私も、いつかは変えられる日が来るのか。
自らの罪の悲惨さから、いかなる行いにもよらず、ただ恵みによりキリストを通して救われた者が、それにもかかわらずなぜ“善い行い”に励むのか。その第一の理由は、キリストが聖霊によって私たちを御自身のかたちへと生まれ変わらせてくださるから。第二は、神の救いの恵みに対して私たちが全生活にわたる感謝を表すためでした(問86)。
“善い行い”の基準としての十戒の学びを締めくくるにあたって、『信仰問答』はもう一度これらの出発点を違った角度から想起させようとしています。
これまで一つ一つ詳しく学んできた戒めに表された神の御心を「神へと立ち返った人たちは…完全に守ることができるのですか」と問いかけます。それは、聖人のようになれるかもという期待からでしょうか。それとも、どうせ守れるはずなどないという諦めからでしょうか。『信仰問答』は、そのどちらも否定します。
第一に「最も聖なる人々でさえ、この世にある間は、この服従をわずかばかり始めたにすぎません」。神の基準と人間の基準を同列に考えてはなりません。たとい人間的には“完全”に見えたとしても、人の業など神の基準に遠く及ばないことを忘れないようにしましょう。実際、聖なる人であればあるほど、神の御前に自分の罪深さをいっそう自覚し、自らの最善の業に対してさえ「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と告白することでしょう(ルカ17:10)。
他方で、どうせ守れるはずなどないという悲観論にも『信仰問答』は反対します。「神へ立ち返った人たち」とは回心をした人たち、人生の方向転換をした人々です。回心をしても罪から逃れられるわけではありません。依然としてボロボロの歩みかもしれない。それにもかかわらず「その人たちは、真剣な決意をもって、神の戒めのあるものだけではなくそのすべてに従って、現に生き始めているのです」。
どれほどの決意なのか、またどれほどの進歩を示すかは、人によって違うでしょう。しかし、感謝と献身の思いをもって人生の全体を主イエスに向けて生き始める。この事実を過小評価してはいけません。これこそが、キリストが約束してくださった聖霊による御業だからです(問1)
十戒は、言わば神の家の家訓です。ふさわしくない私たちでも、親から絶えず諭され、長子であられる御子イエスのまねをしているうちに、いつの間にか神の子どもらしく整えられている自分に気づくことでしょう。
とは言え、この世において誰も完全に守ることができない神の掟の説教などより、もっと慰めに満ちた話だけで十分ではないか(問115)という声が、どこからか聞こえてきそうです。確かに福音の説教は私たちの命です(問84)。それでもなお、神の戒めの説教が為されることは必要であると『信仰問答』は答えます。
「第一に、わたしたちが、全生涯にわたって、わたしたちの罪深い性質を次第次第により深く知り、それだけより熱心に、キリストにある罪の赦しと義とを求めるようになるためです」。神の恵みの認識は、自己の罪認識と直結しています。自分の罪意識がぼやけてくると、神の恵みもわからなくなるものです。そのためにも神の基準を明確に示され続けることによって、自分の罪深さを思い知らされ(ローマ7:7,24、1ヨハネ1:8,10)、絶えず謙遜にさせられることが必要です。そのようにして、私たちは神の絶大な憐みをよりよく実感し、キリストの救いをこれまで以上に熱心に求めるようになるでしょう。
つまり、神の戒めの説教は、信仰者の成長のために必要だということです。それは「わたしたちがこの生涯の後に、完成という目標に達する時まで、次第次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされてゆくため」のものなのです。十戒は、言わば神の家の家訓です。ふさわしくない私たちでも、親から絶えず諭され、御子イエス(ローマ8:29)のまねをしているうちに「聖霊の恵み」によって神の子どもらしく整えられている自分に気づくことでしょう(問1)。
「わたしは…既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」とパウロでさえも言いました。大切なことは「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ…、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:12以下)。この生涯の後に、天の御国での完成というゴールに至るまで!