わたしのもとに来なさい
- マタイ福音書11:27~30 -
シャローム宣教会
[マタイ福音書11:27~30] 「27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませて(「メヌーハ―」מְנוּחָה)あげます。29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎ(「マルゴーア」מַרְגּוֹעַ)を得ます。30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
*本文のイエスの招きのことばには二つの招きがあります。その一つは「わたしのもとに来なさい」という招きであり、もう一つは「わたしから学びなさい」という招きです。それぞれの招きに対して神の安息が約束されています。
1.「すべて疲れた人、重荷を負っている人」とはどういう人か
*28節の「すべて疲れた人、重荷を負っている人」とはどういう人のことを言っているのか、正しく理解することが必要です。文脈で考えるならば、「すべて疲れた人、重荷を負っている人」(いずれも原文は複数)とは、「イエスの弟子たち」のことです(ヨハネ福音書11:27)。なぜ彼らが「疲れた人、重荷を負っている人」なのかといえば、当時の社会を知る必要があります。すべて疲れた人、重荷を負っている人のことを、一般的な意味で、すべて(例外なく)、生きることに疲れた人、病気に苦しむ人、人から傷つけられた人、仕事や受験に失敗した人、失恋した人のこと、自分に自信を無くした人のこと、何かの重圧で苦しんでいる人として考えることができますが、ここではむしろ当時「重荷を負わせ」て「疲れ果てる」まで押しつぶす人たち、特にパリサイ派の人たち(律法純粋主義者)がいたことです。彼らはモーセの掟を守らないと救われないと考え、人にもそのように教える宗教家たちが、当時の人々に「重荷を負わせ、圧し潰そう」としたのです。それだけでなく、律法を守れない人々を「アム・ハーアーレツ」(עַם הָאָרֶץ)、すなわち「地の民」と呼んで軽蔑したのです。そのような人は「自分は到底救われない」「神は私を見放した」と絶望するように彼らによって思わされていたのです。それでパリサイ人や律法学者たちにだまされている人(マタイ福音書11:27)に向かって、イエスは招きのことばをかけられたのです。
2.イエスの第一の招きのことばと約束
*28節「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。」。これがイエスの第一の招きの言葉でした。「わたしのもとに来なさい」(「デューテ・プロス・メ」Δεῦτε πρός με)。これをヘブル語にすると「ペヌー・エーライ」(פְּנוּ אֵלַי)となります。直訳は「あなたがたは私のほうに振り返りなさい」となります。ヘブル語の「パーナー」(פָּנָה)は「向き直る、向きを変える、顔を向ける、振り向く」という意味で、「悔い改める」の「シューヴ」 (שׁוּב)と同義です。イエスに向き直ることで、「わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と約束されています。
3.イエスの第二の招きのことばと約束
*第二のイエスの招きのことばは「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」というものです。まず「あなたがたも」というところが重要なところです。「あなたがたは」ではなく、「あなたがたも」なのです。それはイエスの「わたしも」が含まれているからです。つまり、御子イエスも御父のくびきを負って歩んでいるという前提があるのです。イエスと御父が「くびきを負って」いる姿があって、「わたしから学びなさい」と招きのことばがなされています。「学びなさい」はギリシア語「マンサノー」(μανθάνω)のアオリスト命令形で、主体的、自発的行為を意味します。ヘブル語は「ラーマド」(לָמַד)の命令形(男複)「ラムドゥー」(לִמְדוּ)です。
*「学ぶ」とは単に頭で知識的に学ぶという意味だけではなく、からだで学ぶという意味合いが強いように思います。あるいは弟子が師匠のすることを見て倣うことでもあります。それは忍耐が求められる修業でもあります。師匠から学んだ者だけが、はじめて一人前になり得る世界です。「わたしから学びなさい」とあるように、私たちの師匠はイエスでなければなりません。そのようにして、神とのかかわりにおいて新しい意味を見出すのです。新しい意味を見出す瞬間には喜びが必ず伴います。そしてこの喜びは人間にとってとても根源的なものなのです。それゆえ、「学ぶ」ことは生きる喜びにつながります。この生きる喜びを感じ取っているキリスト者は幸いです。「学び」は暗やみを突き破り、未来を照らす力をもたらすのです。
*「くびき」(「オール」עֹל)とは右図にあるように、二頭の牛の首に負わせて進むべき方向へ導くための棒状の横木のことですが、くびきを負うというのは比喩的です。というのは、だれでもへりくだって頭を垂れなければ、くびきを首に乗せることはできません。聖書に「うなじを固くする」(新改訳2017、新共同訳)という表現があります。以前の新改訳では「うなじのこわい民」という表現でした。もっぱら聖書ではイスラエルの民をそのように言っているのです。「うなじを固くする民」とは、神に従順ではない民、神に反逆して従わない民のことを言っているのです。うなじが固いということは、神と民がともにくびきを負えないということになります。くびきを負う例は、神が結び合わせた結婚がその例です。だとすれば、くびきを負うことは心地よいものとならないでしょうか。結婚した夫婦がそれぞれ自分を主張して、互いに「うなじを固くする」ならば、「くびきを負うこと」は苦痛となり、別れるしか道がなくなります。
*マタイ福音書11:29の「わたしのくびきを負う」ということばをヨハネのことばで表現するなら、「キリストのうちにとどまる」(ヨハネ福音書15:4~5、17:21~22)となると思います。ですから、イエスは「わたしのもとに来なさい」。そして「わたしのうちにとどまりなさい」と言っているのです。後者のことばは実はとても重要で、ここが欠落しているクリスチャンが多いのではないかと思います。
[ヨハネ福音書15:4~5] 「4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」
[ヨハネ福音書17:21~22]「21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」
*第一の招きによる約束の「安息」と第二の約束の「安息」とはどのように違うのでしょうか。第一の「安息」(「ヌーアッハ」נוּחַ)はイエスに立ち返ることによって、やがて回復されるエデンの園にある安息で、回復された永遠の安息です。しかし第二の「安息」(「マルゴーア」מַרְגּוֹעַ)は、自らイエスのくびきを負って学び、あるいはイエスのうちにとどまることによって自ら見出そうとしなければ、得られない「安息」なのだということです。
*マタイ福音書11:30にある「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」にある「負いやすく」ということばと「荷は軽い」について心に留めたいと思います。まず、「負いやすく」と訳されたギリシア語の「クレーストス」(χρηστoς)という形容詞は「心地良い」という意味もあります。ヘブル語訳「ナーイーム」(נָעִים)は「楽しい、好ましい、麗しい」という意味であり、「軽い」と訳されたギリシア語の「エラフラス」(ἐλαφρός)もヘブル語の「カル」(קַל)も、決して疲れや重荷とはならないことを表わしています。
*最後に、私たちを主の幼子として選び出してくださった御父に感謝しながら、本文のイエスの招きのことばと約束のことばを心に留めたいと思います。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスにいつも目を注いで、イエスの「くびきを負うことの心地よさを、楽しさを、麗しさを」日々経験していきたいと思います。
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+ 讃美歌363/337] 「つげよ主に」、この讃美歌は、エリシャ・ホフマン(Elisha Albright Hoffman, 1839-1929)牧師が1893年、ある不幸な女性を訪ねて帰ってきて作詞・作曲したものである。彼はこう回顧した。
- ある日、神様は、悩みや苦痛でうめき声を上げているある女性を訪ねるように私を送ってくださった。その女性は、自分の困難な境遇をすべて話した後、「牧師先生、私はどうしたらいいですか?と尋ねた。「主に頼むより良い方法はありません。イエス様に頼んでください。 You must tell Jesus.」 / しばらくの間、言葉もなく深い考えに沈んでいたその女性は、目を開いてこう言った。「はい、イエス様にお願いしなければなりません!Yes, I Must tell Jesus」 / 家に戻った私はその光景が目に浮かびました。'Yes, I Must tell Jesus. Yes, I Must tell Jesus.' 私はその場で作詞·作曲をしました。