私の慰め
- 詩篇119:49~50 -
[インマヌエル 下巻.6-33]
[詩篇119:49~50] 「49 どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。50 これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。」
*** 「心がその人自身の苦しみを知っている。その喜びにもほかの者はあずからない。(箴言14:10)」とある。誰しも自分だけが知る苦難を抱えている。その苦難を解決できる真の慰めを見いだすなら、それはまことに幸いであり喜びとなるであろう。
1. キリスト者は皆、独特の慰めを受けている。
(1) その慰めは世の人々の慰めとは異なる。
○ 世の人々は自分たちが好むものから慰めを求める。しかしキリスト者は神の御言葉から慰めを求める。- 「あなたのしもべへのみことばを思い出してください。.... これこそ悩みのときの私の慰め。」(本文)
「7 主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。8 主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。」 (詩篇19:7-8)
(2) その慰めはすべて神である父の愛から生じるものである。
○ その慰めは人から来るのではなく、私たちを愛してくださる神から来る。
「わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」(ヨハネ福音書17:23)
2. その慰めはどのようにキリスト者に現れるか?
(1) キリスト者は神の御言葉が「私の慰め」であると告白する。
○ 「まことに、みことばは私を生かします。」(本文)
① 私たちの神はすべての慰めの神である。
「3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」 (第二コリント1:3-4)
② 私たちの神は、神の言葉(聖書)によって私たちを慰めてくださる。
「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」 (ローマ書15:4)
(2) キリスト者は神の愛の手から「私の慰め」を体験する。
「16 どうか、私たちの主イエス・キリストであり、私たちの父なる神である方、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、17 あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。」(第二テサロニケ2:16-17)
① 神は私たちのあらゆる患難の中で私たちを慰めてくださる。
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(第二コリント1:4)
② 神は私たちの嘆き悲しむ祈りを聞き、私たちを慰めてくださる。
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ福音書5:4)
③ 神は私たちに信仰を与えて、互いに慰め合うようにされる。
「兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。」(第一テサロニケ3:7)
(3) 世の人々は肉の欲望の中で「自分の慰め」を求める。
○ 世の人々にもさまざまな形の慰めがある。しかしそれは神が与えてくださる慰めではない。<ガラテヤ書5:18-21>
① 富と栄誉を慰めとする。しかしそれは空しいものである。
② 夢や幻、占術などを慰めとする。しかしそれは迷信的である。
③ 偶像崇拝と道楽を慰めとする。しかしそれは悪しきものである。
④ 友を慰めとする。しかしそれは落胆の原因にもなる。
3. では「私の慰め」は?
(1) 「私の慰め」は真に神の御言葉から来ているか?
○ フッド牧師(Rev. E. Paxton Hood)は言った。「この祝福された聖書があなたを生かしたか? ならばあらゆる患難の日にこの聖書を読め。あなたを失望させないだろう。」
(2) 私は「私の慰め」を神の愛の手から体験しているか?
○ 神はイザヤ預言者にこう言われた。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ書41:10)
(3) もしかして私は「私の慰め」を肉の欲望に求めてはいないか?
○ 使徒パウロはキリストの弟子となった者たちに注意を促した。
「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。」(コロサイ書2:8)
*** キリスト者にとって「私の慰め」とは、神の言葉が与える生命力、神の臨在と同行、聖霊の働き、永遠の希望を通して経験する神中心の平安と回復を意味する。
また「神の慰め」とは、聖書においてあらゆる患難の中にある聖徒たちに神が与える慰めを意味する。神は私たちより先に苦難を経験されたイエス・キリストを通して、またあらゆる慰めの神として聖徒たちを慰め、この慰めを通して聖徒たちが他の患難に遭う人々を慰めるようにされる。