感謝について
『信仰問答』は全体を三つに分けて人間の“悲惨さ”と“救い”について教えてきましたが、第三部は“感謝”についてです。つまり、人間は本来の姿から堕落して悲惨となりましたが、そこから救われた人間の新しい姿を一言で言えば、それは“感謝”だというのです。このような認識は『信仰問答』の大きな特徴であり、聖書の人間観についてのとても深い理解だと思います。
問86は、ずいぶん前に学んだ問62~64で論じられた「善い行い」についての議論を受けた問答になっています。私たち罪人は「自分の悲惨さから、自分のいかなる功績にもよらず、恵みによりキリストを通して救われている」のですが、他方で「まことの信仰によってキリストに接ぎ木された人々が、感謝の実を結ばないことなど、ありえない」と『信仰問答』は教えていました(問64)。
なぜキリストに結ばれた者は必ず感謝の実を結ぶのか。それが今回の答えになっています。「なぜなら、キリストは、その血によってわたしたちを贖われた後に、その聖霊によってわたしたちを御自身のかたちへと生まれ変わらせてもくださるから」です。洗礼(問70)や聖晩餐(問76)で学んだように、私たちのために捧げられたキリストの命は、たんに私たちを赦すだけではなく、私たちそのものを根本から再生させる力を持ちます。神の御子であるキリストと同様、神の子どもとして良い実を結べるようにと私たちを生まれ変わらせるのです。これは必ず実現へと至らせる神の御業です(エフェソ2:10、テトス2:14)。
キリストによって救われた者は罪赦されて終わりなのではなく・・・、
全生活にわたって神を喜び祝う者へと再創造されて行くのです。
このことによって三つのことが生じると、信仰問答は論じます。第一に「わたしたちがその恵みに対して全生活にわたって神に感謝を表し、この方がわたしたちによって賛美される」ようになる。かつては神の存在を漠然と知りながら「神としてあがめることも感謝することもせず」虚しい思いにふけていた者(ローマ1:21)が、神に感謝し神を賛美する者に変わるというのです。
これこそ人間の根源的な変化です。神は人を決して邪悪で倒錯したものにお造りになったのではなく、むしろ神を「心から愛し、永遠の幸いのうちを神と共に生き、そうして神をほめ歌い讃美するため」に造られました(問6)。キリストによって救われた者は罪赦されて終わりなのではなく、創造された人間本来の姿、すなわち、全生活にわたって神を喜び祝う者へと再創造されて行くのです。
第二に「わたしたちが自分の信仰をその実によって自ら確かめ」られるということです。命の営みは、ゆっくりと進みます。いつの間に芽が出て実がなるのか気づかないほど、しかし、確実に進んで行きます。ちょうどそれと同じように、自分が信仰者として成長していることなど気づかないかもしれませんが、キリストに接ぎ木された人生は必ずや実を結ぶのです。
依然として多くの悩みがあり、情けないほど弱い自分の姿があるかもしれません。それでも、自分が罪人であることを認めて赦しを請う自分がいる。神に感謝や賛美を捧げるようになった自分がいる。少しでも隣人を愛そうとしている自分がいる。それが、キリストに結ばれた信仰の証しでなくて何でしょうか。まして愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制などの聖霊の実(ガラテヤ5:22-23)が与えられたなら!
第三の効果は「わたしたちの敬虔な歩みによってわたしたちの隣人をもキリストに導く」ということです。「敬虔な」とは、何か修道士のような生活をすることでは必ずしもありません。ここでは、全体が調和している健全さのことを意味しています(ラテン語版はintegrate)。身も心も全体がキリストにある深い平安と感謝に包まれた生活を送っている時、隣人もまた不思議にキリストへと導かれることがあるというのです。
罪と悲惨の闇に深く閉ざされた殺伐としたこの世の中で、感謝に満ちた生活を送ることがいかに豊かで温かな光を放つことか。その人がいるだけで、凍りついた心も溶かされて行くことでしょう。そして、その