聞かれる祈りには
前回の問116で“祈りとは何か”を問うよりも“なぜ祈るのか”と問いかけた『信仰問答』は、ここでもユニークな問いかけをしています。単なる祈りの方法ではなく「神に喜ばれ、この方に聞いていただけるような祈り」には何が求められるかを問うからです。聞かれるかどうかわからない宝くじのような祈りではなく、神様に喜ばれ確かに聞いていただける祈りには何が必要かという、祈りの姿勢を教えるのです。
その問いかけに対し『信仰問答』は三つの答えを挙げていますが、それぞれの答えを理解するために、やはり祈りとは何かをまず確認しておくことが必要です。
一言で言えば、祈りとは神との対話です。少なくとも聖書の信仰における祈りとは、対話であって“独り言”ではありません。例えば、神社に行って柏手を打って願い事をする。これは、ある意味で独り言の祈りです。神について具体的なイメージがあるわけではない。どこに向かって祈っているのかもわからない。とにかく、自分の願いを聞いてもらおうと思って一方的に語っているだけです。
しかしながら、聖書の神に対する祈りは対話です。祈りを捧げる相手がはっきりしている。しかも、その神は人格を持っておられる。つまり“心”を持っておられるということです。そして、神はその“心”をまず私たちにお示しになりました。それが聖書に記された神の御言葉です。聖書の中で神の“心”を知るようにと何度も言われるのはそのためです(ロマ12:2、エフェソ5:17、他)。ですから、キリスト者の祈りとは「御自身を御言葉においてわたしたちに啓示された唯一のまことの神」に対する人格的な応答なのです。
主イエス・キリストこそ、神と私たちとの心が通う“対話”を可能にされた方です。 どうして私たちの祈りが聞かれないことがありましょうか!
したがって、この“神”に喜ばれる祈りに必要な第一のことは「この方がわたしたちに求めるようにとお命じになったすべての事柄を、わたしたちが心から請い求める、ということ」です。どんなに激しい祈りでも、この神から求めようとしない祈り(ホセア7:14)、また自分勝手でわがままな動機に基づく祈りは聞かれません(ヤコブ4:3)。しかし、この方の“心”を知って真剣に語りかける私たちの祈りを、この方もまた真剣に受け止めてくださる。これが私たちの確信です(1ヨハネ5:14)。
別に言えば、神との人格的な対話である祈りは、神との関係の中で、学びつつ成長して行くものだということです。ちょうど幼児が親におねだりするように、信仰者の祈りも初めは願い事ばかりの祈りかもしれません。けれども、子どもが大きくなるにつれ、親が何を考えているか、どのような願いなら聞き入れられまた聞き入れられないかがわかってくるように、信仰者もまた神についての理解が深まるにつれ、この神に対して何を祈るべきか祈るべきでないかがわかるようになってきます。信仰の成長と祈りの成長は、一つのことなのです。
第二に、私たちが祈りを捧げる御方を知れば知るほど「自分の乏しさと悲惨さとを深く悟り、この方の威厳の前にへりくだる、ということ」です。罪を犯していながら、何食わぬ顔で祈りを捧げるようなことをしてはなりません(コヘレト4:17、イザヤ1:15)。神が求めるいけにえは、自らの愚かさと罪を心から嘆いてへりくだる心なのですから(詩編51:19、ルカ18:9-14)。
それにもかかわらず、第三に、私たちが「ただ主キリストのゆえに、この方がわたしたちの祈りを確かに聞き入れてくださるという、揺るがない確信」をもって大胆に祈ることを、神は求めておられます。
こんな私の祈りなど聞いていただけないだろうと、罪深い自分に絶望することがあるかもしれません。しかし、そのような時こそ主イエスの御姿を心に留めましょう。この方がその地上での御生涯で、弱く罪深い人々をどれほど憐んで、その小さな声に耳を傾けてくださったことか。
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」(ヨハネ16:23)と、主イエスは言われました。そして、実に、このように約束された方が今や天の御父の右におられるのです。主イエス・キリストこそ、神と私たちとの心が通う“対話”を可能にされた方です。どうして私たちの祈りが聞かれないことがありましょうか!
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