インマヌエル
- イザヤ7:14,8:8,マタイ1:23 -
1。語義
⑴ 「インマヌエル」は「神が私たちと共に」という意味である.
⑵ 神が共にいてくださるという思想は聖書全体に多く見られる.
① ヤコブがエサウから逃れて不安な旅に出発する時,神は共におられることを約束され た。(創28:15)
「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(創28:15)
② ヨセフがエジプトでの苦難の日々に耐えることができたのは主が共におられたからで ある。(創39:2ー3等)
「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家 にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、」(創39:2-3)
③ モーセが民をエジプトから導き出す働きにも主は共におられた。(出3:12等)
「神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを 遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」(出3:12)
- 神の民が悩みにあう時,また神の大きな働きに參加する時,生ける神が力を与え, 支えてくださるのである.
⑶「インマヌエル」ということばそのものは聖書に3回しか出てこない.
① イザヤ7:14,8:8,マタイ1:23である.(70人訳はイザヤ8:8を固有名詞としないので2回になる)
「わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7:14)
2。イザ7章の歴史的背景
⑴ 南王国ユダの王アハズの時代(前735/4年),アラム(シリヤ)の王とイスラエルの王と がアッシリヤと戦うために同盟を結ぶことを申し入れてきたが,アハズがそれを拒絶し たため,両国がユダに攻め込んできた。(イザヤ7:1ー2)
⑵ アハズはアッシリヤに助けを求めた。(Ⅱ列16:7ー8)しかし預言者イザヤは,政治的な策 略に頼って国家を守るのではなく,静まって神にこそより頼まなければならないという 主からのことばを王に伝えた。(イザヤ7:3以下)
⑶ そしてそのしるしを求めるように勧めるが,不遜にも王は聞き入れない.そこで主自ら 一つのしるしを与えられた.すなわちインマヌエル誕生の預言である.
3。解釈上の諸問題;「インマヌエル」はだれか.イザヤ7:14における「インマヌエル」とはだ れかについていくつかの説がある.
⑴ イエスの降誕がこの預言の成就として描かれているところから(マタイ1:23),これはキリス トを指す預言であったとする説がある。
⑵ 当時のメシヤ待望(Ⅱサム7:12ー16)と結びつけて,アハズ王の子ヒゼキヤとする説がある.
⑶ イザヤの子であるとする説がある。
⑷ 特定の人物を指すのではなく,子供が善悪を知る年齢になる前に,つまり短い期間内に 敵が滅ぼされることのしるし(7:15ー16)と見る説がある.
4。インマヌエルとしてのイエス
⑴ イエスの降誕を伝える記事の中でマタイはイザヤの預言が成就したと言う。(マタイ1:23)
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名 は、「神は我々と共におられる」という意味である。」(マタイ1:23)
⑵ イエスの生涯,十字架の死と復活を通してすでに神の臨在を体験したマタイは,それを 確信をもってあかしすることができたのである.
⑶ 神の使命をこの世において果すべくイエスが弟子たちを遣わす時,「見よ.わたしは, 世の終わりまで,いつも,あなたがたとともに」いる(マタイ28:20)と約束されたのは,ま さに彼こそがインマヌエルだからなのである.