安息日、日曜休日の基になった戒め
十戒の第四戒は「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という戒めです。この戒めには二つの側面があります。一つは“安息日”と呼ばれる日を守るという外的側面。もう一つは“安息日”が意図していることは何かという内的側面です。
私たちの生活時間を七日毎に区切るというカレンダーは古くから様々な地域に見られましたが、七日毎に“休む”という習慣はおそらく聖書を信じる人々によって守られた非常に特殊な生活習慣でした。しかも、単に休むだけではない。一切の労働をせずに神礼拝のために費やす一日なのでした。
この習慣は、神が六日間で万物を創造され七日目に休まれたという話(創世2:2、出エジ20:11)に基づいており、この神と民との間の“永遠の契約のしるし”とされました(出エジ31:16)。
イエス・キリストを指し示す“影”にすぎない律法から解放された(コロサイ2:16-17)キリスト者たちは、ユダヤ教の安息日を継承こそしませんでしたが、主イエスが復活された日曜日毎に集まっては集会を持ち(使徒20:7、1コリント16:2)、その日を「主(イエス・キリスト)の日」と呼ぶようになりました(黙示1:10)。
キリスト者たちにとっても、この七日毎のサイクルは、言わば神がお定めになったライフスタイルのように受け止められたのかもしれません。つまり、私たちと神との関係は、単に唯一真の神を正しく礼拝するということだけでなく、私たちの生活そのものが神のリズムと調和する必要があるということです。
礼拝自体は個人でも家庭でも様々な場所や機会に守ることができますが、それでもなお主の日毎の公的礼拝にまさって大切な礼拝はありません。二人でも三人でも主の御名によって集まりがなされている所、そこに復活の主イエス御自身が共にいてくださるのですから(マタイ18:20)、主の民が皆で集まる礼拝はどれほど豊かに祝されることでしょうか。
自分中心に生きることを休んで、復活の主にすべてをお委ねして生きる。 それが心安らかな生涯を送る秘訣です。
ヨーロッパのキリスト教社会では、長い間、修道士たちを中心に毎日のミサが捧げられていましたが、庶民がミサに行くことはまれでした。宗教改革者たちは、七日毎に礼拝へ行くという神のリズムを人々の生活に回復するとともに、何よりも「説教の務めと教育活動が維持されて、わたしが、とりわけ安息の日には神の教会に熱心に集い、神の言葉を学び、聖礼典にあずかり、公に主に呼びかけ、キリスト教的な施しをする」ことを重んじて、真に礼拝する民の信仰的成長を促す日としたのです。
これは、この戒めの第二の点と関係しています。つまり、「安息日」とはそもそも何のために定められたのかということです。一言で言えば、それはまさに“安息”を与えるためでした。天地万物を創造された神自らが“休む”という模範を示されたように、すべて命あるものは休ませなければならないということです(レビ25章)。なぜなら、安息日に表された神の御心は「命を救うこと」だからです(マルコ3:4)。
人は働き続けるように造られていません。働き続けると身も心も壊れてしまいます。むしろ、定期的に休むことによって労働の祝福を喜び味わい、そのような祝福の基である神を思い巡らし礼拝する者として造られているのです。
この場合の“休み”とは肉体的のみならず精神的・霊的な休みをも含んでいます。ゴロゴロ横になっているからと言って、休めるわけではありません。私たちの心をふさぐ様々な欲望や思い煩い、自己中心的な人生に真の安らぎはないからです。
むしろ「生涯のすべての日において、わたしが自分の邪悪な行いを休み、わたしの内で御霊を通して主に働いて」いただくことです。この世の事柄のみに追われる日常から一歩身を引く。自分中心に生きることを休んで、復活の主にすべてをお委ねして生きる。それが心安らかな生涯を送る秘訣です。
地上の生涯を終えて、いっさいの労苦から解かれる時、私たちには安息が与えられるでしょう(黙示14:13)。けれども、主イエスと結ばれた生涯こそ、人間にとっての真の永遠に続く安息です。その意味で、キリスト者は、すでに「永遠の安息をこの生涯において始めるようになる」のです。