旧約聖書における異言
- 使2:4,6 -
1. 新約聖書の異言への言及において,旧約聖書からの引用がなされているという事実
⑴ 使徒2:15ー21において,
① ペテロは,エルサレムに集まっていた巡礼者に彼らの直面している現象を説明するに当り,預言者ヨエルのことば(ヨエル2:28ー32)を引用している.
⑵ Ⅰコリン14:21において,
① パウロは,異言の不信者に対する役割の性格を,預言者イザヤのことば(イザヤ8:11,12)に言及しながら説明している.
- これらの事実は,異言の理解も旧約聖書全体の流れの中でなすべきことを示している.
2. 議論のある旧約聖書の箇所
- 異言への言及に際して新約聖書で引用している旧約聖書の箇所以外にも,異言について述べているかどうかで議論の分れる箇所がある.
⑴ 民数11:24ー29
① 70人の長老が経験した状態は,「霊」が与えられとどまったことの外的なしるしであり,異言で話すことを含む,との理解がある.
② ここで用いている用語は「恍惚状態で預言する」(11:25,26,27)であり,モーセ自身がこの状態を経験したとは直接述べていない,との指摘がなされよう.
⑵ Ⅰサムエ19:18ー24
① サムエルの監督する一団の預言者の預言活動には,「異言」と類似する現象が含まれていたのではないか,との理解がある.
② しかし,サムエルの預言者としての評価は,他のことに依存している。(Ⅰサムエ3:19,20)
⑶ 記述預言者の活動の記述には,異言についての直接的な言及はない.
- 以上のような限られた箇所から判断して,異言と見られるような現象があったとしても,それが真の預言者の第1の特徴とは思われない.
3. さらに古代において,
⑴ 異教の予言者たちは恍惚状態での表現,失神,狂亂的な行為とかかわっていたと言われ,普通でない言語で語る記錄も残されている.
⑵ ヘレニズム世界では,デルフィの予言者たちやシビュラ(巫女,女予言者)が未知な,あるいは不明瞭な話しことばで話し,また,ディオニュソスの儀式は,同様な恍惚状態での発言を含むと言われる.
- これらの現象と聖書の異言との類似とともに,区別にも十分注意を払う必要がある。
新約聖書における異言(1/2)
- 使2:4,6 -
1. 福音書
⑴ 福音書中に異言についての直接的な言及が見られるのは,マルコ16:17のみである. (16:9ー20を欠く異本もある)。
- そこでは,信じる人々に伴うしるしとして,「新しいことば」が挙げられている.
2. 使徒の働き
⑴ 使徒2章のペンテコステの記事には,弟子たちが聖霊に満たされ,外国語で話し始めたと受け取れる記述がある。(使2:4,6)
① 一般的な意味での外国語で話し始めたと解釈すると,「甘いぶどう酒に酔っている」(2: 13)と理解されたとの記述と矛盾するとして,ここでも,コリント教会におけると同様な異言現象を示しているとの理解もなされる.
② ペンテコステの出來事は,聖霊の公的賦与であり(ヨハネ20:22),新しい聖霊の時代の開始を示す.
③ 人類の言語が混亂したバベルの塔の記事と対照的であり,律法の授与が世界のすべての言 語でなされたとする伝承と対応するように記述されている(使2:8)との指摘がなされる.
④ 重要な点は,世界宣教との関係である.使2:9-11に見る国々の一覧表も示すように,ペンテコステの出來事は,キリスト者․教会にゆだねられている世界宣教の使命(使1:8)と切り離すことはできない.
⑵ その他の記述
① カイザリヤでの場合(使10:46)は,いわば異邦人のペンテコステであり,同様にサマリヤでの出來事(使8:17)や,エペソの回心者の場合(使19:6)も,それぞれの地域やグループへの聖霊の最初の到來を示す特別な証拠として価値を持つ,との理解が主張される。
② ペンテコステの出來事は,異言が,聖霊に満たされバプテスマ(洗礼)を受ける者にとって最初の経験として必要不可欠なものであることを示している,という主張がある.
③ 使徒の働きに登場する上記以外の人々が,聖霊を受けた時,異言で話したかどうかは,直接明記されていないので,確言できないとするのが妥当であろう.
④ 使徒の働きの記述そのものの中にも,異言が必ずしも最初の経験でない場合が少なくない(4:31,8:17,9:17,18)との指摘もなされる.
⑤ 異言は使徒的メッセージの確認を意図するしるしの賜物であり,この賜物は使徒時代の終結とともに終ったとする論証についても,直接使徒の働きからのみそのように確言することは困難である.
新約聖書における異言(2/2)
- Ⅰコリン12-14章 -
3.Ⅰコリン12-14章
パウロ書簡における異言への言及の代表的な箇所は,御霊の賜物について述べているⅠコリン12ー14章である.
⑴ Ⅰコリン12章
ここでは,御霊の賜物の豊かな多様性と統一性の中で,異言が取り上げられている.
① その背景としては,御霊にある生活を誤解していたコリント教会の熱狂的な人々が,異言を賜物の中で最高のものとして持ち上げる傾向があったことが考えられる.
② この傾向に対して,パウロは,賜物の多様性を強調し,御霊の賜物全体の中で異言を位置付けている.(12:28)
③ また,誰でも霊的な者は異言を語るべきだとの主張に対して,神の主権的導きを強調し,反論していると推察される. (12:29,30)
⑵ Ⅰコリン13章
この章では,相互の愛に欠けるところのあったと思われるコリント教会の人々(Ⅰコリン8:1ー 3)に,聖霊の導きと統治のもとで,この地上で真に霊的に生かされる道を示している.
① 主イエスにおいて明らかにされた愛に生かされることこそ,御霊の賜物をもって教会の徳を高めるために不可欠であり,御霊の賜物と御霊の実(ガラテ5:22,23)の深い関係が暗示されている.
② パウロの指し示す愛と御霊の賜物とは対立するものではない.キリストとの生きた結合の中に生かされるキリスト者․教会の豊かな生活․生涯の全体像の中で,パウロは異言を位置付けているのである.
③ パウロは,「愛を追い求めなさい.また,御霊の賜物,特に預言することを熱心に求めなさい」(同14:1)と要約している.
⑶ Ⅰコリン14章
この章では,異言の性質について語っている。
① 異言は,外国語ではなく(14:2),神秘的な言語表現であるとの理解がなされる一方,ある人々は,14:10に基づいてそれに反対する.
② すべての場合に解釈が必要とされる.解釈なしに異言は理解しがたい.(14:27-28)
③ 特に教会外部の人々から,異言を巡って誤解を受けやすい。(14:21-23)
④ 異言の不可解性を不信者のための「しるし」とし,旧約預言の成就として受け止めている。(14:21, イザヤ28:11,12)
⑤ この不可解さのゆえに非難を受けることを,パウロは認めている.(Ⅰコリン14:23)
⑥ 異言と預言は明白に区別され,預言は理解し得るもの,教会の徳を高めるもの(Ⅰコリン14: 4)とされている.
⑦ パウロは,自ら異言の賜物を受けていることを認めている(14:18)が,教会の徳を高めることを重視し(14:5,12,17,26),教会の秩序の大切さを強調して,(14:39,40)
と結んでいる.
4. その他の書簡
異言についての言及であるかどうか意見の分れる箇所としては,ローマ8:26,エペソ5:19,コロサ3:16,ヘブラ2:4等がある.