主の家に住む者の幸い
詩篇84篇1-12節
http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2009y/090524.htm
本日は、詩篇シリーズの最後になります。詩篇84篇は、神殿での礼拝の喜びを表現したものですが、礼拝を無上の喜びとする詩人の心情が残るところなく表現されていると言えます。神殿での礼拝は、祭壇を中心に行われましたが、この祭壇で人は神の御声を聞くことによって神と出会ったのです。ですから、礼拝の中心点は、人が自分に語り掛ける生ける神の御声を個別的に聞くことによって、神との出会いを経験することと言えると思います。
キリスト教会では、毎週日曜日に礼拝を行っています。しかし、礼拝は日曜日だけしかできないわけではありません。日々の聖書朗読や祈りにおいて個人的な礼拝をすることができるのです。また、礼拝には神の愛に対して献身で答えるという要素があります。ですから、人生そのものが神への礼拝であると言えます。家庭生活や労働でさえも、神への礼拝の行為になり得るのです。礼拝とは、創造主であり救い主である神との交わりであり、人生において中心的な位置を占めるものだと言えます。ウエストミンスター大教理問答書の冒頭をご覧ください。これを読めば、人生とは礼拝そのものであることが分かります。
このように、礼拝とは、日曜日に教会堂で行われるだけがではありません。日常生活の中で、神に感謝したり、賛美したり、祈ったり、使命への献身の思いを新たにすることが礼拝なのです。
(1)自分の居場所としての礼拝
神への憧れ … 究極の願い
詩篇84篇1-2節は、神への飢え渇きが表明されています。このような魂の飢え渇きに似たものを考えてみましょう。幼子が親を慕う気持ち、恋愛において異性に惹かれる気持ち、親が子を思う気持ちがあります。神への飢え渇きは、本人が自覚しなくても、魂のもっとも深いところにあるもので、神との出会いによってしか癒されないものなのです。幼子が父親を慕うように、人間の心は神を慕っているのです。ただ、自分では何を求めているのか自覚しないだけのことなのです。
魂の棲家としての祭壇
3節は、<雀>や<つばめ>が祭壇の側に巣を作っている様子が書かれています。<雀>や<つばめ>は、神殿の石垣の間に巣を作っていたのです。日本でも宮にハトが舞うように、エルサレムの神殿には<雀>や<つばめ>が群れて、かしましいばかりにさえずっていたようです。詩人は、鳥が祭壇の近くに巣を作ったように、自分の魂も自分の家族も、神への礼拝が棲家なのだということを言いたかったのでしょう。
ここで、<つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇>という表現に注意しましょう。つばめは春の3月頃に南からやってきて11月頃に南に帰っていきます。3月から11月まで、卵を産んで雛を育て上げ、そして、一緒に南への遠い旅に備えなければならないのです。かなりのハードスケジュールですが、<巣>は、<つばめ>にとって雛を様々な危険から守り育てる子育ての拠点でした。その拠点が<祭壇>だというのです。家族の住処や子育ての拠点が「礼拝」、すなわち「神との交わり」だという見解は大変に重要なのです。礼拝は、家族を守り育てます。祈りのある家には、平安と祝福があるのです。
(2)神との交わりによる祝福
礼拝を中心に営まれる生
5節をご覧ください。1-4節は、神殿に住む者の幸いが描写されていましたが、5-7節には、神殿に向かって巡礼する者の幸いが謳われています。ここには、礼拝に出かける巡礼者の心の二つの特徴が書かれています。イスラエル人の男性は、年に三回の祭のためにエルサレムに巡礼することが要求されていました。人生を「巡礼の旅」になぞらえて見ましょう。現在では、旅とは楽しみの一つです。多くの人がバカンスのためにハワイやグアムに旅をします。しかし、古代においては、旅とは最も危険な行為でした。人生も似たようなものです。旅での危険が個人の力では対処できないことが多いのは、人生でも同じです。また、どんなに備えがあっても、運が悪ければ大きな被害を被ることになります。大商人でも、どんなに慎重に海が安定している季節を選んでも、海賊に襲われて立ち直れないほどの痛手を被ることもありました。運と不運の要素も大きなもので、人間の力ではコントロールできないのです。しかし、<なんと幸いなことでしょう>と、その幸いを享受する人たちがいるのです。それは、神を礼拝するために人生の旅をする巡礼者です。彼らは、「神を礼拝する」という理由の故に、幸運な者とされるのです。
彼らには、二つの祝福があります。一つは、<その力が、あなた(神)にあり>というところです。「弱いときにこそ、私は強い」という、パウロの言葉があるように、巡礼者は、人間の力が及ばない、運・不運のような諸々の力に翻弄されるような弱い自分に働く神の力によって生かされるのです。ダビデは、前王からの政治的迫害を受けて逃亡生活をしているとき、神が「砦」となり、「城壁」となって、自分を守ってくださったと告白しています。また、医学の力を超える病に襲われた時に、病の力を超えた神にゆだねるしかないですね。このように、人間を超えた力に対して、その力を遥かに超えた神の力に委ねることができるのは、大きな恵みなのです。
第二点は、<その心の中にシオンへの大路のある>というところです。<シオンへの>は原語にはありませんが、<心の中に大路のある>とは、巡礼への渇望が心の中の主要な願望であることを指しています。以前、衆議院議長を務めた片岡健吉氏について触れたことがありますが、礼拝への情熱は最後まで衰えなかったと言います。衆議院議長よりも、一キリスト教会の長老であることを選ぶ、と公言さえしたのです。詩人は、このような礼拝者が<なんと幸いなことでしょう>と言っているのです。なぜなら、このような巡礼者は、人生の主要な目的として、神との関係を持っているからです。
試練を祝福とする歩み
水が一滴も期待できない乾期でも、<泉のわく所とします>。これが、巡礼者の三つ目の祝福なのです。水は、巡礼の旅にとって、命を保つために最も重要なものでした。現代人にとって、<水>に相当するのは何でしょうか?お金と仰る方がいるかも知れませんね。確かに、現代では、水を初め命を繋ぐものはすべてお金で買えます。しかし、お金に限定すべきではないと思います。<泉>とは、「最も必要なもの」を満たす源を象徴的に表現したものと考えるべきだと思います。この「必要を供給する泉」とは、「父なる神」なのです。「父なる神」に繋がることが、「必要の満たし」の秘訣であることは、キリストの「山上の説教」のテーマの一つでもありました。
(3)神への信頼 … 究極の価値
人生の意味を知る
最後に、10-12節を考えてみましょう。個人的なことですが、今年は私が高校を卒業して40周年になります。来月には、40周年記念の同窓会が行われるのです。いろいろな分野で活躍している人がいますが、すでに亡くなった人たちもいます。その中には、栄光病院で最後の時間を過ごして、一緒に祈った同窓生もあります。高校を卒業して40年生きて、「人生とは何だろうか」という問いに答えを持たない方々がほとんどだと思います。そして、分からないままに人生を終える方も多いことでしょう。
10節をご覧ください。ここに、人生の価値を決めるもの、人生の意味と言えるものが書かれているのです。<あなたの大庭>とは神殿の一番外側の庭で、一般の巡礼者でも入れた場所でした。そこには、祭壇があり、人々は神を礼拝したのです。神を礼拝する一日は、神を礼拝しない千日にもまさるということです。神を礼拝しない年月は、ただ無駄に過ごしているのだと言っているのです。さらに、<神の宮の門口に立ちたい>をご覧ください。これは、悪人の仲間になってその繁栄を手に入れるよりは、神殿の門衛になりたい、という解釈が一般的です。口語訳と新欽定訳はそのように訳しています。しかし、岩波書店の訳(旧約聖書翻訳委員会訳)では、「(乞食として)敷居に寝る」となっています。岩波書店訳がどれほど根拠があるのかわかりませんが、「たとえ乞食として生きるとしても、神から離れた繁栄の人生よりも、神とともに生きる人生を選ぶ」という意味になります。一般的には、「(無名の)一門衛として生きるとしても、神から離れた生よりも、神とともに生きる人生を選ぶ」ということです。
あらゆる祝福の源として
11節を見てみましょう。ここには、礼拝者の「神の善意」への信頼が描かれています。太陽が毎年春を必ず来たらせて、大麦や小麦の収穫をもたらせ、ぶどうなどの夏の果物を実らせるように、神の忠実な善意は、<正しく歩く者たちに、良いものをこばまれません>。
一年毎のサイクルを忠実に来たらせて、地表にすべての恵みを与える太陽のように、神の善意は、あなたの人生に忠実に降り注がれているのです。私たちの人生は、それぞれ違います。しかし、太陽が一つであるように、あなたの人生を祝福される神は、唯一人なのです。
万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。 あなたに信頼するその人は。 詩篇84:12 |
12節をご覧ください。<あなたに信頼するその人は><なんと幸いなことでしょう>と書かれています。巡礼者は、危険な旅の途上にあるにもかかわらず、そそて、運と不運という人間の力を超えた諸力に翻弄される弱い存在であるにもかかわらず、「神への信頼」の故に、最も幸福な者とされるのです。