何を祈るべきか
私たちの神は、ボタンを押せば選んだ品を与えてくれる自動販売機ではありません。本来、祈り願う資格などない罪人であった私たちを、キリストの贖いの故に御自分の子どもとして受け入れてくださり、祈ることを勧めてくださった方です。ですから、「神に喜ばれ、この方に聞いていただけるような祈り」(問117)に必要なことは、神が私たちに「何を求めるようにとお命じに」なっているかを知ることです。
この問いに対し『信仰問答』は実に簡潔に答えています。それは「霊的また肉体的に必要なすべてのことです」と。霊的必要とは、私たちの魂に関わること。別に言えば、神との関係において必要なことです。肉体的な必要とは、私たちが地上を生きて行く際に必要なことであり、要するに、私たちの魂と体に必要なすべてを求めなさいということです。
私たちの“体と魂”を造ってくださった天の御父は、今やイエス・キリストのものとされた私たちの“体と魂”に必要なこと一切を満たしてくださるというのです(問1、26)。もし信仰者は信仰に関わることだけを求めねばならないと命じられたなら、何と私たちの祈りは苦しく味気ないものとなっていたことでしょう。しかし、私たちの御父は、何であれ私たちの必要を祈るようにと勧めてくださる愛と慈しみに満ちた方なのです。私たちもまた、喜びと平安をもって、この方にすべてを祈り求めることにいたしましょう。およそすべて良きものは「上から、光の源である御父から」来るからです(ヤコブ1:17)。
その際、大切なことは、何であれ私たちが欲することを祈るのではなく“必要”を祈るということです。祈りは、私たち人間の欲望を増大させる手段ではなく、私たちが御父との関係において豊かにされ、神の子どもとして成長して行くための手段だからです。とは言え、自分が欲しいものは山ほどあっても、自分の体や魂にとって何が本当に“必要”なのかは自分でも良くわからないのではないでしょうか。そこで、私たちはまず神の言葉に聞かねばなりません。私たち人間が求めるべきことは何であるかを聖書は教えているからです。
その意味では、聖書全体が祈りの教科書であると言うことができます。実際、旧約聖書の詩編は全編が祈りになっています。
天上と地上を包んでくださる神の御手にすべてを委ねる信仰へと私たちを導く祈り、それが“主の祈り”なのです。
また、たとい祈りそのものではないとしても、聖書に描かれる神と人間との物語は私たち人間にとって何が必要なのかを教えているからです。けれども、感謝なことに、ちょうど十戒が神の律法全体を要約しているように、聖書に教えられている私たちの霊的・肉体的必要一切を「主キリストは、わたしたちに自ら教えられた祈りの中に」まとめてくださいました。それが“主の祈り”と呼ばれる祈りです。
“主の祈り”はルカ(11章)とマタイによる福音書(6章)の二箇所に記されていますが、両者を合わせたような形に、最後の「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン」を加えたものをキリスト教会は使い続けてきました。
古代教会ではキリスト者が日に三度この祈りを唱えるという習慣があったようですが、教会でも個人でもこの祈りを用いることは有益です。何より主イエス御自身が「こう祈りなさい」とお命じになった祈りですし、キリストの教会はいつの時代でもこの祈りによって力を与えられてきたからです。とは言え、これを呪文のように用いる必要はありません。“主の祈り”は祈りのモデルであり基本ですが、言葉そのものよりもそこで祈られている精神が大切です。
十の戒めが神との関係と隣人との関係についての戒めに分けられたように(問93)、六つの祈りからなる“主の祈り”もまた、神に対する私たちの霊的姿勢を整える三つの祈りと地上の生活に関わる三つの祈りに分けることができます。実際、この二つの間を私たちの生活は行ったり来たりしているのではないでしょうか。
いつも地上のことばかりに偏りがちな私たちの心は、天へと高く上げられる必要があります。けれども、天上ばかりを見上げて生きて行くことはできません。むしろ天上と地上を包んでくださる神の御手にすべてを委ねる信仰へと私たちを導く祈り、それが“主の祈り”なのです。