子とするこ

序論


 


子とすること(adoption)は、組織神学における分かたれた1章として常に扱われてきたのではなかった。ホッジ(Hodge)とダブネー(Dabney)は、テュレチニ(Turretin)に従って、子とすることを義認の教理の一部と考えた。アメリカの長老派においては、特にコロンビア神学校(Columbia Theological Seminary)においては、分けれた扱いを受けた。ソーンウェル(Thornwell)は、子とされることを救拯論の主要な概念として見た。ソーンウェルの後継者のソーントン・ハーリング(Thornton Whaling)は言った。「わたしたちの優れた神学者の最も価値ある著作は、彼が『子とすること』(adoption)に与えた至高で規則的な場所によって、贖罪の神学において成し遂げられたのである(「ソーンウェル100周年講演」(Thornwell Centennial Address:Spartbug,S.C.:


Band & White,1913、p.28)。ウイリアム・チルズ・ロビンソン(William Childs Robinson)によって、「コロンビア神学校と南長老教会(Columbia Theological Seminary and The Southern Presbyterian Church) 1831-1931(その著者によって1931年に出版されている)pp.9,216.において、引用されている)。ソーンウェルにとって、子とすることは救拯論の一部ではなかった。彼は、人間は最初に創造されたとき僕であり、また、わざの契約を守ることによってであるが、彼は子(a son)と成り得たであろうと教えたのである。ジラドウ(Giradeau)は、「神学的疑問の討論」(Discussions of Theologicak Questions:Richmond:Presnyterian Committee of Publications,1905)において、この立場に反対して集中的に論じた)。


 ソーンウェルの直接の後継者のジョン・L・ジラドウ(John L.Giradeau)は、彼の義理の息子のロバート・アレクサンダー・ウェッブ(Robert Alexsander Webb)が行ったと同じように、子とすることについて強調することを継続した。ロバート・アレクサンダー・ウェッブの著作は、彼の死後、出版された(Webb,R,A,The Reformed Doctrine of Adoption:Grand Rapids:


William.B.Eerdmans Publishing Co.op.cit.p.217)。ソーンウェルは、創造されたときのアダムは、僕に過ぎない者として創造された、それゆえ、彼が子(son)になり得る唯一の方法は子とすることによって(by adoption)であったと主張した。ジラドウは、アダムは、僕でもあり、子(son)でもあるものとして創造された主張した。彼は、救拯論を2つの部分に分けた。義認と子とすることである。義認は、父の僕としてのキリストの従順に根拠づけられ、そして、神の民が神の玉座の前に現れることの資格を与える。「他方、子としての彼の従順は、神の民が神の家における子供たち(children in God’s house)としての子とされること(adoption)を根拠づけ、そして、神の子供たちのすべての権利、特権(the right,immunities and privileges of his children)を確証されて、彼らを神のテーブルに座らせる資格を与えるのである。子とすることの根拠(the grounds of Adoption)は、神の永遠の目的であり、(彼の受肉によって)キリストと自然に、(再生によって)生命的に、(彼の子としての従順の転嫁によって)契約的に結合することなのである」(Robinson,op.cit.p.217)。


 


子とすることと救いの秩序の他の諸部分との関係


 


A.  義認


 


 義認は、神の御前で義としてのわたしたちの受け入れと関係がある。これは子とすることことの根拠であるが、しかし、子とすることそれ自体と同一視されない。義認と区別されるが、子とすることは義認と分離はできない。義認された者は誰でも神の子(a son of God)と数えられる。この関連において、義認と子とすることは両方とも司法的な行為である。両方とも、身分を与えるもので、性格を変化させるものではない。


 


B.  再生


 


 子とすることと再生は、分離し、分けられた行為である。もちろん、2つの間には密接な関係がある。ある者たちは、これらの2つの行為によって、わたしたちが2重の仕方(in a double fashion)で神の子になる(become the sons of God)と主張する。すなわち、わたしたちは家族の中に生まれもするのである。幾つかの個所はこのことを示唆するかもしれないが、これに対する聖書の証拠は絶対的に明らかというわけではない。もちろん、2つは密接に関係している。再生によって、聖霊が神の選民を所有するために来るのである。内住の聖霊は信者の子の姿勢(the filial attitude)を発展させる。こうして、再生は、子とすることの先行条件として不可欠(a prerequisite)なのである。もし、わたしたちが2つの仕方で神の子供ら(the children of God)になるという理念が押し進めるならば、わたしたちは再生によって子供たち(the children)となり、子とすることによって息子たち(sons)となることが示唆されるのかもしれない。要点は、再生はわたしたちに、わたしたちが神の家族の養子にされる(adopted into the family of God)ことに調和し、それによってわたしたちが神の息子たち(the sons)になるところの新しい性質を与えることである。しかしながら、再び、聖書はこの明白な区別を与えていないし、それゆえ、また、わたしたちは、そのような区別をわたしたち自身が採用することに躊躇すべきなのである。


 


Ⅱ.聖書における神が父であること(the divine fatherhood)


 


 子とすることに含まれる神が父であること(God’s Fatherhood)についての理念に関して明らかにするため、聖書に見い出される神が父であることの種々の使用法の間に幾つかの区別をすることが必要である。聖書には、父であることの4つの種類がある。


 


A.  三位一体内の神が父であること


 


 三位一体内には、神の一つの人格の父であることがある。それは、第二人格との関連において父であることの三位一体の第一人格の独占的な固有性(the exclusive property)である。彼は永遠に父である。この父であることは、聖書において見い出される父であることの他のどのタイプとも同一ではない。これは、三位一体の第一人格と第二人格の間の独占的な関係性であり、それは、どのような被造物によっても参与されないものである。


 


B.神が普遍的な父(the universal Fatherhood)であること


 


 神が普遍的な父であることは、創造と摂理の事実に基づく。神はすべての被造物の存在の源泉である。使徒言行禄17:25-29、ヘブライ12:9、ヤコブ1:18のような個所は、この使用法を保証する。わたしたちは神の子孫(the offspring of God)である。彼は、いろいろな霊の父(the father of spirits)であり、光の父(the father of light)である。彼のうちに、わたしたちは生き、動き、わたしたちの存在を持つのである。この聖書の教えに基づいて、神が普遍的な父であることの理念は、聖書的と言われよう。父という用語を実際に使っている他の諸個所はこの普遍的な父であることに関して明らかではない。たとえば、マラキ2:10言う。「我々は皆、唯一の父を持っているではないか。我々を創造されたのは唯一の神ではないか。なぜ、兄弟が互いに裏切り/我々の先祖の契約を汚すのか」。この個所が全世界に言及しているかは明らかではない。それはイスラエルに言及しているかもしれない。


 マーレー教授(Professor Murray)は、神が父であることの局面について適切なコメントをしている。「どの場合にも注意される必要があるところのことは、神が父であることについて語られている創造と摂理のゆえに保持する関係であることは、聖書においては、相対的にほとんど少ない」(Murray、Redemption,op.cit.p.168)。


 


C.神が神政国家的に父であること(the theocratic fatherhood)


 


神がイスラエルの契約の民に持つところの関係は、旧約聖書において、父と子の関係として描かれる(申命記14:1-2、イザヤ43:6、63:16、マラキ1:6)。この契約の父であることあるいは神政国家的に父であることは、贖罪的な子とすることの父であることの原型(a prototype of the redemptive adoptive fatherhood)である。


 


C.  子とすることの父であること(the adoptive fatherhood)


 


神が普遍的な父であることの近代主義的でリベラルな概念に反対して、マーレーは、次のコメントをしている。「神に適用される『父』(Father)という用語と人々に適用される『神の子』(son of God)は、聖書においてはほとんど統一的に、贖罪と子とすることによって構成されるところの特別な関係性のために保留されたものである・・・神が普遍的な父であることのメッセージを贖罪と子とすることによって構成することの代わりに使うことは、福音を無効にするのである。それは、この最高で最も豊かなものを、すべての人が創造によって神に対して持つところの関係性のレベルに低落させることを意味するのである。一言で言えば、福音からその贖罪の意味を奪うことなのである。そして、それは、わたしたちが創造されていることは、わたしたちが神の家族に入れられているという幻想に人々を助長してしまうのである」(Ibid,p.168-169)。


 新悪聖書において、子とすることとわたしたちの結果としての神との関係を描くことにおいて、使われているその用語に注目することは興味深い。子とすることという用語は、υιοθείσα:ヒュイオセシアである。その用語は、υíóς:huios(son :息子):ヒュイオスとτίθημι:tithemi(put,place


,make:置く、置く、~する):ティセーミから派生した。その用語は、神がわたしたちを子らとすることによる行為を表明する。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊(πνευμα ύιοθεσίας:pneuma huiothesia:プンツーマ ヒュォセシアス)を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ8:15)。


「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした(την υίοθεσιαν:ten huiothesian:テーン ヒュオセシアス)」(ガラテヤ4:5)。「イエス・キリストによって神の子にしようと(υίοθεσιαν:huiothesian:ヒュオセシアン)、御心のままに前もってお定めになったのです」(エフェソ1:5)。


ローマ8:23は、将来に、終末的な子とすることに言及していて、それは、子ら(sons)としてのわたしたちの公的な承認を含む。「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること(υίοθεσιαν:huiothesian: ヒュオセシアン)、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。この公的な承認は、わたしたちのからだの復活において、また、神のものとしてのわたしたちの全存在におけるわたしたちの受け入れにおいて見られるのである。その言葉は、ローマ9:4において、イスラエルの神政国家的な子とすること(the theocratic adoption of Israel)への言及をもって再び出て来る。


 徐立された関係はυíóς:huios:ヒュオス、τέκνον:teknon:テクノン、τέκνίον:teknion:テクニオン、παιδίον:paidion:パイデオンによって言及される。これらの用語の最初の3つは、より一般的である。それらは、子とすることの神的行為によって樹立されたところの関係としての子であること(sonship)に言及する。ヨハネは、τέκνον:teknon:テクノンとτέκνίον:teknion:テクニオンをほとんど独占的に使っている。黙示録21:7にいてだけ、υíóς:huios:ヒュイオスを使っていて、これは旧約聖書への言及の文脈においてである。パウロは、両方の用語を交換可能的に使う(ローマ8:14-21を見よ)。τέκνον:teknon:テクノンという用語は、τικτειν:tiktein:テクテイン:beget(生む)から来ている。神的な生む行為は、わたしたちを神の子供たち(the children of God)であるこの関係に入れることを考えることは自然的なことである。ローマ8:14-21におけるパウロの使用法は、この理念を必然的に排除はしないが、しかし、彼は、再生についての何の明白な言及なしに、それを子とすることとの並置にもたらしている。神の子であることのこの関係性の構成的な行為としての再生と子とすることの間の精確な結びつきは、聖書のデータからは絶対的には明らかではない。


 


Ⅲ.子とすることの性質


 


 マーレー教授は、子とすることの意義を非常に鋭く語っている。「子とすることは、その用語が明らかに意味するように、異なった家族から神御自身の家族に移行される行為である。これは、確かに、恵みと特権の最高潮である。わたしたちは、神御自身の啓示と確かさとは別に、そのような恵みを考えたりは、あえてしないであろう。それは、その驚くべき謙遜と愛のゆえに、想像をためらわせる。御霊のみが、わたしたちの心におけるその座であり得るのである(Murray,op.cit.p.167)。


 わたしたちは、神の息子たちと娘たちとしての人間を構成するものとしての再生と子とすることの間の関係を厳密に定義できないかもしれないが、わたしたちは、子とすることは司法的な用語(a judicial term)であることも述べることができる。子とすることという言葉は、再生と同じではない。子とすることは、男たちと女たちが神の息子たちと娘たちになる神による身分を与えること(τίθημι:tithemi:ティセーミ:からθεσια:theisia:セシア)なのである。そのようなものとして、子とすることは、神の側の行為なのである。類似が人間の法廷においても起こる、そこでは、生まれつきその家の息子(a natural son)ではないが、家族に受け入れられ、生まれつきの息子としてすべての特権を与えられるところの人がいるのである。子とすることは神によって与えられる身分であることが幾つかの個所から見られよう。たとえば、ガラテヤ4:5は、人々を息子たちという子として(the adoption of son)受け入れることを語る。これは、再生と共に使われる自然的な用語(natural terminology)ではない。


 再び、ヨハネ1:12において、ヨハネはτέκνον:teknon:テクノンという用語を使うが、わたしたちは、この関係性は、まさに再生によって与えられた関係性でなく、それは神の子供たち(the children of God)になる権利を含んでいるのである、ヨハネ1:12は、わたしたちは神の子(sons)として生まれたことを言うのではなく、むしろ、「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」ことを言うのである。それゆえ、この関係は、権利あるいは身分の授与なのである。単に再生の結果ではないのである。ヨハネ一3:1-2は、授与の理念を確信させる。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」。


 このことから、わたしたちは、救拯的で贖罪的な意味において、人々は子とすることによってのみ神の子らになることを結論するのである。子とすることは区別され行為である。子とすることは、わたしたちは、種々の特権に入れることである。それらは、「救いの秩序」(ordo salutis)におけるステップに先立つのである。仮に、それらの最も十分な程度にまで拡大したとしてもカバー仕切れないであろう。子とすることは、わたしたちの召命、再生、義認を前提するが、しかし、これらのどれものが、子とすることそれ自身の行為において他と区別するところのものを表明してはいない。贖罪は子とすることに至るのである。有効召命は、キリストとのまじわりに至る。再生は、わたしたちが神のかたちに一致することの目的を生み出す。義認は、神との愛顧においてわたしたちを確立する。子とすることは、神の子ら(sons)となり、神の家族のメンバーとなる身分を与える。神は、すべての関係性の最高のこの関係性においてわたしたちを保持する。というのは、子とすることによって、わたしたちは永遠の命の相続人たちとなるだけでなく、神の相続人たちとなり、キリストとの共同相続人となるのである(ローマ8:17)。このことは、わたしたちは単に教会のメンバーではないのである。わたしたちは神の家族(God’s family)のメンバーなのである。これは特権と祝福の極致なのである。というのは、それによって、わたしたちは、神の家(the household)のメンバーとなるからである。


 わたしたちは、父としての全三位一体を意図しているのか、あるいは、三位一体の第一人格を特に保持するところのこの関係を意図しているのかが問われよう。聖書は、明らかに、子とすることにおいて行為するところの三位一体の第一人格を教えている。ヨハネ一3:1は言う。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです」。三位一体の第一人格だけが父の名を担うのである。イエスは、彼が神を父と呼びかけたとき、特に第一人格に語りかけたのである。ヨハネ20:17において、イエスは、父としての第一人格について語っていて、そして、そのとき、信者たちへの父の関係を保持することをそれとなく言っている。「イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。この関係において、イエスは、「わたしたちの父よ」(our Father)と御自身を含めたところはどこにもないという事実が考察されることは意義のあることである。しかしながら、彼は、彼が御自身の父をわたしたちの父とも呼ぶところの人格についてのこの明らかな同一視を本当にしているのである。それは、疑いもなく、そのように呼ばれるところの三位一体の第一人格である。新約聖書の一般的な使用法は、三位一体の第一人格は父と呼ばれる。多くの個所が、彼を「神またわたしたちの主イエス・キリストの父」(God and Father of our Lord Jesus Christ)として語る(ローマ15:6、コリント二1:3、11:31、エフェソ1:3、コロサイ1:3、ペトロ一1:3)。他の個所は、彼を父なる神」(God the Father)として語る(ガラテヤ1:2、エフェソ6:23、フリピ2:11、テサロニケ一1:1、テサロニケ二1:2、テモテ一1:2、テモテ二1:2、テトス1:4、ペトロ一1:2、ペトロ二1:17、ヨハネ二3、ユダ1、黙示録1:6)。すべてこれらの引用において、父は御子から区別されている。三位一体の第一人格と第二人格の間には同様の違いがある(ローマ1:7、コリント一1:3、コリント二1:2、エフェソ1:17、フィリピ1:2、フィレモン3)。マーレーは、このデータについての彼の考察から結論する。「このことは、『わたしたちの父』(our Father)と呼ばれるところの人格は、主イエス・キリストから区別されている。このことは、『わたしたちの』(our)の父であるお方は父であると言うことに等しい(Murray,Redemption,op.cit,p.172)。


マーレーは、父とのわたしたちの関係を父とイエスの関係と同じものとしてわたしたちが同一視することに対して注意するように進む。「父と子としての神の関係は、父と人間の関係と、もちろん、同等ではない。永遠に生まれること(eternal generation)は、子とすることと同等とされてはならない。わたしたちの主がその区別を守った。彼は、弟子たちを御自身と一緒に含めず、また、彼らとの共同体においては、父を『わたしたちの父』(our Father)と呼ぶのである」(Ibid,op.cit.p.173)。


 


Ⅳ.子とすることの霊(the Spirit of adoption)


 


 子とすることの恵みは、神の子ら(sons of God)になる特権を与えることだけを抱くのではなく、この事実についての聖霊の証も与える(ローマ8:15、ガラテヤ4:6)。この恵みについては、2つの要素がある。最初に、子の愛情(the filial affection)の神の民における創造がある。第2に、子とすることの事実の聖霊による彼らの霊と共に共同の証(the joint witness)がある。子とすることの行為それ自身が、特権の所有のために必要である。子とすることの霊(the spirit of adoption)は、神の子ら(sons of God)であることの特権の享受と相関関係的な義務の実現に適切であるところの子としての信頼と愛(the filial trust and love)のために必要である。子とすることは、特権の行使を保証する。他方、子とすることの霊(the spirit of adoption)は、特権に伴うところの信頼の行使を生み出す。神の民が自分たちの父として神を認めること、また、父に子として近づくのは、子とすることの御霊によるのである(the Spirit of adoption)。神は、その特権を与えるだけでなく、わたしたちの心を信じることに発奮させ、そして、神を、わたしたちをこの最も親密な関係に保持するところのわたしたち自身の父であることを知らせるお方である子とすることの霊を与えることにおいても、如何に恵み深いことか。


 


 


解説


 


 「第33章:子とすること」の紹介が終わったので、5点の解説をする。細かいことは、スミスの本文を読んでいただけばと思うので、気がついてことのみを記す。まず第1点は、「子とすること」の扱い方についてである。スミスは、キリストは三職二状態によって救いが成し遂げたが、そのキリストによる救いは、聖霊の適用のみわざによって罪人一人一人のものになる過程、ステップ、ステージ、局面を扱う救いの秩序(ordo salutis)、すなわち、救拯論を扱い、すでに召命、回心、義認を扱ったので、今度は、子とすることを扱う。


 第2点は、「子とすること」の用語の意味の確認についてである。「子とすること」は英語でadoptionであるが、その意味は、英語の辞書を引けば、養子とすること、養子縁組をすることと出ている。それゆえ、「子とすること」とは、罪人が、キリストを信じて義認され、神の家の養子にされ、神の家のあらゆる特権と祝福を相続することを意味する。本来的な意味での神の子は、キリストおひとりであるが、わたしたちクリスチャンは、神の家の養子という意味で神の子なのである。


 第3点は、スミスは、「子とすること」の教理は、組織神学・教義学において、必ずしも一章を取って論じられてきたわけでもないことを述べる。概して言えば、大陸の改革派神学においては、「子とすること」は、スイスの改革派神学者のF.テュレチニ(F.Turretini)が「子とすること」は義認論の一部として論じられると言ったように、特に一章を設けて論じていない。たとえば、オランダのバーフィンクの「改革派教義学」を下敷きにして書いたベルコフの「組織神学」(Systematic Theology)においても、「子とすること」は義認論の一つの要素として扱われている。また、オランダのベルクーワの「教義学研究シリーズ」(全14巻)においても、義認、聖化、堅忍は、1巻づつで論じられているが、「子とすること」の巻はない。


しかし、英語圏の改革派神学においては、17世紀に作成されたウェストミンスター信仰告白においても「第12章 子とすること」として一章を設けて論じられている。でも、アメリカ最大の組織神学者と言われるオールドpリンストンのチヤールズ。ホッジ(Chales hHodge)は、彼の大著「組織神学」(全3巻)において、「子とすること」の教理をまったく扱っていないが、彼の息子のA・A・ホッジ(A.A.Hodge9は、彼の「神学概論」(Outlines of Theology)において、第34章において、「子とすること」と救いにおける恵みの秩序について1章を設けて論じている。


また、特に英語圏でも、概して、アメリカの南長老教会においては、「子とすること」の教理は大事にされて多く論じられてきた。南長老教会においては、コロンビア神学校のソーンウェル(Thornwell)、彼の後継者のジラドウ(Girardeau)とR.A.ウェッブ(R.A.Webb)、そして、後のルイビル神学校が、「子とすること」の教理を維持し、展開した。また、この著書のスミスもそうである。


ちなみに、岡田稔先生は、「子とすること」の教理を独立して論じるには、聖書自身の材料が少ないとしながらも、「教理学教本」の「第五章 救拯における聖霊の事業」で「第七節 子とすること」の一章を設けて論じているが、それは、岡田先生が、南長老教会が経営する神戸中央神学校で、ジラドウの高弟と言われたフルトン校長から教えられて、南長老教会の伝統も知っており、また、ウェストミンスター信仰告白にも、「子とすること」の教理が表明されていることなどからかもしれない。


こうして、「子とすること」を義認論の一部として論じるか、一項目を立てて綸じるかについては、両方の立場があるが、ウェストミンスター信仰告白において一章を設けて告白され、神の子とされることの祝福と特権が明白にされていることは、とてもよいことと思う。


 第4点は、「子とすること」と救いの秩序(ordo salutis)における他の要素との関係である。義認との関係であるが、義認は、子とすることの根拠である。また、義認も「子とすること」も、司法的な行為で、身分を与えるもので、性格を変化させるものではない。再生との関係は、再生は、子とすること」の先行条件として不可欠(a prerequisite)なのであるが、聖書は、再生と「子とすること」の関係について明白には教えていないことを、スミスは語る。


 第5点は、聖書において、神が父であることについてである。スミスは、4つの意味で語られていることを述べる。三位一体位の第一人格としての父である。また、創造と摂理のゆえに神が普遍的な父であり、神はすべての被造物の存在の源泉である。この典型的個所は、使徒言行禄17:25-29で、「また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません」。また、神がイスラエルの民に持つところの関係は、神政国家的な父である。この代表的個所は、申命記14:1-2で「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである。死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げてはならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、御自分の宝の民とされた」。


そして、救拯論的な意味で「子とすること」の父であることがある。この救拯論的な子とすることは、贖罪によって構成されるところの特別な関係性であり、子とすることによって罪人は、キリストと共同相続人とされ、神の家の養子とされ、神の家のあらゆる特権と祝福を受ける。また、わたしたちの霊と共に、聖霊がわたしたちを神の子とわたしたちの心に証してくださる。罪の奴隷であったわたしたちが、神の子とされることは、驚くべき神の父としての愛による。ヨハネ一3:1で次のように言われている通リである。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです」。


 「子とすること」については、拙著「ウェストミンスター信仰告白の解説」の「第12章 子とすることについて」、「ローマの信徒への手紙説教集(上巻)」の「神の子とされる恵み:8章12節-17節」を参照のこと。


http://minoru.la.coocan.jp/morton33.html