キリストに結ばれた者の未来
死や死後のことは私たちがあずかり知らない事柄であるだけに、根も葉もないことが様々に言われます。しかし、聖書の教えはそのような憶測の一つにすぎないのではありません。ただ一人死から“よみがえられた”方の約束に基づくものだからです。
主イエスが十字架におかかりになった時、一緒に十字架刑に処せられていた犯罪人の一人が死の間際にイエスに対する信仰を表しました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。するとイエスは彼にこう約束なさいました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:42-43)。
キリストに結ばれた者の魂は「この生涯の後直ちに、頭なるキリストのもとへ迎え入れられる」というのが聖書の教えです。これはとても大切な教えです。キリストに結ばれた魂は、死後、決してその辺をさまよっているのではありません。「直ちに」キリストの元へ迎えられます。つまり、キリスト者のためには“慰霊”や“供養”の必要が全くないということです。これが、キリスト者の死のすばらしさです。
キリスト教の葬儀は、多くの場合、極めてシンプルです。葬儀の盛大さが魂の行方を決めるわけではないからです。キリストに結ばれて地上の生涯を走り終えた者の魂を、今や主がしっかりと抱いておられる。“よく忍耐して走り抜いた。よく信仰を守り通した”と、主が一人一人に朽ちない冠を授けてくださる(2テモテ4:7-8)。これが私たちの慰めであり幸いなのです。
たとい一握りの灰になったとしても、土の塵から人を創造なさった全能の神は、再び私の体をも完全なものへと造り変えてくださるでしょう。
しかし、聖書の約束はそれにとどまりません。「やがてわたしのこの体もまた、キリストの御力によって引き起こされ、再びわたしの魂と結び合わされて、キリストの栄光の御体と同じ形に変えられる」というのです。キリストの復活は実にこのことの保証なのでした(1コリント15:20,問45)。
私たちの罪に汚れたこの体も、キリストの栄光の体のように変えられて復活する。この驚くべき約束が聖書に記されています(1コリント15:42以下)。その時に私の体は完全なものとして引き起こされ、聖くされた私の魂と再び結び合わされる。つまりは“新しいわたし”が出現するということです。果たしてそんなことがありうるのか、私たちには理解できません。誰も経験したことがないからです。ただキリストが復活されたという歴史的事実と、創造主であられる全能の神の力だけが頼りです。
「この体」と言われている点に注意しましょう。ちょうどキリストがそうであられたように(ルカ24:39)、私の「この体」が復活します。別人になるのではありません。私という存在は、この世とかの世を貫いてひと続きなのです。私を造ってくださった神は、この私を愛しこの私を造り変えてくださいます。ですから、私たちは地上の生涯をおろそかにしてはなりません。どうせ天国に行けるのだから、この世は適当に生きてもかまわないと考えてはいけません。今の私が新しくされるのであって、私は私だからです。
未だ罪に汚れている魂と体です。多くの弱さや病や障碍に苦しむ体です。それにもかかわらず、キリストに結ばれた者として精一杯生きましょう。神から与えられた魂と体で心を込めて生きましょう。この私には、きっと私にしかできない神から与えられた仕事があるはずです。その仕事を果たし終えるまで、神から与えられたこの体で生きて行きましょう。そうして地上の生涯を終える時、私たちはこの体をも神にお返しするのです。
キリスト教葬儀の目的の一つに、遺体を丁重に葬るということがあります。魂が大切なのだから遺体はどうでもよいとは考えません。体をくださったのは神様ですから、その人のために与えてくださった体を最後まで大切にして神様にお返しします。その遺体がやがてキリストの御力によって引き起こされる日を望み見るからです。
たとい一握りの灰になったとしても、土の塵から人を創造なさった全能の神は、再び私の体をも完全なものへと造り変えてくださるでしょう。もはや苦しむことも痛みも病も障碍もないキリストの栄光ある体と同じ形へと(フィリピ3:21)。それがキリストのものとなった私たちの希望です。