聖餐式について5
古代ギリシャのコリントにある教会は、どうやら礼拝における聖餐式をめぐるいくつかの混乱や過ちがあったようです。この教会の指導者だったパウロは、大変厳しい調子で次のように書いています。「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」(1コリント11:27)。それは「自分自身に対する裁きを飲み食いしている」に等しく、事実、コリント教会に弱い者や病人がたくさんいるのはそのためだとさえ、パウロは言います(29‐30節)。しかし、それは彼らを滅ぼすためではなく、むしろ彼らを救うための神の懲らしめなのだと(32節)。
『信仰問答』も同様に、問82で「その信仰告白と生活とによって不信仰と背信とを示している人々」が主の晩餐にあずかることを禁じています。「なぜなら、それによって神の契約を侮辱し、御怒りを全会衆に招くことになるからです。それゆえ、キリストの教会は、キリストとその使徒たちとの定めに従って、そのような人々をその生活が正されるまで、鍵の務めによって締め出す責任があります」。
キリスト教会に委ねられた「鍵の務め」については次回取り上げますが、聖餐式という礼典には、ふさわしい信仰と生活が求められるということを本問は教えています。長い間に単なる儀式と化してしまった聖餐式を、何とか本来の姿に戻そうと奮闘している当時のヨーロッパの教会事情がここには反映されていると言えましょう。
実際、このような教えは、今日の私たちにはあまりにも厳しく感じられるかもしれません。確かに、教会に足を運びキリスト者となるまでにそれ相応の覚悟が求められる状況では、これほどのことを言う必要はないかもしれません。しかし、大切なことは、聖書がなぜここまで真剣に聖餐式を受け止めているのか、すなわち「どのような人が主の食卓に来るべき」なのか(問81)を、よく理解することです。
以前にも記しましたが、礼拝の中で行われるこの食事は、“食事”としての機能をほとんど果たしていません。お腹一杯食べたいなら教会ではなくレストランに行った方がいいでしょう。聖餐式は小さなパンと杯でお腹を一杯にするための食事ではなく、主イエス・キリストという御方を食するのです。この方の尊い命にあずかり、それによって私たちが罪赦され、この御方と一体となって生きることを表す食事なのです。ですから、そのような信仰を持たずにあずかることは、ほとんど意味がありません。
必要とされるのは、イエス・キリストを求める信仰です。決して聖人君子のような生活を送ることが条件なのではありません。むしろ「自分の罪のために自己を嫌悪しながらも、キリストの苦難と死とによってそれらが赦され、残る弱さも覆われることをなおも信じ、さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強められ、自分の生活が正されることを切に求める人たち」こそ、聖餐式にふさわしい人々なのです。
必要とされるのは、イエス・キリストを求める信仰です。
決して聖人君子のような生活を送ることが条件なのではありません。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と主イエスは仰せられました(マルコ2:17)。自己を嫌悪せずにはおれない罪を抱え、信じてもなお残る弱さに悩み苦しむ者たちのために主イエスは来られました。彼らを救うために御自身の命をさえ投げ出してくださった主の命と愛が、聖餐式には表されています。いえ、単なる象徴ではなく、目には見えない主御自身が霊において臨在されている食事なのです。
主がまさに共におられる食卓ですから、これを軽んじてはなりません。罪の赦しを表す聖餐式を軽んじることは、自分自身の赦しを退けるに等しい行為だからです。他方で、自分の罪のゆえに主に近づくことを恐れている人たちには、そのような人々のためにこそ聖餐式はあることを教え励ましましょう。主は魂の病める者や罪人を招くために来られたのですから。
聖餐式には必ず福音の説教が為されねばならないというのは、このためです。主の赦しの福音と招きが語られ、誰もがこの食卓にあずかりたいと願い、そして一人でも多くの方がこの食卓に共にあずかれるようにすること。それが、聖餐式の心です。