イサクは、⺟のなきあと、慰めを得た
創世記24章67節
[創世記 24章67節] イサクは、その⺟サラの天幕にリベカを連れて⾏き、リベカをめとり、彼⼥は彼の妻となっ た。彼は彼⼥を愛した。イサクは、⺟のなきあと、慰めを得た。
+ 「イサクは、その⺟サラの天幕にリベカを連れて⾏き、リベカをめとり、彼⼥は彼の妻となった。」とあります。イサクとリベカは結婚しましたが、⺟サラの天幕で結婚式をしたということではありません。「天幕」のヘブル語は「オーヘル」(אֹהֶל)で、移動式の住居を意味します。モーセの時代になって、神と⼈とがともに住むことを⽬的とした「幕屋」を「天幕」と表現するようにもなりましたが、基本的に「天幕」は移動式の住居を意味する語彙です。「イサクは、その⺟サラの天幕にリベカを連れて⾏き」とは、⺟サラの天幕がイサクとリベカの新居となるという意味です。「めとる」と訳されたヘブル語は「ラーカハ」(לָקַח)で、その基本的な意味は「取る」(英語だとtake)です。そこから「受け取る」「めとる」「召し入れる」「結婚する」という意味が派⽣します。
+ 「ラーカハ」(לָקַח)の初出箇所は創世記2章15節です。「神である主は⼈を取り(לָקַח)、エデンの園に置き、・・」とあるように、神と⼈とがともに住むエデンの園に、神ご⾃⾝のかたちに形造った⼈を取って(めとって)、エデンの園に「置く」(「ヌーアッハ」נוּחַ)ということの中に、⽬に⾒える結婚の奥義が隠されているかもしれません。というのは、「ヌーアッハ」(נוּחַ)は、単に置くという意味だけでなく、「安らかにする、安息を与える、いこわせる」という意味もあるからです。
+ 「⼈が、ひとりでいるのは良くない」として、主は⼈に深い眠りを下して、彼のあばら⾻の⼀つを取って(ここにも「ラーカハ」が使われています)、ひとりの⼥を造り上げ、その⼥を⼈のところに連れてきています。それゆえ⼆⼈は結び合い、ふたりは⼀体となります。「結び合う」と訳されたヘブル語は「ダーバク」(דָּבַק)で、それはにかわのような強⼒な接着剤を意味します。本来の神と⼈とのかかわりを、「⼀体となる」という結婚の形で啓⽰しようとしています。
+ 神の導きによって与えられたリベカによって、イサクは慰めを与えられます。「慰められる」という語彙は、⺟サラを亡くしたイサクの⼼に「慰め」が与えられたとも言えますが、「ノア」が「慰めの⼦」として神のご計画を担った⼈物であったように、リベカの存在も、神のご計画にある神の「慰め」を継承する存在と考えられます。「慰め」とは、単なる個⼈的・⼼情的な意味ではなく、むしろ、神のご計画を担う者としての新たな⼒としての慰めを与えられたと解釈できます。神のご計画に参与するという意味での「慰め」としての意味が、イサクが「慰めを得た」という表現に込められていると考えられます。
+ イサクにとってのリベカは、亡き⺟サラに代わる新たな⺟となるべき存在でもあります。ヘブル語の「⺟」(「エーム」אֵם)には「分岐点」という意味があります。創世記25章1節に、父アブラハムがもうひとりの妻(ケトラ)をめとったとあります。しかしその流れは、決して神のご計画を担うものではありません。むしろ担いの流れはリベカの⽅にあります。リベカは、完全にアブラハムからイサクへと移⾏する分岐点を作り出す存在でもあるのです。さらにリベカの胎の双⼦(エサウとヤコブ)の間にも神のご計画を担う者とそうでない者との分岐点があることが、まもなくリベカに啓⽰されていきます。エサウの子孫となるヘロデ一家と、ヤコブの子孫であるイスラエル(ユダ族、イェシュア、イェシュアの弟子たち)との間にある衝突は、神の主権において、リベカの胎内からはじまったのです。
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