殺してはならないというのは
聖書が教える隣人愛は、一人一人の存在を良しとされる神の御意志に従うことから始まると前回学びました。「殺してはならない」という第六戒は、まさに一人一人の命を尊ぶという最も基本的な戒めです。
『信仰問答』は、この単純な戒めのために三つの問答をあてて詳細に論じています。それは、問106に述べられているように、この戒めが教えていることは単なる殺人の禁止だけでなく、神が「ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心のような殺人の根を憎んでおられること。また、すべてそのようなことは、この方の前では一種の隠れた殺人である」ということだからです。
“殺人の根”と言われる思いについて、はっきり記してあるのは山上の説教にある主イエスの言葉でしょう。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな、人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(マタイ5:21-22)。
しかし、神の御前に罪を犯して堕落した始祖アダムとエバの子どもたちに起こった悲惨な出来事も、そもそも兄の弟に対する「ねたみ、憎しみ、怒り」から生じた殺人事件でした(創世4:1-8)。ですから、聖書は、もう初めから“殺人の根”が何なのかを知っていたのです。
「殺してはならない」をこのように理解する時、この戒めは「わたしが、思いにより、言葉や態度により、ましてや行為によって、わたしの隣人を、自分自らまたは他人を通して、そしったり、憎んだり、侮辱したり、殺したりしてはならないこと。かえってあらゆる復讐心を捨て去ること。さらに、自分自身を傷つけたり、自ら危険を冒すべきではない」こと、という広がりを持ってきます。
この問答書が記された当時のジュネーヴ教会では、毎週開かれた役員会のおよそ三分の一の時間を親子や夫婦や地域のケンカの仲裁に費やしたそうです。ここに記されている事柄が決して机の上だけの問題ではなかったことがよくわかります。実際、この問答の教えは驚くほど現代的で今日でもほとんどそのまま当てはまるのではないかと思うほどです。
命が軽視される社会…とは、自分が生きていることの価値や喜びを
感じることができない社会ということなのかもしれません。
人はすべて“神のかたち”に造られています(創世1:27,9:5-6)。それは外観のことではなく、人間の尊厳とも言うべきものです。そして、神が一人一人にお与えになった命の尊厳を傷つけることは、人には許されていないのです。たとい復讐であっても、神に委ねるべきです(ローマ12:19)。ただし権威者は、言わば神の代理として「殺人を防ぐために剣を帯びて」いると言われます(ローマ13:4)。
ちょうど人間の堕落の結果が「ねたみ、憎しみ、怒り」から生じた殺人であったのとは逆に、御子によって救ってくださった神が私たちに求めておられるのは「自分の隣人を自分自身のように愛し、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、その人への危害をできうる限り防ぎ、わたしたちの敵に対してさえ善を行う」生活です。
人のねたみや憎しみや怒りは、何の罪もない神の御子をさえ十字架につけて殺してしまうほどでした。しかし神は、私たちを裁かれるどころか、かえって私たちを愛し、御子の十字架によって“敵意”を滅ぼしてしまわれました(エフェソ2:16)。それは、この神によって赦され愛された私たちがこの方の“心”を自分の“心”として生きるためです。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6:36)「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである」(マタイ5:44)。
命が軽視される社会、ねたみや憎しみのような“殺人の根”がはびこる社会とは、自分が生きていることの価値や喜びを感じることができない社会ということなのかもしれません。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4・新改訳)と神は言われます。その独り子をくださるほど私たちを愛してくださった神の愛に基づく生活、それがイエス・キリストによる新しい生活です。