つまずきの石
「わたしにつまずかない者は幸いです」
- ルカ福音書7:18~23 -
シャローム宣教会
[ルカ福音書7:18~23]「18 さて、ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した。19 すると、ヨハネは、弟子の中からふたりを呼び寄せて、主のもとに送り、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか。」と言わせた。20 ふたりはみもとに来て言った。「バプテスマのヨハネから遣わされてまいりました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちはなおほかの方を待つべきでしょうか。』とヨハネが申しております。」 21 ちょうどそのころ、イエスは、多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、また多くの盲人を見えるようにされた。22 そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者に福音が宣べ伝えられています。23 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」
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+ ルカ福音書7:18~35は大きく二つに分かれます。ひとつはヨハネの二人の弟子たちに語られたこと、もうひとつは群衆に語られたことです。しかしその中で扱われているテーマは同じです。そのテーマとは「つまずき」です。「つまずき」という名詞はギリシャ語では「スカンダリオン」σκανδαλιοvですが、この箇所では名詞は使われず、動詞の「スカンダリゾー」σκανδαλίζωが23節の「わたしにつまずかない者は幸いです。」というイエスのことばの中で使われています。イエスという方は「つまずきの石」なのです。それは信仰の世界においては、イエスとかかわる者たちがイエスとはいったいだれであるかを問われる試金石そのものなのです。
[ロ―マ人への手紙9:32~33] 「32 なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。33 それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
[ペテロの第一の手紙2:8] 「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。
1. イエスのスキャンダルな新しさ
+ 「神の国の福音」を宣べ伝えたイエスの発言や行為は、当時において、きわめてスキャンダルな新しさをもたらしました。ヨハネの弟子たちかよく断食したり、祈りをしているのに、イエスとその弟子たちは取税人や罪人たちといっしょに飲み食いしたりしていました(ルカ5:30, 33)。また、「盲人が見えるようになり、足なえが歩き、ツァラアトがきよめてられ、耳の不自由な者が聞こえるようになり、死人が生き返り」という奇蹟がなされていました。また「あなたの罪は赦されました」(同、5:20)、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」(5:38)、「人の子は安息日の主です」(6:5)といって安息日にもいやしのわざをしておられたイエスの発言は人々につまずきを与えました。
+ こうしたイエスのスキャンダルな発言は、神の国にある本来ある深いところから発しています。全く新しいことを伝えたのではなく、本来、神の国の中にある事柄が当時の人々にとって新しく感じられたということです。しかし、それが多くの人々のつまずきの石となったようです。
+ イエスの多くのいやしと教えは「神の国の福音の奥義」が目に見えるかたちで現されました。本来、神の国は目に見えないものですが、当時の貧しい者たちや取税人や罪人といった人々はイエスとの出会いにおいて、神の国のリアリティを自分の身に経験したのでした。しかし多くの場合、人間の罪によって、この世の神が人の思いをくらませて、その神の福音を輝かせないようにしているのです。バプテスマのヨハネの弟子とヨハネ自身もつまずいたようです。つまり、イエスの語る神の国の福音は、ヨハネと彼の弟子には想定外のイメージだったようです。しかし彼ら以上につまずいたのは、当時のパリサイ人や律法学者たちでした。
+ どんな人でも「つまずきます」。イエスが十字架にかかる直前、イエスは自分の弟子たちにいいます。「あなたがたはみな、つまずきます。」と(マルコ14:27)、すると弟子の筆頭であるペテロはイエスに言います。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」(同、14:29)と。すると、
[マルコ福音書14:30]「イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」
[マルコ福音書14:31]「ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。」
+ ペテロのみならず、他の弟子たちもみなこぞって自分たちは決して「つまずかない」ことを宣言したのです。ところが、舌が乾かぬ先に、この宣言はもみ殻のように吹き飛んだのでした。私たちとて例外ではありません。しかし隠された神の国の福音はここから本領が発揮されます。つまり、こうした大言壮語の罪が神の愛によって完全に赦される世界なのです。
2. 神のみこころを拒絶することなく、常に、開かれた心へ
+ 「つまずく」と訳されるギリシア語の「スカンダリゾー」σκανδαλίζωは、「罠にかける」「罠を仕掛ける」という動詞能動態ですが、受動態になると「つまずく、つまずきを与えられる」という意味になります。ルカ福音書7:23は受動態で使われています。人がひとたび「つまずく」と、「神のみこころを拒みつづける」ことになります。当時のパリサイ人、律法の専門家たちは、彼(パプテスマのヨハネ)から洗礼を受けなかったことで、神の自分たちに対するみこころを「拒みました」(アオリスト)。
+ 「拒む」の原語は「アセテオー」ἀθετέωで、「つまずき」が元で、神の国の福音の本来ある姿を拒絶しました。「アセテオー」は、「拒否する」「はねつける」「受け入れない」「認めない」「退ける」「無効にする」「無用なものとする」「捨てる」「無視する」「軽んじる」「軽蔑する」「あなどる」と言った意味にもなります。その背景には、自分たちが築いてきた信仰の体制の中に閉じこもろうとする傾向があるからです。
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+ 神は、常に、私たちの予想を超えた創造的な新しさの中にご自身を現されます。それゆえに、私たちは子どものように神の国を受け入れなければならないのです。なぜなら、子どもというのはいつも未来に向かって開かれている存在だからです。過去にとどまることなく、神の国の福音の新しさ、想定外の事柄に対して、いつも、驚きをもって心を開くことが大切です。そこから新しい事が起こって来るからです。