戒めの各々について
旧約聖書にある律法とりわけ「十戒」をキリスト者の生活の指針とすること自体は、『ハイデルベルク信仰問答』のみならず、すでに初期キリスト教時代からの伝統です。しかし、福音の恵みに対する「感謝」の応答として十戒を理解するのは、やはり宗教改革における大きな特徴と言えるでしょう。
さて、そのような宗教改革の口火を切ったマルティン・ルターは、十戒を瞑想する際に様々な視点から思い巡らすよう勧めています。まず、各々の戒めが私に何を要求しているかを考える。第二に、それによって神への感謝を思い巡らす。第三に、懺悔。そして最後に、祈りへと導かれるのだと。
元修道士だったルターらしい勧めですが、ここには十戒を学ぶ際の姿勢がよく示されています。十戒は表面的な言葉だけでなく、そこで神が「私に何をお求めになっているか」をよく思い巡らすこと。特に、その戒めに表された神の深い恵みを「感謝」の心で理解する。しかし、その求めに十分応えることのできない自分の無力さの「懺悔」。そして、少しでも従える者となれるようにとの「祈り」の必要です。
私たちの『信仰問答』もまた、同じ視点から書かれていることに気づかれたことでしょう。これから学ぶ戒めの各々について「主は何を求めておられますか」と問いかけられ、答えはしばしば「わたし」という一人称単数で記されて、神の恵みに対する感謝の応答として生きる姿勢が述べられているからです(懺悔と祈りについては、問114以下を参照)。
まことの神を神とすることが人間再生の第一歩です。
この礼拝的人生を、喜びをもって生きて行くことが主の恵みに応える道なのです。
さて、そのような十の戒め全体の土台とも言うべき戒めが、第一戒「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」です。この戒めで、主から求められていることは三つあります。
第一に「わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために、あらゆる偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人や他の被造物への呼びかけを避けて逃れるべきこと」です。「偶像崇拝」については、問95で教えられているように、ただ偶像を拝むということだけではなく「御言葉において御自身を啓示された唯一のまことの神に代えて、またはこの方と並べて、人が自分の信頼を
置く何か他のものを考え出したり、所有したりすること」も含まれます。
一言で言えば、聖書に教えられている神以外のものに信頼を置いてはならない、ということです。大切なのは、それが「自分の魂の祝福を失わないため」だということです。これまで私たちは、この神が私たち罪人の救いと祝福のためにいかに大きな犠牲を払ってくださったかを学んできました。そうであれば、あなたを救うこともできない虚しいものに心引かれて祝福を失ってはならないと、神は案じて戒めておられるのです(ガラテヤ4:8-9)。
キリストの犠牲によって魂の救いを得た私たちは、アダムとエバが犯した同じ過ちを繰り返してはなりません。「死んではいけない」と警告された神の戒めを無視して、他のものに信頼を置いて堕落し、罪の悲惨を招いた彼らの過ちを繰り返してはならないのです。魂に戦いを挑む肉の欲を避けて逃れるべきです(1ペトロ2:11)。
第二に、私たちはむしろイエス・キリストにおいて御自身を現してくださった「唯一のまことの神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽して、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ、敬うこと」です。この真実な神と主イエス・キリストを愛の心をもって信頼することこそ、人の命だからです(ヨハネ17:3)。
そして、第三に、私たちを祝福してくださる「神の御旨に反して何かをするくらいならば、むしろすべての被造物の方を放棄する」覚悟を持つことです。私たちの健康も家族も生活も仕事も、すべては神からの祝福であって神がおられてこそのものです。逆ではありません(マタイ10:37-39)。
神ならぬものを神としたことが人間の堕落の始まりでした。それ故、まことの神を神とすることが人間再生の第一歩です。この礼拝的人生を、喜びをもって生きて行くことが主の恵みに応える道なのです。