恵みの御座に
- ヘブライ4:15〜16 -
シャローム宣教会
[ヘブライ書4:14〜16] 「14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。15 私たちの⼤祭司は、私たちの弱さに同情できない⽅ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、⼤胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
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[出エジプト記33:18-19] 「18 すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」 19 主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」
[ヨハネの第二1:3] 「真理と愛のうちに、御父と御父の御子イエス・キリストから来る恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。」
+ 実は、15、16節は14節で「私たちには偉⼤な⼤祭司をもっているのだから、その⽅への信仰を堅くたもう」と呼びかけたあとで、その⼤祭司が私たちにとってどういう⽅かを別な⾯から説明して、その⽅の助けを受けるために、その⽅に⼤胆に近づきましょう。」という流れになっていて、前半と後半は全く別のことをいおうとしているのではなく、むしろ、私たちの信仰を堅くするのを補強するかたちになっています。
1. 信仰の告⽩を堅く保つ
+ 「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉⼤な⼤祭司である神の⼦イエスがおられる」というこの事実を私たちは信じなければなりません。へブル⼈ではとりなしの存在としての「⼤祭司」ということばにこだわっていますが、使徒パウロの⼿紙はそうではありません。直接的に「よみがえられた⽅であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ書8:34)と述べています。私たちはこの⽅によって、たとえ患難の中にあっても、迫害にあっても、危険に⽬にあっても、どんなことの中にあっても、「圧倒的な勝利者となるのです。」と宣⾔しています。そして、このキリストの愛から引き離すことはだれにもできないと語っています。
+ ここには「⼗字架の教え」を超えた「御座の教え」があります。御⽗の右の座に着かれた神の⼦イエス、偉⼤な⼤祭司なる⽅によって私たちは⽀えられているという確信的な教えです。⼗字架をとおって御座へ着かれた⼩⽺なるイエス、その⼩⽺は最も弱い存在ありながら、最強の⼒と権威をもった⼩⽺なのです。その⼩⽺が今や神の右の座において、天において統べ納めておられるのです。 昔は「⼗字架系の賛美―あがないの賛美」が多かったのですが、近年、「御座系の賛美」が教会で歌われるようになりました。
+ この偉⼤な⼤祭司が「私たちのためにおられるのです。」これを英語ですと、We have a great High Priestというふうになります。We have 私たちは「持っている」「所有している」「私たちのものだ」という意味です。ある⼈はお⾦を持っている。地位や名誉を持っている。家を持っている、友達を持っている、能⼒や経験を持っているという⼈がいます。その⼈が何をもっているのかによって⼈からどう評価されるかが決まるわけです。しかし私たちは何を持っているでしょうか。あなたが有しているのは何ですか。使徒ペテロとヨハネが神殿に祈りに⾏った時に、⽣まれながら⾜の不⾃由な⼈から施しを求められました。そのときなんと⾔ったでしょう。「私には⾦銀はないが、私にあるものを上げよう」と⾔って差し出したのは、「イエスの御名」です。つまり、「イエスという⽅」でした。このイエスは「もろもろの天を通られて、私たちのために、最も権威ある御⽗の右の座に着かれた⽅です。その⽅が私たちのためにとりなしてくださるのです。」それが私たちの信仰です。それゆえ、今朝の第⼀の奨励「私たちの信仰の告⽩を堅く保とうではありませんか。」―がものを⾔います。
+ 私たちは偉⼤な⼤祭司である神の⼦イエスをもっているという確信こそ、すべての持てる者の中で最もすばらしいものなのです。⼤祭司のおられる御座からすべての神の祝福が流れてきます。その源泉におられる⽅を私たちはもっているのです。
2. 私たちの⼤祭司は、私たちの弱さを同情(理解)してくださる⽅
+ 神から私たちを引き離そうとする敵の策略を、敵の誘惑をすべての点において経験されたという意味だと思います。罪は犯しませんでしたが、罪に陥れようとする誘惑、⼈間が受ける誘惑、その誘惑のすべてを経験したのです。- 40⽇40夜の「荒野の試み」はその良い例です。その誘惑の経験は、⼈間が受ける誘惑の⼒よりももっと強く経験されたのです。というのは、⼈間は誘惑に対していとも簡単に屈してしまうので、その戦いは罪を犯さなかったイエスとはその戦いにおいてくらべものにならないほどです。しかし、イエスは誘惑がいかに強いものであり、⼈間はいかにそれに弱いかをよく知っておられました。
+ 「私たちの弱さ」とは、誘惑に屈しやすいということです。その点においてイエスはよく理解しておられました。⾃分も同じように、私たちのレベル以上にそれを受けたからです。罪は犯しませんでしたが、その誘惑の⼒に⼈間が耐えられないことをよくご存じでした。その意味においての同情であり、理解です。「私たちの⼤祭司は、私たちの弱さに同情できない⽅ではありません。」、という⾔い回しは、むしろ、私たちの弱さを⼗分すぎるほどに同情できる⽅であり、理解してくださっている⽅なのだ」と⾔っています。しかしヘブル⼈の作者は、単に、イエスが私たちを理解し、同情して下さる⽅というだけで終わっています。むしろ、その先。つまり、誘惑に打ち勝っていく助けを備えておられる⽅であるということを喚起させようとしているのです。
3. 試み(誘惑)に打ち勝っていく助けを受けるために、⼤胆に恵みの御座に近づこう
+ ですから、16節で「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、⼤胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」と呼びかけているのです。「弱いからそのままでいい」ということは⾔っていません。弱いことは⼗分すぎる程、私たちの気づかないところまで、イエスはよくご存じです。私たちがこの世において⽣きる上で試みは常にあります。しかし同時に、御座におられる⼤祭司は、私たちが誘惑に陥ることなく、神の⼦どもとして⽣きる必要な助けを与えようとしておられる。だからこそ、「⼤胆に、恵みの御座に近づこう!」と奨励しているのです。そうするなら、「おりにかなった助け」「時期を得た助け」がある、それを受けるためには、私たちの⽅から近づいて⾏く、つまりその助けを信仰をもって⼤胆に求めていく必要があるということです。
+ 私たちはこの⼤祭司が私たちの弱さをよく理解してくださるというところに⼒点が置かれますとそれで終わってしまいます。むしろ、神の⼦どもとされた私たちが、幼⼦から⼤⼈へ、より成熟した者となれるように、研ぎ澄まされた霊的な感覚をもてるように、また「おりにかなった助け」を受けるために、〔恐れることなく〕〔はばかることなく〕〔臆することなく〕、〔⼤胆に〕〔確信をもって〕〔熱⼼に〕、恵みの御座に近づこうではないかと促しているのです。
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[テモテへの第二1:2] 「愛する子テモテへ。父なる神および私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。」