤコブ1:49)。アブラハム、ヨブ、アサ王などが完全と言われたこと(創世記6:9、ヨブ1:8、列王上15:14)、神から生まれた者は罪を犯さないこと(ヨハネ一3:8-9)が語られている。しかし、完全になるようにとの呼びかけは、信者の目標の意味である。また、ノア、ヨブ、アサ王などが完全と言われたことは、彼らに罪がないという意味で言われたのではなく、信仰による神との関係が正しい意味で言われたのである。彼らもまた罪人であり、他の信者たちと同じく罪を犯しながら生きたのである。神から生まれた者は罪を犯さないとは、罪に留まらないこと、あるいは、その罪を習慣的に、継続的に犯さないという意味である。


 かえって、聖書を見れば、信者が聖霊によって罪の性質がきよめられるのは、この世では完成されず、信者はこの世に生きている限りは、ソロモンの祈りにあるように罪を犯しながら生きるのであり(列王上8:46)、信者は霊と肉の戦い、葛藤を絶えずするのである。あの信仰の強いパウロでさえも、ローマ7:14-25で生々しく罪との葛藤を率直に告白している。また、信仰の強かったダビデでさえも罪の誘惑に負けて、罪を犯し、詩編51編において罪の赦しを神に切実に求めている。また、パウロは、フィリピ3:12-16で、自分が完全でないことを認め、完全を目標として、できる限りの努力をして歩むことを語っている。それゆえ、わたしたちも、罪を離れ、罪を犯さないようにして、神の御心にかなうことを積極的に行い、神に喜ばれるように、完全を目標として日々歩むのである。


 第7点は、わたしたち、日本キリスト改革派教会は、「創立宣言」において、「善き生活」のために、完全聖化の誤りを排除して、本来の聖化の大切さと聖化の漸進的進展の立場を積極的に表明している。「一つ善き生活とは何ぞ。我等は律法主義者に非ず、又律法廃棄論者に非ず。キリストに由る贖罪に基きて聖霊なる神の我等の衷に恵み給ふ聖化は信仰者の必ず熱心に祈り求む可きものなり。完全聖化は地上に於いては与へられず、我等は日毎に己の罪の赦しを求め、又己に罪を犯す者の罪を赦さゞる可からずと雖も、聖霊に感じて互に罪を戒しむるはキリストにある者の為すべき事なり。宗教改革運動の主流派たる改革派教会最大の指導者ジョン・カルヴィンの働きしジュネーブの教会が信仰の生活の訓練に関して模範的実績を示せしは周知の事実なりとす」。日本キリスト改革派教会は、聖書が教える本来の聖化を大切に、熱心に聖化の道を歩むことを内外に宣言して歩み始め、70年経った今もそのように歩んでいるのであり、これらかもそのように歩むのである。


 聖化については、拙著「ウェストミンスター信仰告白の解説」の「第13章 聖化について」、「G.C.ベルクーワ:教義学研究-その紹介と解説-」の「第3巻 信仰と聖化」、また、フィリピ3:12-16については、ホーム・ページの掲載の「フィリピの信徒への手紙説教集」の当該箇所の説教を参照のこと。


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