信仰をともにしたサラの死
創世記 23章1~20節
これまで学んできたアブラハムの信仰の生涯も残りわずかとなりました。アブラハムの一生は175歳であることを聖書は記しています。彼は平安な老年を迎え、長寿を全うしてその生涯を閉じることになるのですが、彼が137歳のときに妻サラに先立たれます。夫として、自分の妻を葬るための墓地を購入して墓を造ること。また父として、息子イサクのために嫁を迎えるという、いわば信仰継承の問題に対してまだまだ大切な働きを果たさなければなりませんでした。そのことが、今回の23章と次の24章に扱われています。
今回は、愛する妻を失ったアブラハムとその妻を葬るために、かなりのこだわりをもって墓を手に入れたことが何を意味するのかを考えてみたいと思います。
1. サラのために嘆き、涙したアブラハム(1~2節)
2節を見ると、アブラハムは妻のサラの死に際して「嘆き」悲しんだことが分かります。私たちはここでアブラハムの新たな一面を見るような気がします。というのも、アブラハムの生涯においてこのときほど激しく感情を現わした記述がないからです。彼が「泣いた」と記されているのはこの箇所だけです。「嘆き、泣いた」ということばは、声を上げて泣いたということです。妻の死に彼は号泣したのです。どんなに彼がサラを愛していたか、彼にとってどんなにかけがえのない存在であったかが分かります。
聖書をよく観察すると、「アブラハムは来て」とありますから、サラが息を引き取ったときに、アブラハムは家を離れていたのかもしれません。いずれにしても、アブラハムがそのことで嘆き、泣いたということはすばらしいことではないかと思います。サラとは百年近くともに過ごした生涯の伴侶でした。喜びも悲しみもすべてともにしてきたのです。行くところ知らずして出発した信仰の伴侶、長きにわたって子が与えられるのを待ち望んだ忍耐の伴侶、多くの困難と試練をともに経験した伴侶でした。また、幼なかりし頃のことや、故郷のこと、昔の思い出を語るときはただ彼女だれが同じ思いに浸ることの出来た伴侶でした。ですから、アブラハムのサラに対する涙は当然であり、自然であり、また美しくもあります。
信仰が深くなると、悲しんだり、嘆いたりしないものだという考えは間違っています。グッド・グリーフ(健全な嘆き)があるのです。感情を押し殺すことなく、それを表に出すことの大切さです。必要以上に感情を抑圧すると、自分に何らかの害を及ぼすようになります。精神的な面で、あるいは身体的な面にえいても・・です。
私たちはその生涯で、自分にとって大切な人物と死別したり、あるいは別離を余儀なくしてりという経験をします。人でなくても、愛着のあるもの、あるいは社会的な立場や地位、環境という場合でも、それを喪失すると、それなりの悲しみを経験するものです。たとえば、主人の務めていた会社の都合で突然転勤を命じられたり、あるいは解雇されたりした場合、それまでつながりのあった人間関係を喪失してしまうのです。また、信じてきた人が陰で自分の悪口を言っているのを耳にしたり、約束が反故にされたりした場合にも、程度の差こそあれ、嘆かざるを得ない、悲嘆にうちひしがれる経験をすることになります。考えてみると私たちは日常茶飯事的に何らかの喪失体験をしているのです。そんな時に自分の感情を抑圧することなく、何らかの形で表に出すということが大切です。涙を流すことはキリスト者らしくないと思ってはなりません。何事もなかったかのような顔をして感情を押し殺すのは良くないことなのです。アブラハムも、そしてイェシュアも涙を流されました。弟子のペテロも、そしてパウロもです。人前で泣くことは恥ずかしいということもあるかもしれません。それなら一人きりになって、どんな方法でもかまわない、ともかく感情を自然にありったけ注ぎ出してしまうことが悲嘆を切り抜ける心の仕事であり、それがやがて前向きに生きる姿勢が生まれて来ると言われています。できることなら、そんな自分を受け留めてくれる人が身近にいるならば、とてもすばらしいことだと思います。教会はそのようなところでなければならないと考えます。
2. 寄留者としての自己認識(4節)
さて、サラのために嘆き、泣いたアブラハムはそこから立ち上がります(3節)。いつまでも悲しみの中に沈んはいませんでした。彼は「死者のそばから立ち上がって」残された者としての義務を果たそうとしました。つまり、サラを葬るための墓地を取得しようとするのですが、4節で彼が自分のことを「私はあなたがたの中に寄留している異国人ですが」と言っている点に注目したいと思います。
ここでアブラハムはヘテ人の前に出て、自分が旅の者であり、寄留者であることを自己認識しています。旅人は一時的に滞在しているという意味です。自分の故郷を持っていますが、しばらくの間、異国の地に住んでいる者のことです。
ところで、初代のキリスト者たちは自分のたちのこの地上の歩みを、「寄留者」と考えていました。地上の生活は旅の生活であって、キリスト者にとっての本当の故郷は「天の御国」と考えていたのです。使徒パウロが「私たちの国籍は天にある」(ピリピ3:20)と言ったように、私たちのキリスト者の故郷は天にあるのです。キリスト者はその天からこの世に遣わされ、神を否定し、神を拒むこの世の中に寄留している者と言えるのです。このこのとをどれだけ認識しているかが、現実の歩みの中に具体的に反映してくるのです。そこで、「私たちの国籍は天にある」と告白する生き方とはどういうものなのでしょうか。
(1) 天からこの世に遣わされているという使命的自覚を持っている
イェシュアを信じて救われたのですから、いち早く天国に行っても良いはずです。しかし今私たちが世に生かされているのは、それなりの使命と目的があるからです。そのために私が選ばれ、召されているという自覚こそ、「私の国籍は天にある」と告白する生き方です。
(2) この世のものに執着しない
この世のものをいい加減にして良いということではありません。一時的なものとそうでないもの(永遠的なもの)とを見極めて生きるということです。地上のものはやがて過ぎ去っていくものです。ですからパウロは「私たちは目に見えるものではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)と言っています。
死に際して持って生けるものは、みことばしかありません。一銭たりとて、服一枚も持っていくことはできません。私たちは裸での世に生まれて来たのであり、また裸で去って行きます。何も持っていくことができないのです。ただひとつ持って行くことのできるのは、イェシュアが語られた約束(みことば)だけなのです。
(3) 天に宝を積む生活
イェシュアは「自分の宝を地上に貯えるのはやめなさい。そこでは虫とさびで傷物となり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は天に貯えなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:19, 20)と言っています。天に宝を積む生き方とは、分かりやすく言えば、自分に与えられているものすべてを、神のご計画のために自らをささげていくということです。それが「天に宝を積むこと」なのです。
アブラハムが自分のことを「私は旅人であり、寄留者である」と自覚していたことを深く心に留めたいと思います。
3. 墓地に葬ることの信仰的意義(4~20節)
「私は旅人であり、寄留者である」と自覚したアブラハムが、この地上で手にした不動産は「墓地」でした。アブラハムがこの墓地を私有のものとして手に入れる経緯が4節以降に記されていますが、その墓地の取得に当たって、その方法にかなりのこだわりがあることが分かります。その経緯を見てみましょう。
最初、アブラハムがそこに住んでいたヘテ人に墓地の交渉をした時に、彼らは「あなたはたいへん良い方ですから結構です。どうぞ最上の墓地に、亡くなった方を葬ってやってください」と非常に好意的な返事でした。そして、何度も何度も「差し上げます」ということばが出てきます。「ああ、そうですか。そこまで言ってくださるなら・・お言葉に甘えて」と言って、私ならただで受け取ってしまう所です。ところがアフラハムはそうではありませんでした。きちんと正当な手続きと正当な代価を支払って手に入れようとしたのです。「ただほど恐いものはない」と思ったからでしょうか。あくまでも、アブラハムが支払うというので、相手方も最初は好意的であったものの、四百シェケルという値段を持ち出しました。正確な換算はできませんが、当時としてはかなり高額であったようです。※脚注
アブラハムがなぜそれほどまでに、ある種のこだわりをもって墓地を取得しようとしたのでしょうか。実はそうした態度の中に、学ぶべき信仰の教訓が隠されているのです。二つのことを取り上げたいと思います。
(1) 神の約束を信じる信仰のあかしとして
第一に、アブラハムは神の約束を信じる信仰のあかしとして墓を手に入れたということです。以前、アブラハムは神から約束が与えられていました。
これまでアブラハムがカナンの地に住んできたのは、神の約束を信じてのことでした。しかし実際には彼は少しの土地も持っていなかったのです。その彼がこの地に墓を設けたことは、神の約束に対する信仰のあかし、すなわち、「いかなる困難があろうともカナンの地を離れることはしません」という信仰の表明だったと考えます。やがて神はこの地を与えてくださるという信仰に立って、彼は私有の墓地を得たのです。
ちなみに、ヘテ人(ツォハルの子エフロン)がアブラハムに提示した「銀四百シェケル」という金額は、13~15節にある「あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。14 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。」という神の約束の数字と合致します。やがてその土地はヘテ人からではなく、神から与えられる地であるという信仰告白としての意味が隠されていたと考えられます。でなければ、なぜ無償の提供から一気に「銀四百シェケル」という高額な金額を提示することになったのか理解できません。その背後に神の隠されたご計画があるからです。その視点から考えることで、その意味することが見えて来るのです(補完的記述)。
アブラハムが取得したマクペラの墓地に葬られたのは、サラのみならず、アブラハム、イサクとその妻リべカ、彼らの子ヤコブ、その妻レアです(創世記49:29~32、50:13)。彼らはみなアブラハムと同じ信仰に立ってこの墓に自ら指名して入ったのです。そのことで信仰的なアイデンティティーを実現したのです。
(2) 復活についての信仰のあかしとして
アブラハムが墓の取得にごたわった信仰の教訓の第二のことは、アブラハムがやがて復活の確かな望みをもって丁重にサラを葬ったのではないかと思います。イェシュアが死に打ち勝って、死からよみがえってくださつたことにより、死に永遠の別離ではありません。墓はやがて死から復活するときまでの仮の宿と言えます。イェシュアは死者の亡骸を丁重に葬るように言われました。日本のように、呪われないように、ただりがないようにそうするのではありません。あるいは子孫の守護神としてそうするのでもありません。丁重に葬るのは、やがて来るべきときに、つまり主の再臨のときに、イェシュアを信じる者は例外なく朽ちることのない栄光のからだを与えられてよみがえります。私たちはその時の栄光を待ち望んで葬るのです。アブラハムはイサクの件を通して、よみがえりの啓示を神から受けていたと考えても間違いではありません。
というのも、創世記22章においてアブラハムは、イサクを全焼のいけにえとして神にささげようとしました。この出来事をヘブル人への手紙の著者は次のように解釈しています。
信仰の父であるアブラハムがよみがえりの信仰をもって丁重に妻サラを墓に葬ったように、私たちも同じ信仰をもたなければなりません。なぜなら、聖書が教えている「義」は、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じることによって義と認められるからです。アブラハムがその信仰によって「義」と認められたのであれば、「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされる」(ローマ4:24)からです。
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